第10話 美容師

 仕事帰りに落ちあって、彼氏のマンションに到着したあとは、背後でドアが閉まるのも待ち切れず、すぐ前に立つ女の胸元に手を滑り込ませた。今日一日中男の脳内を占め、何度もミスを誘発しかけた悩ましい谷間に。


「ちょっと、おちついてよ、もおー」


 笑い声をあげながら男の腕の中で身じろぎし首を捻った女の顔を間近で覗き込む形になり、大きく見開かれた瞳の虹彩が、緑がかった不思議な色合いをしていることを彼は知る。男の切羽詰まった形相に、女は一瞬怯んだような表情を見せたが、すぐに口の両端を持ち上げ、淫らに、男を誘う笑みを浮かべた。


 こんな状況で落ち着いていられる男がいるものか。


 男はテイクアウトした食べ物の入った包みと鞄を足元に放り出すと、女の背中を壁に押しつけ、まだ笑みを浮かべている唇に吸い付いた。舌の先が触れ合った瞬間、男の頭の中で何かが弾けた。

 シャワーを浴びたいと言う彼女を無視し、リビングのソファーの所まで引きずっていき、押し倒して彼女のスカートをめくった。

 それでもまだ「ねえ、靴履いたままなんだけど」「指輪を元の場所に戻しておかないと」「ストッキング破らないでよ、今日おろしたばっかなのに」などと喘ぎ声を混ぜながら抗議する。

 男はスカートの中から顔を出し、女の足からローヒールのパンプスをもぎ取って玄関に向かって放り投げ、ズボンのチャックを下ろした。

「ちょっと、それお気に入りなのに」

 とドアにぶつかって転がった靴を目で追う女の頬を両側から挟んで動けなくしてから口を塞いだ。呻き声を漏らしつつ、女は涙目で彼氏はこういうのは好きじゃないと言ったが、構わず後頭部を押さえつけた。いつもはこんな煌々と明かりのついたところではしないとか、えずきながらまだぶつぶつ言っていて、まったく、興醒めだったら。


 期待していたほど奔放な女ではなかったことに彼は少なからず失望したが、女の肉体は素晴らしかった。妻と異なり、どこも弛んでいないきめ細かなみずみずしい肌は透き通るように白く、全体的に華奢な癖に、胸だけは豊満であった。こんな女を毎晩どころか朝でも昼でも好きなようにできる男を心底妬ましく思ったが、かつては彼自身も若かりし頃の妻を相手に、夢中になっていたのだった。


 女はさらに、例えピルを服用していても彼氏以外には生でさせないとか、遊んでいる女のくせにうるさいことを言った。外に出すからと男がなだめすかしても、射精の瞬間は男がもっとも身勝手になる時だと作家のなにがしが言っていた、と激しく抵抗した。

 腹立たしいことだが、その作家は恐らく正しい。

 以前の彼であれば女の要求など無視して欲望のままに突っ走っていたかもしれないが、女を殴りつけたい衝動をどうにか堪えた。男は玄関に放り出してあった鞄の中に隠し持っている避妊具をとりに行った(このような万が一の事態に備えて妻には内緒で常備していたものだ)。彼にとっても、妻以外の女を孕ませることは避けたい事態である、とはやる気持ちのために振るえる手で小袋を破きながら男は自分に言い聞かせる。

 もう若くないことを改めて実感した彼は、これが終わったら元の良き夫・父に戻ることを固く誓った。彼女の方は、真面目なだけが取り柄の退屈な眼鏡と結婚し、後腐れなく、お互いにハッピーエンドを迎えるはずだった。


 それなのに


 女の方でも嬌声をあげ始め、呼吸が荒くなり、お互いに我を忘れて、家族や恋人のこともいっとき忘れて、さあという瞬間、玄関に、スーツ姿に眼鏡をかけたいかにも真面目そうな若い男が、呆けたような顔で立ち尽くしているのが目に入った。

 これ以降のことはよく覚えていない。


 彼は慌てて背後から胸を鷲掴みにしていた女の体を放り出し、部屋中に散乱する衣類のなかから下着を発見しようと焦っていた。女が二言三言眼鏡の男に向かって叫んだが、何を言ったのかわからなかった。

 眼鏡が無言で立ち去ったのを見て、彼は半分裏返ったパンツに片足を突っ込んだままバランスを崩して床に倒れた。

「なんだよ」と思わず悪態が口を突いたが、もたもたしているつもりはなかった。

 外側がべっとりと濡れたゴムを引きはがしてゴミ箱に放り投げ、素早く服を着終えると、泣きっぱなしの女を置いて部屋を出た。万が一眼鏡の男が戻って来た場合に鉢合わせするのを恐れ、エレベーターには向かわず、階段を一気に駆け下りた。

 そして彼は、夜の街に紛れた。


 外の生ぬるい風にあたって冷静さを取り戻した彼は、妻には店の連中と飲みに行くと伝えてあったことを思い出し、適当な飲み屋で時間を潰してから帰ることにした。女の残り香を、酒場の煙と脂ぎった食べ物の匂いとすり替えなければならない。



「母親みたいにはならないって誓ったのに。ここを追い出されたら行くところなんてないのに」


 金曜の晩、混雑した居酒屋のカウンター席でビールを飲みながら、置き去りにしてきた女が泣きじゃくる姿を思い浮かべた。顔を覆った左手が、肩を震わせるたびにキラキラ光ったが、彼の関心は宝石よりもやはり肩から胸にかけて柔らかく覆っている髪に向けられた。

 本人の要望通り清楚に見えるかはさておき、地毛の蜂蜜色から深みのある艶やかな黒髪に仕上がっていた。彼は腕のいい美容師なのだ。驚きのイメチェンだが、彼氏のほうはそれに気づく余裕もなかったのではないか。

 これで結婚はパアか。気の毒だが、自業自得だ。誠実そうな眼鏡青年を裏切るからこんなことになる。

 パートナーに対し不貞を働いたという点では彼も同じだが、あの女が店に押しかけてきて面倒を起こさない限り、彼の方は安泰のはずだった。

 いや、もしかして、くるのか? 男に許してもらうために、おれに無理やりレイプされたと女が嘘をついて、警察に――

 急に胸がつかえて食欲がなくなった男は、箸を置いてジョッキに残っていたビールを一気にあおった。もっと強い酒が必要だった。

 焼酎に切り替えてぐいぐい飲むと、気持ちが落ち着いてきた。あの女は見た目はチャラいが、勤務先は大企業、お堅い職場だ。男のほうだって、真面目なサラリーマンだろう。表沙汰にして恥を外部に知らしめるようなことは避けたいはずだ。

 安心すると、途端に後悔が押し寄せてきた。

 素直にラブホテルにしておけばよかった。昔のようにワイルドに、などと思ったのが運の尽き。また当分は、妻と子供のために家庭第一の生活に戻るのだ。そう思うと、最後まで敢行できずに不発に終わったのが一層悔やまれた。あんないい女をものにする機会は、もう二度とないかもしれない。

 しかしあの男、指輪まで買っていたんだった。ごちゃごちゃと宝石のついた高そうなやつだったが、返品はできないだろう。まさかおれを婚約破棄の原因として訴えたりしないよな?


「こちらのお席でお願いします」


 店員に案内されて、二人連れの男がカウンターの端に陣取った。焼酎を啜りながら交互に襲ってくる不安と欲求不満に悶々とする彼の席から一つ飛ばした席だ(二人連れと彼の間では、サラリーマン風の年配の男が日本酒を飲んでいた)。

 何気なくその二人組に目をやって、彼は凍り付いた。肉体労働者風のたくましい体つきの若い男の連れは、真面目そうな若いサラリーマンで、眼鏡をかけていた。どこにでも居そうな平平凡凡な顔立ちの若者が、数時間前に数秒間だけ邂逅した男と同一人物なのかどうか、彼には自信が持てなかった。がっちりした体格の男の方は、恐々と横目で様子を窺う彼に背を向ける形で連れの眼鏡の男に何やら熱心に話しかけていたが、当の眼鏡は、だるそうに左半身を壁にもたれかけ、半分目を閉じていた。

 まさか、おれに報復するために、腕っぷしの強い友人に泣きついたんじゃあるまいな。

 彼は静かに二人連れから目をそらすと、舌の上でずっと転がしていた梅の種を無意識のうちに呑みこんだ。それから近くに居た店員に無言で合図すると、急いで勘定を済ませた。


 誰からも声をかけられることなく暖簾をくぐって夜の街に滑り出た彼は、足早に歩きだした。後ろは決して振り返らなかった。

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