第19話 ハルカ

「ねえ、シン。この指輪が欲しいんだけど。クリスマスに買ってよ」

「変わったデザインだね。これ、なに。リボン?」

「違うよ。ほら、ダイヤははねで、ルビーが胴体。可愛いでしょ? わたし、このブランド好きなんだ」

「大学生が買えるような値段じゃないよ。ゼロが多すぎる」

「じゃあ、プロポーズするとき、これにしてよ。絶対これがいいんだからね。ちゃんと覚えといて」

「……」


 兄の部屋の前で恋人たちの睦言に聴き耳を立てていたハルカは、忍び足で隣の自室に戻ると、スマホで件の指輪を検索してみた。女が口にしたブランド名から簡単に割り出すことができた。ハルカは鼻を鳴らした。なんともガーリー乙女趣味な代物で、バカみたいに高価であった。臓器を一つや二つ売り払ったぐらいでは無理だろう(闇マーケットで安く買い叩かれることを前提とした計算だ)。

 堅実な兄がこんな悪趣味なものに大金を払うわけがないし、あの女と結婚するなどとんでもない。受験などという目先のものに気を取られて、あの女の好き放題にさせすぎた、とハルカは思った。

 その他大勢と同じく、ハルカも美人と評判の兄のガールフレンドは早々に別の男を見つけて去っていくものと思っていた。だが二人は別々の大学に進学したものの、一向に別れる気配がない。恐らく、人のよい世間知らずな兄に体を餌に貢がせているのだろう。うかうかしていたら、兄はとことん食い物にされ、莫大な借金を背負わされてしまう。


 シンイチの彼女は図々しくも夕飯まで食べてからようやく帰って行った。父親はいつも通り帰宅が遅く、ハルカは腹痛を理由に自室に籠っていた。ベッドに横たわったままスナック菓子を貪るハルカの耳に、階下から女性陣の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 母親のくせに、息子を奪ったビッチに対してなぜあんなに愛想がいいのか、とハルカははらわたが煮えくり返る思いだった。同人誌では、親子で道ならぬ関係を結ぶ話も多いというのに、息子に対する愛情が足りないのではないか。

 ハルカはその晩、家族が寝静まるのを待って、兄の部屋に忍んで行った。その結果が、あの酷い言葉。


「お前なんか、死ねばいいのに!」


 怒りのあまり震える兄の嫌悪に満ちた表情から、ハルカは自分が行き過ぎた行動をとったことを悟った。

 だがそれにしたって、真夜中にあんな、ご近所中が目を覚ましそうな大声を出さなくてもいいのに、とハルカは思う。実際に近隣の住民の惰眠を妨害したかはともかく、少なくとも階下で眠る父母を叩き起こすには十分だったようで、二人は泡を食ってシンイチの部屋になだれ込んできた。

 その両親に対し、シンイチは語気荒く吐き捨てた。


「あいつをもう二度とぼくのそばに近寄らせないでくれ」


 シンイチはそれ以上語ろうとしなかったが、布団を体に巻き付けてむせび泣いている彼の様子から概ね察したらしい両親にハルカがこっぴどく叱られたことは言うまでもない。

 この件に関しては、未だに兄を許していない。いや、自分を拒絶したこと自体が許し難い行為だったが、両親に告げ口をするとは。

 目を覚まして、布団のなかに潜り込んだハルカが何をしているのかを悟った瞬間、シンイチはわけのわからない叫び声を上げながらハルカの髪の毛を乱暴に掴んで力任せに引きはがし、はだけた彼女の胸に蹴りを入れた。その勢いでハルカはベッドから転がり落ちた。

 パジャマの前を直しながら、汚らわしい、お前は獣か云々容赦のない罵倒を浴びながら尚も兄に縋りつこうとしたハルカの顔面を、シンイチは容赦なく拳で殴りつけた。ハルカは、痛みとショックでしばらくは呼吸すらできなかった。そのうえ、よくもあんなひどい言葉を。大事な妹が鼻血まみれで床に倒れているというのに放置するとは、まったく男の風上にも置けない情けない輩だ。

 その一方で、あのような暴力性があるのなら、妹を強引にものにするぐらい簡単にできるはずなのに、とハルカは憎々しく思った。一体何が問題なのだ。妊娠にさえ気を付けていれば、血の繋がった兄と妹が愛し合っても何も問題ないはずだ。仮に子供ができたとしても、兄の子だということを黙っていれば済むことではないか。いくじなし。兄は、あの女にたぶらかされてから、変わってしまった。


 そしてハルカは、兄に罰を与えるために、学校に行くのをやめた。高校受験が間近に迫っていたため、両親が慌てふためいたのもいい気味だった。自分のせいで可愛い妹がこんな風になってしまい、両親をも苦しめているのだと思えば、頑なな兄とて態度を改めるだろう、と。

 しかし兄は相変わらずハルカとの接触――キッチンやトイレ等の共有スペースで顔を合わせることすら――を可能な限り避け続けるという意固地な態度を崩さなかった。一人暮らしをしたいと両親に直訴さえしたが、これは自宅から大学に通える距離なのだからと父から却下された(ざまーみろ)。

 すると、それまで家庭教師のアルバイトをしていた兄は急に飲食店で働き始め、自宅で食事をする回数が激減した。自宅以外の場所で食べ物を口にするのは特に気にならないらしかったが、家での食事は、自分で入念に洗った食材を自ら調理し、自分で洗い直した食器に盛って一人でぼそぼそ食べていた。呆れたことに、兄はトイレに入る前に除菌シートでドアノブを拭いてさえいた。


 わたしはバイキン?


 可愛い妹によくもあんな態度がとれたものだ。ハルカは憤慨して部屋に籠る時間がさらに長くなった。兄は、「友達」の家に泊まるといって、頻繁に家を空けるようになった。父親から苦言を呈されると、憮然とした顔で「この家ではよく眠れないんだ」と言い返した。

 それでも大学には真面目に通っていたようで、成績が下がることはなかったので、厳格な父親も、長男に対してあまりやかましいことを言わなくなった。


「友達」って、あの天然ナチュラル詐称の整形豊胸女のこと!?


 そんな子供じみた態度を残りの大学生活の間に一貫してとり続けた挙句、兄は就職を機にとうとう家を出てしまった。

 こんなことは馬鹿げている、とハルカは思った。

 お互い、意地を張りすぎて後に引けなくなってしまったのだ。大人である兄が妥協するべきなのは明らかだが、原因を作ったのは自分であるといえなくもない(嫌なら嫌できちんと拒絶しなかった兄にも責任があるとハルカは思っていたが)と若干心を入れ替えた妹は、自分の方から歩み寄りをすべく、兄の一人暮らし先の住所を調べて訪ねて行った。

 結果は、惨憺たるものだった。

 心地のよい巣篭りを中断してまでわざわざ訪ねて行ったハルカに門前払いを食わせるとは。なんと無慈悲な兄だろうか。鬼畜の所業と言ってよい。とはいえ、兄の非道な態度には、あのアバズレの影響があることも考慮しなければならない。

 

 可哀想なお兄ちゃん。


 これは根比べだとハルカは思った。愚かな兄が真の愛に目覚めるまで、自分は耐えなければならない。


 そして、そのチャンスがようやくやってきたのだ。

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