第8話

 怜の目に、驚きが広がるのが見えた。

「何時間か前、電話で怜に謝ったよね。あのときの会話が証拠だよ」

「会話が証拠? 何言ってんの?」

「そもそも、好美がわたしに気づけたことが、引っかかったんだ」

 あのときの、カーブミラーに映った自分の姿を思いだす。

「わたしは変装をしていた。自分で言うのもなんだけど、上手な変装だったよ。実際に、電車の中で清田先生と鉢合わせになったけど、先生は気づかなかった。でも、好美はすぐにわたしだと判った。よく考えると、変だよね」

「好美は鋭い。清田とは違う」

「最初はわたしもそう思った。でも、初日の調査のとき、好美はわたしとニアミスをしたけど、気づかなかった。あのときの変装のほうが、全然下手だったのに」

「たまたまでしょ、そんなの。何の証拠になるのよ」

「そう言われると思ったよ。だから、わたしは──あの電話の途中で、わなを仕掛けたんだ」

 わたしは怜の顔を覗き込んだ。

「怜は言ったよね。〈みどりが言うように、好美は鋭いし〉。これは、どういうこと?」

「どういうも何も……そのままの意味だよ。好美に尾行がばれたんでしょ?」

「そうだよ。でもわたしは、わざと言わなかったんだ。誰に尾行がばれたかをね」

 怜が、あっと声を上げた。

「あの電話の最中、怜がわたしのことを密告した可能性に気づいたんだ。だから、誰にばれたのか、わたしはあえて伏せて話をした。でも怜は、相手が好美だという前提で話をしてた」

「それは……ばれるなら、好美だと思ったから」

「おかしいよ。調査対象は清田先生だったし、好美はしばらく先生と会ってなかった。尾行がばれたと聞いたら、清田先生が相手だって思うのが普通だよね。でも、怜は好美だと思った。好美がわたしを見つけることを、知ってたからだよ」

 怜の目をじっと見つめると、耐えきれないように目を逸らした。

 わたしたちは、歩き続けている。

 怜のスニーカーの足音だけが、あたりに響く。ぱたぱたというどこか軽やかなその音は、わたしたちを取り巻く重い空気とは、別の世界で鳴っている感じがした。

「みどり」

 怜の声の調子が、変わっていた。

「そこまで判ってるなら、代わりになってよ」

 怜はそう言って、わたしを見つめる。

「私の代わりに、ターゲットになって」

 わたしたちは足を止める。そこは、校門だった。怜が乗り越えようとした、門の前。

「みどりには判る? 私が毎日、学校にくるのがどれだけきついか。くれば百パーセント嫌なことが起きるって判ってるのに、こなきゃいけないことが。うち、親もクソでね。家に引きこもるとか転校するとか、そういう選択肢もないんだ」

「同情はするし、解決するつもりなら協力する。でも身代わりにはなれないよ」

「みどりはすごいよ。まさかこんなにかんぺきに調査をやってくれるなんて思ってなかったし、計画が見破られるなんて思いもしなかった。頭もいいし、行動力もある。好美のターゲットになっても、みどりなら上手くやっていける。もう私は、限界なんだよ。だから、写真を貼りに行かせて」

 怜はそう言って、わたしの目を覗き込む。

「みどりは、偽物じゃないよね」

 怜の声に、すがるような色が混ざった。

「前にみどりは、私のことを助けてくれた。今回も、私のために調査をしてくれた。その気持ちは、本物だよね」

「少なくとも、怜を助けたい気持ちはあったよ」

「じゃあ、最後まで本物でいて。私の代わりになって、私を助けて」

 怜の声に、湿り気が混ざった。暗闇の奥。怜の瞳が、憑かれたように光った。

「ごめん、無理」わたしは言った。

「わたしにそんなことはできないよ。自分を犠牲にしてまで人を助けるのは、無理」

「みどり。がっかりさせるようなことは言わないで」

「無理だって。わたしの善意は、そこまで強くない」

 怜はわたしを脅すように、湿り気のある目でにらんでくる。「でも」と、わたしは言った。

「別の解決策は用意してきたよ」

 わたしはそう言うと、肩にかけているリュックサックを下ろした。手袋をめ、中に入っているものを取りだす。

「何それ……水?」

 手の中にあるのは、ミネラルウォーターのペットボトルだった。

「水じゃない。これは、灯油だよ。これを使って、清田先生の家を燃やす。そうすれば、問題は解決する」

 怜がハッと息を吞むのが聞こえた。

「清田の家を燃やす? なんでそんなことを……」

「このペットボトルは、好美が捨てたものなんだ。つまりこれには、好美の指紋がたっぷりついてる。清田先生の家に火をつけて、このペットボトルを現場に捨ててくれば、犯人は好美ということになる。生徒と教師が交際した挙げ句、破局。傷ついた生徒がやけになって火をつける──ありそうな話だよね」

「そんなものを置いてきたからって、好美が捕まるとは限らない。警察が調べたら犯人じゃないって判るよ」

「捕まらなくても好美はみんなから疑われるし、清田先生のことも周囲にばれる。先生と破局した挙げ句、火をつけた女──プライドの高いあの子のことだから、そんな風な目で見られることには耐えられないと思う。学校にこれなくなるはずだし、退学しちゃうかもしれない。どっちにしても、怜は平和な生活を取り戻せる」

 わたしは、怜の顔を覗き込んだ。

「怜は、わたしの家を燃やすって言ってた。その悪意が本物なら、できるはずだよね」

 怜の目が、大きく見開かれる。わたしはペットボトルを怜のほうに差しだし、ちゃぽ、ちゃぽと鳴らしてみせる。怜は息を吞んだまま、それを受け取ろうとしない。

「怜は、偽物じゃないよね」

 怜の全身が、かたかたと震えだす。

〈人間〉が見えた。

 家に火をつけると言っていたときの、あの危ない怜はもういない。助けてとわたしに言ってきたときの、かわいそうな怜もいない。それらをがした先にある、彼女の〈人間〉。隠されたものを見つめる快楽が、わたしの胸を満たした。

「怜」

 怜がびくっとする。わたしは、ペットボトルのふたを開けた。

「ただの水だよ」

 それを口元に持っていき、中身を飲む。冷たい液体が、喉を通っていく。怜の目が、さらに見開かれるのが見えた。

「ここにくる前に、自販機で買ってきた。怜も、飲む?」

「みどり……? 何考えてんの……」

「怜が放火なんかできないことくらい、お見通しだよ。ちょっと意地悪したくなっただけ」

「みどり……」

 怜は肩を落とした。一連のやりとりで、一気に疲れてしまったようだった。別にそのことへの同情は湧いてこない。わたしを振り回した報いとして、これくらいは受けるべきだと思った。

 だから、これからすることは、怜の言う通り偽善なのかもしれない。

 でも、わたしはたまにこういうことをする。そう、これはただの、気まぐれだ。

「怜。もうひとつ、解決策があるんだ」

 わたしは言葉を続けた。

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