完全なる球体と、分かたれた半球のくぼみと出っ張りについて、私たちが考察したこと

衞藤萬里

完全なる球体と、分かたれた半球のくぼみと出っ張りについて、私たちが考察したこと

 つまらないことをした。

 やったらいつもそう思うのはわかっているのに、やった。

 年に一回だけの、結婚記念日の夜のセックス。

 

 天上で人間は完全な球体だったが、地上に降りてきたとき、ふたつに分かれてしまった。それ以来、人間は分かれた半球を探し求める――よく聞く話だが、多分ほとんどの人間は分かれたときに、片方には余計なものが付着して、その分もう片方にはくぼんだ箇所ができたのだろう。

 女性はくぼんでいて、男性は出っ張っている。生殖という目的を抜きにして考えた場合、凹凸が組み合わさるように、一組の男女はそれを補完する。それがセックスだと云えると思う。

 だが私のくぼみが旦那の出っ張ったものでいっぱいになっても、私たちはきっと、今さら完全な球体にはもどれない。私たちは、あまりに不完全すぎた。

 

 性に対する欲求が、おそろしく希薄な――私と旦那は、そういった人種だった。 

 今どき、とあきれるかもしれないが、お互い男性経験、女性経験もなしに――一応お付き合いという過程を経て――三十歳を目前にして私たちは結婚した。

 結婚しても、セックスをするつもりはないと旦那が告白してきたのは、多分お互いが結婚を意識しはじめたころだった。

 旦那にしても、私にそんな告白をするには相当勇気がいったと思う。その申し出は、夫婦生活の意義の大部分を真っ向から否定するものだからだ。

 本当に、旦那は性欲が極端に薄い人だった。

 そのころの私は、身構えていた。付き合っていた旦那はそういったそぶりは一切見せなかったが、どこかの段階で一線を越えなければならないときが来るに違いないと、警戒していたのだ。

 私もまた性行為とか愛情に対して、決定的に情熱が欠けていた。そんな面倒なことを想像しただけで、うんざりだった。何で女と男は、あんなばかみたいな行為をしなければいけないんだ?

 だから、旦那の告白は正直ほっとしたし、ある意味その瞬間だったのかもしれない、本当に旦那とこれからずっと連れ添うことに本気になったのは。わずらわしい行為を必要としない旦那は、私にはこれ以上ない理想の相手に思えた。

 こうして私たちは、夫婦になるにあたり、セックスへの不可侵というか不干渉というか、そんな盟約を結ぶこととなった。

 だが世の中、思い通りにはいかない。

 その日の盟約から一年ほどたって、披露宴、二次会という名の世間並みの儀式が終わり、真夜中をとっくにすぎてへとへとになってホテルの一室にもどって、私たちはまさかの計画倒れをやらかしてしまった。

 何と、セックスをしてしまったのだ。

 どうせ結婚したのだから一度ぐらい経験しておくか……という感じで私たちはした。やるつもりなんかなかったのに、何となくそういう流れになってしまった。

 多分、かなり昂揚していたんだろう。ずいぶん、アルコールが入っていた。

 手順や場所がわからなかったりとか、そんな都市伝説じみたこともなく、淡々とではあったが不思議なことに、それなりにできた。人間の本能ってたいしたものだと、そのときはふたりとも感心したものだ。

 だけど、悪くなかった。そりゃそうだ。別にお互い嫌いな人じゃないんだから。

 でも、まぁ、何て云うか……時間の無駄だなぁって思った。私の人生にとって優先事項にするほどのものではないと、改めて思った。

 私はもちろん頂に到達することなんてなかったが、旦那は普通に射精した。気持ちよかったけど、別にどうってことないな――というのが旦那の感想だった。

 その夜、私たちの出した結論としては、無理にする必要ないよね、だった。

 今から八年前のことだ。

 そう私たちは認識したけど、それでもまぁ夫婦なんだし、形式上はやっておくか――とそれ以来、年に一回結婚記念日にセックスすることが習慣となった。その行為にメルクマール的な意味を見出したような気になったのだ。つまり私と旦那の経験回数って、結婚記念日の数だけだ。

 云っておくけど、仲は悪くない。その日だって、ささやかにごちそうを食べてお酒を呑んで、お風呂ものんびり入って、私は自分の部屋で待っていると旦那が入ってくる。枕元のライトを絞って、必要最低限の明るさにする。ベッドの縁に並んで座ると、旦那が必ず訊ねる。

「今日で何回目だったっけ?」

 わかってるくせに。でもこれがスタートの合図だ。

 私は結婚記念日と同じ数字を答える。そうすると旦那は私の身体を押し倒してパジャマのボタンをはずしはじめる。その後かかる時間はほんの十分ほどだ。多分、とんでもなく私たちは下手くそなんだろう。

 こうして、その夜のセックスは、結婚記念日の回数に追いつく。

 

 行為の後、旦那は笑いながらいつも云う。

「やっぱり、つまらなかったね」

 私も答える。

「時間の無駄だね」

 私たちは笑う。小さな秘密を共有する者同士の笑みだ。

 今年も同じだった。

 その後、居間にもどり、ふたりでもう少しお酒を呑んで話をして、私たちはそれぞれの部屋にもどり就寝――これが私たちの記念日のルーチン。

 旦那は居心地のよい人だった。情熱は感じなかったが、私はそこそこ満足していた。

 夏にはベランダのプランターの朝顔をふたりで眺めて、今年は赤が強いね、来年はもう少し落ち着いた青紫にしようかなんてことを語りあう。

 私たちはきっと、若仙人なんだろう。よくもまぁ、こんなふたりがうまいことつがいになったものだと、人生の妙に関心をする。

 ドラマも波乱もなく、このままふたりの時間はすぎて、気がついたら老いている。きっとそんな人生なんだろう。そう思っていた。

 その日までは。


* * *


 珍しく、私より早く帰っていた旦那が居間に座っている。

「早いのね」

 上着を脱ぎながらそう云った私に、旦那は座ってくれ話がある、と無表情で返した。

「新しいパートナーができたんだ」

 腰をおろした私に、旦那は抑揚なくそう云った。

 私は首をかしげた。本当に意味がわからなかったのだが、その意味が頭にしみこんでくるにつれ、私はびっくりしてしまった。怒ったとかじゃなくって、本当にびっくりした。そんな台詞、旦那から聞くことになるなんて、考えたこともなかった。

「……誰?」

 呆然と訊ねた私に、旦那はもっと衝撃の一言を放った。

「女性じゃない……」

 絶句した。正直、ちょっと事態が整理できない。

 呆然としている私を置き去りにするように、ぽつりぽつりと話しだす旦那。

 その彼は、旦那の職場のパソコンなどのシステムサポートしている保守管理の技術者。旦那や私より七、八歳年下で、配置換えで春から出入りしはじめたが、ひと目見た瞬間、旦那の背中に電流がはしった――らしい。これまで同性に興味を持ったことなんてないのに……と旦那は戸惑っていた。

 他人とのコミュニケーションが苦手な旦那が、がんばってぎこちなく会話を交わしているうちに親密さを増していって、意外なことに、そういった関係となった。

 彼の方もひと目会った瞬間、旦那に強烈に惹かれたとのことだったので、やはりそういうことってあるのだろう。少なくとも私にはないが。

 旦那が私以外の誰かを好きになる――しかも同性に!

 だがここでも、私の情熱のなさは、いかんなく発露された。

 怒ることもできず、戸惑うばかりだった。

 同性に惹かれる――私の周りにそういった人がいなかったので、とても理解することはできない。だけど、一定数居ることは事実だから、生きていればどこかでそういった嗜好の人と出会うはずだ。

 問題はそれが私の旦那だったってことで、その出会いが私の安逸な結婚生活を脅かそうとしていることだ。現実とは想像の斜め上を行くものだ。

 とにかく私は戸惑うばかりだ。

 すでに肉体関係もあるとのことだ。私との間で、淡泊などというレベルですらないあの旦那がだ。それには驚く。そもそも男性間でどのような性行為が成立するのだ? まるで想像できない。

 世間一般から見ると、かなり問題のある私たち夫婦であるが、私は旦那に愛情を感じていたし、それなりに旦那も満足していると思ってい……あっ!

「ひょっとして、年に一回ってのがやっぱりまずかったの?」

「違う」

「じゃあ一体……やっぱり私のことが不満だったの?」

「君に不満なんてない。ただ……」

「私に別れてほしいの?」

「まだそこまでは……」

 旦那は苦しげにうつむいた。そういう云い方をするってことは、逆にそこまで考えているってことだ。

「私、離婚なんて、やだよ……」

「……」

「男に旦那を寝取られたって、周りから思われるんだよ、私。そのこと、どう思ってるの?」

「……」

 黙りこくっている旦那が、まどろっこしかった。

「……その彼に会わせて……そして見せて」

「……何を?」

「あなたたちが、するところ」

「えっ!?」

 初めて、旦那が狼狽した。

「会わせて、見せて、それからどうするか決める。私には、それくらい要求する権利はあるはずよ」


* * *


 私と旦那が待っているコーヒーショップに、彼がやってきた。

 失礼だが、線の細いくねくねした、かまっぽい若い男が現れると思っていた。実際現れたのは、背こそ高くないが、鼻も口も大ぶりで男くさい人だった。緊張した面持ちが硬い。

 本当に彼が――とまず思った。異性である私から見ても充分に男性としての魅力をたたえていて、普通に女性にもてそうな感じだ。思わずそう口にすると「僕は女性の代用品として、男性を選ぶわけじゃないです」と、低い声で答えた。

 私たちの前に座った彼は、私の質問にためらいながらも正直に答えた。隣では旦那の方が居心地が悪そうだった。

 勢いに任せて会わせてって云ったけど、実は何も考えていなかった。顔を会わせてどうなったというのだろう?

 いきなり怒りが沸騰するのか、恨み言でもぶつけてやるのか。

 でも特に何もなかった。

 不思議なことに、旦那を寝取った彼に、たいして嫌悪は感じない。でも彼と会ってしまうと、もう後には引けない感じだった。

 私たちは約束どおり、三人で連れだって彼の部屋へ向かった。


 彼が淹れてくれたコーヒーの香りが、部屋を満たしていた。旦那は何度この部屋を訪れたのだろうかと、私は考えていた。

 ベッドに腰をかけたふたりは、私の存在にどうしてもふんぎりがつかないようだった。長いことためらっていたが、とがめるような私の視線に敗けたのか、とうとう意を決したようにはじめた。

 男同士のキスなんて初めて見た。それもあんな舌がからむやつ。そのままの勢いで、旦那が彼の服を脱がせていく。やけくそのように見えた。

 彼は私の視線を気にしているようで、気分がのらない感じだ。ちらちらと私と眼があう。だけど、やがて開き直ったのだろう、受け身一辺倒だった彼がリードをはじめた。素人目にも、旦那よりはるかに手慣れているのがわかる。喘ぎ声が旦那だけのものになりはじめた。旦那のこんな声、私は一度も耳にしたことない。

 私はコーヒーカップを両手で持ったまま動けなかった。きっとばかみたいに口をぽかんと開けて、ふたりの行為を見ているのだろう。

 たっぷりの愛撫の後、彼が旦那を四つん這いにさせた。

 蜂蜜の容器のような物から、とろりとした粘質の液体を掌に出すと、そのための準備をし、やがて彼は旦那とひとつになった。彼の腰の動きはなめらかで、旦那は完全にその律動の虜になっていた。もう私の存在なんて、ふたりは忘れているのかもしれない。それぐらい行為に没入していた。きしむベッドの音にすら、調和があるようだった。

 長く濃厚な行為だった。彼は旦那を上手にリードしつつ、やがて射精した。射精後、彼は別の手法で今度は旦那の方を満足させて、ふたりの行為は終了した。

 旦那がベッドに沈み、荒い息をついていた。

「……これで、満足ですか?」

 ベッドの上で全裸であぐらをかいたまま、息を整えた彼がプライドを傷つけられたように云った。私は初めてふたりから眼をそらした。

 迫力のある行為だった。圧倒されていた。

 私が知るものとは、まったく異なるセックス体系だった。

 ふたりの行為が終わって、掌の中のコーヒーが完全に冷めてしまっていることに気がついた。多分、一時間以上かかっていたに違いない。私とはたった十分ぐらいなのに、この差は一体何なんだ? 信じられなかった。

 これまで見たことがない、旦那の満ち足りた表情。

 私との行為は、記念日の習慣だ。子作りの義務ですらない。

 だが旦那と彼との行為は、お互いへの想いを男同士のセックスという方法で表現しようとしたものだ。

 ふたつの行為には天と地ほどの差があった。

 勝てるわけがないと思った。

 生殖という生き物の本能下、つがいとなる男女とは違い、自然の摂理に反してでも求め合おうとする同性の激情のぶつけ合いに、私のような薄っぺらい女が勝てるわけがなかったんだ。

 みじめな敗北感に捕らえられていた。見なければよかったと、今さら後悔した。

 ふたりはうつむきながら、無言で服をはおりはじめていた。

「旦那」

 私が声をかけると、ふたりはびくりと動きを止めた。旦那にとって、もう私の方が調和を乱す存在になってしまったかのようだった。

「どうすればいいかなんて、わからない。納得なんてできない、離婚もいやだ、旦那たちの関係をみとめろなんて云われても、そんなことはできない」

 旦那と彼は顔を曇らせた。

「でも、旦那はもう私なんかより、ずっと彼の方がいいんでしょ? 彼に初めて会ったとき、電流が走ったって云ったよね? 私にはそんな経験ない。旦那と会ったときでも」

 そう、私には決定的に情熱がない。旦那との結婚だって、セックスという夫婦間の義務がなくて楽そうだというのが大きなきっかけだった。私には結婚する資格なんてないかもしれない。だからと云って、はいどうぞって譲ることなんて嫌だ。

 何が何だかわからなくなって、自分でも信じられないような台詞を口にした。

「子ども、産ませて」

「え……?」

「子ども、産ませてよ!」

「……一体……?」

「わかんないよ、私だって!」

 情熱はないはずなのに、鼻の奥がつんとした。きっと今の私は醜い顔をしているんだろう。

「あんなの見てしまったら、もう旦那が私のものにならないってことぐらいわかる! でも嫌だ、許せない! 子ども産ませてよ私に。彼にできないことして!」

 できもしないことを、狂ったように叫びつづけていた。


 結局私たちは答えも出せずに、彼の部屋を出た。旦那は私と並んで歩く。旦那にとって、私たちの部屋はまだもどるべき場所だったのか。

「無茶苦茶なこと、云うなよ……」

 旦那は疲れきっていた。街の灯りが、旦那の表情をさまざまな色に染めている。

 私は何も話したくなかった。ただうつむきながら、機械的に脚を動かすばかりだった。

 壊れてしまったものが、もう元にはもどらないのはわかる。

 旦那を失うのも嫌だ、今のぬるま湯のような生活が壊れるのも嫌だ、でも彼との関係を精算させるほどの才覚もない。子ども産ませろなんて云ったがその度胸も、その子を育てていく覚悟も、きっとない。その場の感情をぶつけただけだ。

 答えなんて出せなかった。でもそれはきっと、旦那が私の元からいなくなるという形で、解決してくれるだろう。ずるいことに私は、旦那と彼が、私に責任がない形で答えを出してくれるのを待っているのだ。虚しかった。

 並んで歩きながら、私は例の完全な球体と半球の説話を憶いだしていた。出っ張りを持つ男性同士なのに、旦那と彼の行為は、くぼみと出っ張りが合致した私と旦那とのそれより、はるかに完成度が高く、完全な球体に近いように感じた。

 旦那の半球は私ではなかった。旦那は半球にめぐり合ったのかもしれない。そして私はまた半球のままだ。

 私にはそれが悔しくて、さびしくて、そしてちょっとだけうらやましかった。


(了)

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完全なる球体と、分かたれた半球のくぼみと出っ張りについて、私たちが考察したこと 衞藤萬里 @ethoubannri

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