第9話 美容師

 なんなんだよ、一体

 若い女性客をうまい具合に口説き落とすことに成功し、楽しい一夜になるはずだったのに。


「今日は、どうしましょうか」

 胸元が大胆にあいたトップスで丸見えの谷間に気を取られていることを相手に悟られないように、鏡に映った女の目を見つめて彼は尋ねた。女ってやつは、これみよがしに見せつけるような服を着ておいて、ジロジロ見たら「セクハラ」と騒ぎ立てるんだから質が悪い、と彼は苦々しく思う。もっとも、鏡の中から何かを期待するように見つめ返すこの女からそんな苦情の申し立てを受けたことは、まだなかったが。


「店の外でお客と何をしようと勝手だけど、こういう商売なんだから、気を付けなきゃ。女性のお客さんに嫌われたら、やっていけないでしょ」


 彼が店長からそのように厳重注意を受けたのはおよそ一ヶ月前のことで、その件に関しては、完全に濡れ衣だった。確かに彼は女好きだが、好むのは二十代前半、若くて張りのある体をした女性であるから、くだんの常連客からの誘いは、やんわりと断り続けていたのだ。その結果が、あれだ。あることないこと、店長に告げ口をされた。だったらどうすればよかったのか、と彼は思う。一度ぐらい寝てやるべきだったとでも?

 確かに昔は美人だったのだろうし、今もその片鱗は十分見て取れるが、何分もう五十近い女だ。彼が勤務するお高いヘアサロンに通っていることも含め、手間暇と金をかけて涙ぐましい努力をしていることは認めるが、未だ老化を完全に抑える魔法は発明されていないのだから、夕方より早い時間帯ならば四十そこそこに見える、という程度の年増から色目を使われても甚だ迷惑だ。妻や子を口実に断ることができてよかった、と心の底から思えるのはこんな時だ。


 おれはホストじゃない


 だが似たようなものだ、と彼は思う。嫌な客にも笑顔を絶やさず、堪える。ご指名を誰よりも多く確保するために。

 しかし彼ももう三十代後半で、容姿の衰えは隠せない。頭の悪そうな新人に追い抜かれる日も近いだろう。それは仕方がない。彼は既婚で、小学生の子供がいる。職業柄仕事中は指輪をしない美容師が多いなか、彼の妻の強い要望(というよりむしろ強制)があり、結婚指輪はチェーンに通して首から下げている。そのように妻帯者アピールをしても、依然として客からの誘惑はあとを絶たなかったし、彼も時々は喜んでその恩恵に与った。勘の鋭い妻と図太い愛人の間で修羅場を体験したこともある。そんな彼でも、子供が生まれてからは、ほぼ家庭第一の男に変貌した。やはり、我が子は可愛かった。それなのに。


「あの男を二度と私に近づけないで。いやらしい」


 店長はその中年女の苦情をすべて鵜呑みにしたわけではなかったが、毎月やってきて高額なカラーリングやヘッドスパ、トリートメント、ネイル等に大金を惜しみなくつぎ込んでくれるばかりか多くの知人に店を紹介してくれた上客を無下にはできず、彼は担当を外され、態度を改めるよう「指導」を受けた。店を辞めさせると脅されて、屈辱的な謝罪もした。かつては独立して自分の店を持つことを夢見ていたが、妻から「そんな大バクチを打って、失敗して借金まみれになるのは嫌。子供のことを考えてよ」と却下されて以来、彼は一生雇われの身で働くことを運命づけられており、店長の意向には逆らえなかった。セクハラの汚名を着せられたまま解雇されるわけにはいかない。


 こんなことなら、目を瞑ってあのババアを抱いておけばよかった。


 そう思わないでもない。だが、彼は枕営業で店のナンバーワンになったわけではない。若い頃は確かにルックスもいけていたが、美容師としての技術だって、寝る間を惜しんで磨いたのだ(なぜなら、自分の店を持つことを夢見ていたから)。何人もの客に手を付けたといっても、相手は全員成人済みで、お互い合意の上でのことだ。

 彼の好みは、今鏡の前に座っているような、若い女だ。顔立ちが派手でスタイルもよく、自分が美しいことを十分承知していて、同性からの批判ややっかみなど気にもせず、その魅力を惜しげもなく振りまくタイプ。出会った頃の若かりし妻にそっくりだ。


「久しぶりにボブにでもしてみようかと思ったんだけど……」


 己の鏡像に目をこらし、顔を左右に向けて小首を傾げると、ゆるくウェーブした髪が女の胸の上に落ちた。派手目な髪色をしているが、染めているわけではないことを、彼は職業柄知っている。ハーフなのかと訊いてみたことがあるが、そういうわけではないとのこと。肌も抜けるように白く、今日などは有休をとったとかで、ほとんど化粧をしていない状態だが、ぱっちりとした目を縁取る睫毛は長く(これもエクステではなく天然ものである)自然にカールしており、唇は艶々したピンクだ(さすがにこれはリップグロスの賜物だ)。話をしていると頬がぽーっと頬が上気してくるのが艶めかしい。


「清楚系にしたいから、髪の毛、黒くしてもらえます?」耳たぶのピアスを右手で弄りながら女が言った。老眼の気が出始めた彼には、小さすぎて形すら判然としない代物だ。いつも着けているが、この女にしては珍しい安物だ。

「イメチェン? アヤちゃんだったら、どんな色でも似合うと思うけど、どういった心境の変化?」

 女は満面の笑みを浮かべると、額にかかる髪を左手で払いのけた。その指には、リボンのような形にダイヤとルビーをあしらった指輪が光っていた。

「彼を喜ばせたくて。彼、真面目だから。それに、純白のドレスには、やっぱり黒髪かなあ、って」

「あら、素敵じゃない。おめでとう!」


 顧客情報から、彼はこの女が二十四歳であることを知っていた。特にその気はなくとも、好みのタイプの個人情報につい目がいってしまうのは男の性である。


「だけど、アヤちゃんの年齢で結婚って、少し早いよね。今時の女の子ってみんな、バリバリ三十代ぐらいまで働きたがるのかと思ってた」

「まだプロポーズされたわけじゃないんだけど、掃除中してたら、この指輪が隠してあるのを見つけちゃって。わたしも結婚なんてまだまだ先の話だと思ってたけど、彼以上の人なんて二度と現れないと思って」


 プロポーズされるまで待ちきれなくて、今日彼は飲み会で帰りが遅くなると言うし、こっそり指輪をしてみたの、とはにかむ笑顔を見て、この子は見た目ほどスレてないのかな、と彼は思った。彼女のこれまでの話では、彼氏というのは高校からの腐れ縁で、真面目なだけが取り柄の退屈な眼鏡だったはずだが。

「それはどうもご馳走様。じゃあおれ、張り切って艶々の緑の黒髪に仕上げますよ」

 彼は笑顔でそう言ったのだった。それなのに。


 一体何がどうなったのか。ついいつもの癖で、貞淑な奥さんになる前に、最後の息抜きが必要なら遠慮せずに言ってほしいとかなんとか、適当な軽口を叩いていただけのはずが、彼氏が飲み会で留守の間に、彼氏のマンションで密会することになろうとは、女の気持ちというのはわからないものだ。


「もう、こういうのは、これで最後にする」と彼女は言った。


 彼の方でも、現在の妻を妊娠させてからはチャラチャラとした生き方を一変、妻と息子のことを第一に考える良き夫・父として生きてきて、少しだけ息抜きをしたいと思ったのだった。やってもいないセクハラ被害を訴えられたり、鏡のなかの己の顔にたるみの兆候をはっきりと確認してもう若くないことを実感したり、くさくさすることが多かったから、魔が差したのだ。


 誰だって、こんないい女がOKと言ったら、迷わずいただくだろう。

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