第18話 ハルカ

「お前なんか、死ねばいいのに」


 兄からそう吐き捨てられたのは、ハルカが中学三年生のときだった。

 それ以来、ハルカは今のような生活を送っている。それは勿論、兄に対する報復である。ハルカが高校受験に失敗したのは、兄のせい。かろうじて合格した二流の私立高校には、入学後ほとんど登校しなかった。当然卒業もしなかった。これも、兄のせい。

 大学は受験さえせず、自室に引きこもり、ただひたすらゲームと漫画の日々。今のハルカを創ったのは、兄のシンイチなのだ。

 それでも、兄が心からの反省を示せば、もう一度チャンスを与えてもよいと思っていた。だから兄が大学卒業後から一人暮らしを始めたマンションに訪ねて行った。母親はシンイチの新住所を教えたがらなかったが、調べるのはそう難しくなかった。邪魔な両親の干渉のない二人だけの空間であれば、兄も安心して本心を打ち明けられるのではないか。電車の中でも気分が高揚していて


「うわっ、すっげえデブ」


 と頭の悪そうな高校生がはしゃいでいたのも気にならないぐらいだった。ハルカにとっては久しぶりの外出だった。それなのに。

 兄は部屋に招き入れてくれなかったし、最初は、直接ハルカと会話をしようとさえしなかった。ハルカを阻むドアの向こう側にはあの女がいて、ドアチェーン越しの隙間からハルカを「ブラコン・シスター」と呼んだ。


「何しに来たの? 超キモいんだけど。シンイチから全部聞いたよ? 変態同人誌ばっかり読んでないで、ちゃんと学校に行きなさい」

「おい、やめろよ」


 兄に腕を引っぱられて引き下がった女の頬には、底意地の悪い笑みが浮かんでいた。誰にでも股を開く尻軽のくせに。あのこれみよがしな胸だって、どうせ本物じゃない。


「ハルカ。お前に訪ねて来られても、なかに入れてやることはできない。ぼくはお前と二人きりにはなれない。理由はわかっているはずだ。正直、お前から離れることができて、心底ほっとしている。そっとしておいてくれないか」


 ハルカが立っている位置からは見えない奥まったところから兄はそう言い、ドアはハルカの鼻先で閉ざされた。


 皆殺しにしてやりたかった。


 あの女、あんな女にいいように操られている情けない兄、そして両親。皆を滅多刺しに。それでもハルカは、震えるほどの怒りをどうにか抑え込んだ。どうやって家まで帰りついたのか全く思い出せなかったが、誰も殺していないはずだ。多分。


 ハルカとシンイチは仲の良い兄妹だった。ハルカはそこそこかわいい容姿で、クラスでは常に四番目か五番目に人気で、小学校、中学校と男子から告白されることもないわけではなかったが、全て断っていた。友達には「わたしには、お兄ちゃんがいるから」と常に言っていた。

 ハルカより四歳年上のシンイチは、当初は子供らしい無邪気さで妹を溺愛していた。幼いながらに兄としての自覚が芽生え、それまで自分が独占していた母親の注目と愛情を赤子の妹に奪われ拗ねるようなこともなかった。

 それでも、自身とハルカが成長するにつれ、シンイチは自然と妹と一緒に風呂に入ることをやめ、雷が怖いからと夜中にシンイチのベッドに忍んで来る妹を「もう小学生になったんだから、一人で我慢しなきゃだめだよ」と、優しく、しかし強固に拒絶するようになった。

 そのように、徐々にではあるが、自分から距離を置くようになった兄の行動を理解することは、ハルカにはできなかった。二人の年齢差を考えれば、当初は無理もないことであったが、ハルカは兄が妹との親密過ぎる関係を見直し始めた年頃になっても、相変わらず兄にまとわりつき、一緒に外出することがあればそれを「デート」と呼び、シンイチと腕を組んで歩きたがった。


 シンイチを含め、周囲の誰もがこのようなハルカの態度を、恋に恋する年頃に特有の一過性のものだと思っていた。ちょうど、兄のことを好きすぎるあまり兄の行動を逐一監視し彼女ができそうになると手練手管を尽くして邪魔するお兄ちゃん大好きっ娘が主人公のアニメが人気になっていたということもあり、ハルカほどではないにしろ、「お兄ちゃん」人気は当時相当加熱していた(お兄ちゃんに熱をあげる大半の女子の場合は、実際には兄はいないか、いたとしても、現実の兄ではない架空の兄に恋い焦がれていたのだが)。本当の恋を知れば、ブラザー・コンプレックスからは卒業するだろうと、皆高をくくっていた。


 高校生になったシンイチに可愛いガールフレンドができたとき、周囲はこれでもう何もかも大丈夫、と安堵した。その時、ハルカは小学校六年生。

 成績優秀だが性格は穏やか、趣味は読書で生真面目なシンイチが血を分けた妹相手に懸想する心配を抱いていた者は少ないが、それでもやはり年頃の男子である。当時の彼が妹に対しいかなる感情を抱いていたにせよ、高校の同級生だという頭脳にも容姿にも恵まれた少女と交際を始めたからには、彼女以外には目もくれなくなるはずだ、と。

 同性の目から見ても非の打ちどころのない彼女の美しさに、敢えてイチャモンをつけるのであれば「派手すぎる」というぐらいだろうか。だがその派手さは、蜂蜜色の地毛やメイクをせずともくっきり二重で長い睫毛に縁どられたアーモンド型の大きな目といった自然な美しさに起因するもので、悪意ある者達から「キャバ嬢」などと陰口を叩かれたとしても、本人にはどうしようもないことだった。


 とにかく、どう考えても自分に勝てる相手ではないと敗北を認めることを妹は期待されていた。高校生と小学生という単純な年齢差の問題ではない。兄の彼女は、モデルにスカウトされても不思議ではない容姿の持ち主で、一方ハルカは――どちらかと言えばかわいい部類に属するとはいえ、あまりにも平凡で、普通だった。

 しかし、ハルカの欲望は勝てる見込みのないライバルの出現に怯むどころか、肥大していく一方だった。ちょうど、健全すぎる商業誌から同人誌へと移行した頃であった。きっかけは、友達の部屋で見せてもらった、姉のものだという過激な部類に属するBL同人漫画だった。


 コレだ!


 ハルカはそう思ったが、小六の彼女を感嘆せしめたのは、首から下には一本たりとも体毛の生えていない男性同士の濃厚なラブシーンではない。嫌がる相手を無理やり服従させ陥落させるというその確立された様式がハルカを魅了した。そして、そのような様式には、兄と妹――血が繋がっていたりいなかったり――を扱ったものも少なくなかった。友人の姉の嗜好が著しく偏っていたことにより、ハルカはカルチャーショックで頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。


 そして、ハルカは自分でもそのような同人誌を蒐集するようになった。一旦始めてしまうと、もう止まらなかった。

 ハルカは、彼女が読み耽る同人漫画のように、兄から強引に、力づくで征服されることを夢想するようになっていた。そこで中学生になって体に多少の凹凸おうとつが現れてからは、兄が行動を起こしやすいように、両親が外出しているときに甘えて兄の膝の上に乗ってみたり、無邪気を装って湯上りにバスタオル一枚の姿で兄の前で柔軟体操をしてみたりと色々手を尽くしてみた。しかしシンイチは一向にそれに応える気配がなく、しまいには


「いい加減にしろよ」


 とそれまで出したことのないような怒気を含んだ声で拒絶し、ハルカの顔を見ると顔を引きつらせて目を逸らすようになった。


 あれはきっと、己の欲望と戦っているのだ。


 ハルカはそう思った。血の繋がった妹と一線を越えるのは、漫画の中ほど簡単なことではないらしい。それならば、当初の計画からは若干逸れることになるが、ハルカの方からより積極的な行動をとれば、兄だって男なのだから、我慢ができなくなるはずだ。

 兄のガールフレンドと周囲の皆が呼んでいる女については、漫画に出て来る「当て馬」、あるいは「負けヒロイン」、つまり真に結ばれるべきカップルに横やりを入れ、読者をやきもきさせるための脇役だと思い、できるだけ無視していた。

 しかしあの女は、ハルカが高校受験で忙しい冬に図々しくもハルカの家に遊びにやって来た。母親のどこか媚びへつらった態度も気に入らなかったが、優しい兄を奴隷のように扱う姿はハルカを戦慄させた。

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