ドライブ(最終話)

「ほら、あの子に声をかけてきなさい」


 彼の言葉に、幼い息子は顔をしかめ、助手席から動こうとしなかった。

 彼は内心舌打ちをした。まだ六歳だというのに、彼の息子はなかなか賢いということが、如実に表れはじめていた。

 親子二人のドライブも、そろそろ潮時かもしれなかった。

 息子は、膝の上に載せた虫かごの中をじっと見つめている。その中には、午前中いっぱいかけて二人で捕獲した蝶が入っていた。網に絡まっていたそれを、男は手が鱗粉だらけになるのも構わず、原型を損なわないよう最大限の注意を払って、かごの中に移動させた。そうして捕えたせっかくの獲物が、狭いかごの中で窮屈そうに飛び回った挙句、翅を閉じてじっと動かなくなったのを見て、息子は「逃がしてあげようよ」と言った。

 とんでもないことだ。


「あの女の子は、一人で寂しそうだろう。お前が友達になってあげたら、きっと喜ぶ。わたしなら、あの子を無事に家まで送り届けてあげることができる。お前は、あの小さい子が悪い人にさらわれて酷い目に遭ってもいいのか?」


 という言葉を彼は呑みこんだ。息子はこの年齢にしては理屈っぽく、納得がいかなければ父親に意見することも厭わない。それで叱られることになろうとも。厄介な性格だ。賢い上に、正義感が強いとは。きっとこれからの人生で負わなくていい苦労を山ほど背負うことになるだろう。


「わかった」


 息子は、父の目を見ずにそう言うと、うなだれたまま助手席のドアを開けて、車を降りた。車は黒のミニバンで、公園の入口付近に停車していた。

 ファミリーカーを買おうと提案したとき、彼の妻は冷ややかにこう言った。


「でも、それは、ファミリー向けの車なんでしょう?」


 そんなものを一体どうする気だと言わんばかりだった。彼の妻は世間知らずだが、愚かではない。彼が妻を、家庭をあまり顧みない男だという、現状では特に証拠があるわけではなく彼女が肌で感じているに過ぎないことを、二人目の子を産んでもなお払拭できないようだった。その真否はさておき、彼が車内のゆったりとした空間を有効活用できる恩恵は、家族だって享受できているはずだ。二歳の娘は今日は急な発熱で自宅で妻とお留守番中だが、後部座席のチャイルドシートに娘を載せても、まだ買い物の荷物を大量に載せるスペースがあるのは、よいことだろう。家族四人でのお出かけだって、彼は義務だと思って粛々と遂行している。


 待望の女の子の誕生を、彼は心から喜んだ。内心の喜びを抑えるのに苦労するほど嬉しかった。だが、彼の娘は、生憎と、彼が望んだような姿には成長しそうにないということが、まだ二歳だというのに残酷に表れていた。

 まず色が黒過ぎた。そして、もっと残念なことに、顔の特徴は両親の悪いところだけを受け継いでいた。長男である息子とは大違いだった。息子は一目でわかるほど母親似で、色白で伏し目がちな大人しい子だった。彼のような男が子供に求める美徳。控えめだが美しく、内気でお喋りではない。この子が女の子だったらと、どれだけ願ったことだろう。


 その息子は、虫かごを大事そうに両手で抱えたまま、先程から公園を一人でぶらぶらしている同い年ぐらいの少女に、遠慮がちに近づいていく。控えめだが整った息子の顔立ちは、初対面の少女に警戒心を抱かせない。彼のような大人がどう頑張ったところで、幼い少女たちを警戒させずにいられないのとは対照的に。

 男は上背があり、ジムで鍛えている体は適度に筋肉質で見栄えが良かったが、そんな魅力は幼い少女たちには通用しない。いくら丁寧に髭を剃って清潔感を出してみても効果はなく、ただ体が大きいというそれだけで不信感を抱かせてしまう。顔だって、切れ長の一重瞼が冷酷な印象を与えてしまう。少しでもマシになるかと眼鏡をかけてみたが、あまり効果はないようだ。会社の女性陣にいくら評判が良くても、彼はさっぱり喜べない。

 公園内では、女の子の方から、息子に話しかけている。満面の笑みで。

 昆虫を餌にするというのは、我ながら名案だったと彼は悦に入る。お陰で午前中いっぱい息子と虫取り網を振り回して公園中を駆け回ることになったが、その甲斐はあった。少女はかごの中の綺麗な蝶々に夢中だ。それに、彼の息子に対し明らかに好意を抱いている。見ろ、あの目つき。あれはもういっぱしの女で、男を誘っている目だ。幸い男の子はそれほど早熟ではない。息子は少女があまりにもあっさり食いついてきたので戸惑いを見せている。腰が引けて、今にも逃げ出しそうだ。

 まったく。

 小さく呟くと、彼は後部シートとの間の広々とした空間に置いたクーラーボックスからペットボトルのジュースを二本取り出した。


「シン」


 彼は笑顔で息子に近づいて行った。そして、二人の前に立ってから、ようやく少女の存在に気が付いたと言った様子で、彼女を見る。


「やあ、こんにちは」

「こんにちは」


 無言で彼を見上げていた少女は、驚いた顔をしたが、素直に挨拶を返した。これはいい兆候だ。


「こんなカンカン照りの下でお喋りしてたら、熱射病になってしまうよ。車の中で少し涼んだらどうかな」


 別にどっちでもいいんだけど、という感じが大事だ。無理強いは絶対にしないように。


「えっ、でも」少女はちら、と息子の方を見た。息子は俯いて、彼女と目を合わさないようにしている。あれでは、下心がありますと告白しているようなものじゃないか。

「冷たいジュースもある。ここで飲んでもいいけど……日焼けしちゃいそうだな。おじさんは車の中にいるから、よかったら二人でおいで」


 少女と息子にジュースを渡して、くるりと背を向け、車に戻る。途中で振り向いて、息子に顎で促すと、渋々彼の後について歩き始め、少女もそれに従った。

 二人に背中を向けたままなので、にんまりとほくそ笑んだ彼の顔は、二人に見られることはなかった。


「うしろの座席で飲むといい。二人仲良くね」


 ドアをスライドさせて二人を押し込むと、彼は運転席に移動した。


  *


 失敗したくないという気持ちが強すぎた。振り返ってみて、彼はそう反省した。

 息子はもう「全部夢だったんだよ」では誤魔化せない年齢にさしかかりつつある。いざとなったら、「息子と仲良くなった子を家に送り届けようとしただけ」と言い訳することができ、理想的なメソッドだったのだが、非常に残念なことに、彼の息子は賢いから、そろそろ潮時。今回で最後にしようと決めた。しばらくはなりを潜めているつもりだった。そう、娘の成長でも見守りながら。

 だから、仕事納めをつつがなく完遂するために、薬の分量を少々多くし過ぎたのだ。息子の分は、今回が五度目ということもあり、後々影響が残っては困るからと少なめにしたのだが、使い捨ての少女に対しては、いささか配慮を欠いていたと認めざるを得ない。幼い子供というのは、こちらが期待するほど肉体が強靭ではない。


「お父さん?」


 助手席に移動させた息子が、眠そうに目をこすりながらこちらを見ていた。


「寝てなさい。まだ当分着かないから」

「どこに行くの?」

「ピクニックだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。今日は、ハルちゃんが具合が悪いから、二人でドライブするって言っただろう」


 息子はむっつりと顔をしかめて、半眼で考え込んでいる。遠出の約束はしていなかったことを指摘されると厄介だと思い、男は息子に飲みさしのペットボトルを渡した。やむを得ないため、先に女の子に渡した方を。大丈夫、息子は細身だが、年齢の割に背が高く、身体は女の子より強靭なはず。


「あの子、どうしたの?」

「どの子?」

「女の子」

「ああ、さっきの子か。家へ帰るって言ったから、降ろしたよ。送るって言ったんだけど、断られたから」

「そう」

 ごくりと小さな喉が上下し、ジュースを飲んだことを横目で確認してから、早々と眠そうに頭がかくかくし始めた息子の手からボトルを取り上げた。


「ちょう、ちょ」

「うん?」

「ぼくの、どこ?」

「ああ、それなら、うしろに置いてあるよ」


 しまった、と男が思った時には既に遅く、息子は大義そうにシートベルトの下で体を捻って、後部座席を覗いていた。


「あしが、はえてるよ」


 バックミラーで確認すると、助手席の後ろに取り付けたチャイルドシート(十一歳まで使えるもので、二歳の娘用だが急遽調整を加えた)に違和感なく納まった少女に頭からかけてあったタオルケットがずれ、赤いスカートとその下からだらりと伸びる足が覗いていた。


「そうか? お前、夢をみているんだよ」


 乾いた笑い声を立て、男は息子の体をそっと正面に向けさせ、胸の辺りをポンポンと叩いた。ほどなく、静かな、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 こういうこともあろうかと、近場で下見しておいてよかった。アウトドアには興味がなかったが、子供たちのキャンプにかこつけて、彼は下準備に余念がなかった。キャンプ場として提供された安全な領域から少し外れれば、彼が今回のような非常事態に陥った場合の要求を満たす場所が、いくらでもあった。

 彼と趣味を同じうする仲間から、「万全の対策」について冗談めかして言われた時には笑って聞き流そうかと思ったが、彼はあくまでも慎重な男だった。息子や娘のためにも、そうあらねばならない。


 娘か


 まだ二歳の、我が娘。彼の好みには、少々若すぎるうえ、彼が求めるタイプではないのだが。子供は二人で十分などという妻を説得することができるだろうか。彼女には、子育てに没頭してもらったほうが都合がいいし。


「にげて、はやく」


 怖い夢でも見ているのか、息子が小さく叫んだ。

 信号待ちで車を停止させ、男が背後に目を向けると、虫かごはシートから転げ落ちて、逆さになっていた。

 男は運転席から手を伸ばして、虫かごやその中身には目もくれず、後部座席にかけたタオルケットの位置を調節した。彼の手に触れた皮膚にはまだ温もりが残っていた。

 毎回このように面倒なあと処理に追われるのではかなわないが、もはや泣き叫ばれる心配はないというのは理想的かもしれない、と彼は思う。


 あの子が呼吸をしていないことに気付いてすっかり慌ててしまったが――


 彼は素早く思考を巡らし、途中で人目につかずしばらく車を停車させられる場所を考えた。息子がぐっすりと眠り込んでいる間に、ほんの三十分ほどでいい。そういうことなら、常日頃から頭の中でシミュレーションしている。

 彼は知らず知らずのうちに鼻歌を口ずさんでいた。助手席で眉間に皺を寄せて固く目を閉じていた息子の表情が、次第に穏やかになっていった。

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