第3話 人斬り半次郎

 幕末期、勤王の志士たちにとって、徳川家に祟る妖刀村正は必須の一振であった。中でも討幕派の急先鋒であり、刀好きでもあった西郷隆盛は、村正の大小を熱心に探し求めたという。

 それが徳川幕府打倒の一念ゆえからのものであったことは想像に難くない。

 しかしながら、西郷の不思議なところは、せっかく手に入れた村正を惜しげもなく人にくれてやることであった。ひどいことに借り物、預かり物の刀まで、「よか、よか」と、人に与えてしまうのである。終生、所有欲や独占欲とは無縁だったと言っていい。 

 その西郷のお気に入りは、桐野利秋としあきこと中村半次郎であった。

 食禄しょくろくわずか五石ごこくの家に生まれ、家格は藩士のうちでもっとも低いお小姓組であったが、幼時より武芸を好み、薩藩さっぱん御流儀示現流じげんりゅう宗家である東郷とうごう家の親戚、伊集院いじゅういん鴨居の門人となった。鴨居は達人の名が高かった。

 しかしながら、貧乏ゆえに長く道場へは通えなかった。束脩そくしゅう(授業料)の都合がつかないのである。

 やむなく半次郎は習い覚えた太刀遣いを、一人稽古で鍛錬した。庭の立木をひたすら打撃するという烈しい打ちこみ稽古により、数年後、庭の樹木はすべて立ち枯れた。

 その頃になると、半次郎の太刀筋は迅速をきわめ、軒先から落ちる雨垂れを地面につくまでに三度斬るとまでいわれるようになった。

 薩摩藩のだれもが半次郎の剣技を認め、また胆力もあることから、西郷隆盛にも「ふところ刀」として信用された。

 幕末の文久年間、半次郎は京都の藩屋敷に西郷の護衛として詰めた。その折、西郷から拝領したのが、千子せんご村正であった。

 当時、京都では攘夷浪士たちが幕府要人らの暗殺を繰り返し、無警察状態となっていた。勢い、京都守護職松平容保配下の新選組の市中取り締まりも厳しくなる。

 半次郎もまた多数の佐幕派を斬り、会津藩士や新選組から仇敵のように憎悪されるとともに、「人斬り半次郎」として怖れられていた。

 ある日、半次郎は有馬藤太という藩中屈指の剣士と四条通りを歩いていた。薩摩下駄を鳴らしながら行くと、前から新選組の武田観柳斎かんりゅうさい以下、十人ほどの隊士がやって来るではないか。

 観柳斎は五番隊の隊長である。ところが、この日はなぜか、一番隊の隊長である沖田総司そうじが観柳斎と肩を並べて談笑しながらやって来た。

 彼らは、半次郎と藤太の顔を見ると、目をみはり、立ちどまった。

 藤太が半次郎に声をかける。

「こりゃいけん。観柳斎ならともかく沖田もっで」

 半次郎は鼻先で笑った。

乱暴者ぼっけもんの藤太どんにしては、なさけなかごつ。よか日和の挨拶でもして、通りすぎればよかじゃろうが」

 目の前をかすめるように悠々と歩く二人を、観柳斎が睨みつけ、刀の鯉口に手をかけた。隊士たちもそれにならう。

 まさに一触即発となったとき、沖田が笑いながら言う。

「観柳斎先生、今日はよい日和で、女子供らも楽しげに歩いております。今回はやめときましょう」

「うっ、うむ」

 前年の慶応元年八月八日、新選組は三条蹴上の料亭に集まっていた薩摩、土佐の志士たちを急襲した。

 このとき、沖田総司は中村半次郎と刃を交えたが、まったく互角の勝負であった。鍔競つばぜり合いのあと、半次郎が先に刀をひき、身をひるがえして逃げてくれたものの、そうでなかったらと思うと、総司はいまでもひやりと背筋が寒くなる。

 あのときの半次郎の佩刀は、音に聞く村正であった。妖しげな殺気が刀身に玉散るように満ちあふれ、総司はこれが村正の秘められた力かと感嘆した。

 この後、明治十年、半次郎こと桐野利秋は西郷隆盛とともに新政府軍と戦い、薩摩城山しろやまにて果てた。

 人斬り半次郎として名を馳せた剣豪の名刀の行方は、現在もようとして知れない。それは、新政府の探索の手を逃れ、江戸千駄ヶ谷の寓居ぐうきょにおいて歿した沖田総司の愛刀菊一文字きくいちもんじの場合もまた然りである。

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