一次相転移

Phantom Cat

*

「先生、講義が終わってお疲れのところ申し訳ないですが、質問してもいいですか?」


「いいよ。なに?」


「先生は今日の講義で、相転移そうてんいについてお話しされてましたよね。物質には固体、液体、気体の三つのそうがあって、相が変わると見た目も形も完全に変わってしまう。その話、もっと詳しく聞きたいんです」


「いいけど、なんで詳しく聞きたいの?」


「相転移って、言ってみれば物質の『変身』ですよね」


「まあ、そう言えないこともないかな」


「私、自分を変えたいんです。変身したいんです」


「へ?」


「私、自分自身が嫌いなんです。だから自分を変えたい。子供の頃は二人の少女が変身して悪と戦うアニメが大好きでした。私もあんな風に変身できたらいいなあ、ってずっとあこがれていました。だけど……現実には、人はそんなに簡単に変われないものですよね。でも、私は変身したいんです。今の自分じゃない、自分に。そのために、物質の変身である相転移の話を詳しく聞きたいなあ、って思いまして」


「……そりゃまあ、確かに物質の相転移については僕も人並み以上に知識はあると思うけど、だからと言ってそれが人間の変身に何か役に立つのか、と言うと……そうは思えないけどなあ」


「いや、ヒントだけでもいいんです。相転移というものから、何か自分を変えるヒントが得られたら、と思いまして……」


「ああ、そう。だったら、講義では触れなかった、もう少しディープな相転移の話をするけど、かまわないね?」


「望むところです」


「それじゃ、まず、そもそも相転移ってのはなぜ起こるんだと思う?」


「……分かりません」


「簡単なことだよ。相転移した方が楽だからさ」


「はい?」


「つまりね、相転移した方が物質のエネルギー状態を小さくできる。だから相転移が起こるのさ。相転移に限らず、物理現象というものは大抵エネルギー状態を小さくする方向に進む。これは変分原理と言って、物理学の基本的な法則だ。身近な例で言えば、ボールを坂道の途中に置くと、何もしなくてもコロコロと下まで転がっていくだろう? これは、ボールが自分の位置エネルギーを小さくしようとしてそのように運動している、と解釈できる。前に講義で説明したと思うけど、位置エネルギーは高いところより低いところの方が小さいからね」


「ああ、なるほど」


「人間だってそうじゃないか。ほっておけば楽な方に、楽な方にと流されていくだろう? そういう人間、すごく多いよな。それと同じだよ。だから相転移って言うのは、君が考えているような、自分を高めようとする『変身』じゃない。どっちかと言えば『堕落』の方が近いね」


「……」


「どう、これでも何かのヒントになった?」


「でも先生、必ずしもエネルギーが小さくなる相転移ばかりじゃないと思うんですけど」


「え?」


「先生、今日の講義で潜熱せんねつのお話もされてましたよね。相転移の際に熱の吸収や放出が行われる、って。液体が蒸発して気体になるとき、気化熱を奪いますよね。熱はエネルギーの一種ですから、熱を放出するのはともかく、吸収する相転移はエネルギーが上がってるんじゃないですか?」


「……なかなか鋭く突いてきたね。だけど、実は液体から気体に変わる時も、エネルギーは下がっているんだ」


「どうしてですか?」


「正確に言うと『自由エネルギー』というものなんだけどね。詳しい定義を話すとなると、エンタルピーやらエントロピーやら色々説明しなきゃならないから長くなるんで端的に表現すると、その相の状態を保つためのエネルギー、とでも言えばいいかな。まず前提として、大抵の物質では、分子の間にお互いを引きつけ合う分子間力が働く。これによる位置エネルギーが、結合エネルギー。これは分子を寄り集めようとするエネルギーだ」


「はぁ」


「そして、以前の講義で話したけど、熱の正体は物質を構成する原子、分子の振動だ。分子は熱によって振動……つまり動くわけだから、運動エネルギーを持つ。これは逆に、分子をバラバラにしようとするエネルギーだね」


「ああ、そう言えばそんな話、されてましたね」


「覚えていてくれたか。そう、自由エネルギーはこの二つのせめぎ合いだと思ってもらえばいい。そして、ここで重要になるのが、温度だ。温度が低い場合は熱による運動エネルギーが結合エネルギーに比べて小さいから、分子は固く寄り集まっている。つまり固体の状態だ。だが、温度が上がってくると熱のエネルギーが大きくなって分子の振動が激しくなり、バラバラになろうとする。つまり、高温でも固体のままでいるにはかなりのエネルギーが必要になるわけだ」


「なるほど」


「そこで、温度が融点に達すると、固体は液体に『変身』する。液体は固体よりも分子同士の結合が緩い。だから自由に形を変えられるわけだね。ってことは、温度が上がっても固体よりもその状態を保つエネルギーは小さくていい。と言っても限界はあってね、さらにどんどん温度が上がると、やっぱり液体の状態を保つのが難しくなる。そこで、温度が沸点を越えると……」


「分かりました。液体は気体に『変身』するんですね」


「そのとおり! 気体は分子がほとんどバラバラな状態だ。だから、どんなに温度が高くても、原理的に気体は気体のままでいられる。その状態を保つのに必要なエネルギーもほとんどいらない。だから、温度が非常に高い場合、結果的に物質の自由エネルギーは気体の状態が一番低くなるんだ。そう考えると、変分原理に反しているわけじゃない」


「へぇ……ずいぶん複雑なんですね」


「ああ。それで、話を戻すけど、確かに君の言う通り、温度が高い状態っていうのは熱エネルギーも高い。だから固体が液体に、液体が気体に相転移するのは、エネルギーが高い状態に移行しているように見える。だけどね、それは周りの温度がそうさせているだけだ。温度が低くなれば、逆に気体は液体に、液体は固体に変わっていく。そっちの方が自由エネルギーが小さくなるからね。化学反応とか核反応みたいな、エネルギーが生じるようなことが起こらない限り、物質は自分から相転移したりはしない。そう考えるとさ、物質ってのは周りに流される、主体性が全然ないヤツってことだよ」


「う……なんか、グサッときました」


「周りの温度が高ければ熱エネルギーの高い気体になる。低ければ結合エネルギーによって固体になる。どちらもその方が楽だからだ。結局、変分原理に従うっていう本質は変わってない。人間だって、そういう周りに流されやすいヤツ、たくさんいるだろう? そりゃ、何も考えずに流されていた方が楽だからな」


「……なんだか、ネガティブな話しか出てきませんね……」


「ネガティブ? そうかな? それは君の基準での話だろう?」


「え?」


「本来、あらゆることにはネガティブもポジティブもない。全ては相対的だ。ビルの3階は5階から見たら位置エネルギーは低いけど、2階から見たら高い。上には上があるし、下には下がある。どこに基準を置くかで話は全く変わってくる。ネガティブかどうかを決めているのは、君だ。君がそう思っていれば、なんでもネガティブになってしまう」


「……」


「それはともかく、僕はまだ君がどういう自分をどう変身させたいのか聞いてないんだが」


「あ……実は、今先生がおっしゃった通りです。私は引っ込み思案で他人に流されやすくて……仲良しグループにいても、自分から何か言いだすことはめったになくて……でも、そんな自分が嫌で、変えたいと思ってるんですけど……どうしたらいいのかも良くわからなくて……」


「それは……さっきも言ったけど、別にネガティブに捉えなくてもいいことだと思うけどね。流されたっていいんだよ。それは自然の摂理みたいなものだからさ。変分原理に従えば、そう振る舞うのがむしろ当然でもある。人間だって、別に無理して個性的にならなくてもいい、と僕は思ってる。無理しなくてもなれるのが、その人本来の『個性』ってものなんじゃないのかなあ」


「だけど……それじゃ成長もしないんじゃないですか?」


「ああ、成長、ね。これは不思議な現象だよね。結晶にせよ人間にせよ、成長ってのは、無秩序の中から秩序が生まれていくことだ。まるでエントロピー増大の法則に逆らっているようだけど、実はこれは開放系でのみ当てはまる話でね」


「開放系?」


「エネルギーや物質が自由に出入りできる環境のことさ。開放系では成長みたいな、無秩序の中から秩序が生まれる現象は、決して珍しいことじゃない。生命そのものだってそうだ。生命は栄養分を取り入れて老廃物を排出しないと死んでしまう。開放系だからこそ成り立つ現象だよね。それはともかく、君は成長したいと思っているわけか」


「そうです。というか、今の自分を変えたいんです。私、好きな人……取られちゃって……」


「ええっ?」


「私が好きだった人、友達も好きだったんです。仲間の中で先にそう言われてしまって……私はなかなか言い出せなくて……そしたら、みんなでその子を応援しよう、みたい話になって……それで、とうとう二人、付き合うことになったらしくて……あ、すみません……」


「いいよ。泣きたいときは泣くのが一番だ。人間は泣くことでストレスが最小になるらしいからね。だとすれば、泣くのも一種の相転移みたいなものだ。しかし……それは辛かったね。それで君は、引っ込み思案な自分を変えたいと思ったのか」


「そうです……でも、どうしたらいいのか、分からなくて……」


「僕は物理の専門家だが、人間関係については素人だから何もアドバイスはできないよ。だけど、そうだな……実は相転移にも大きく分けて二種類あるんだ」


「え?」


「一次相転移と二次相転移。このうち二次相転移は滑らかに相転移が進む。それこそ、坂道を上から下にコロコロ転がるボールのようにね。例を挙げると……あまり身近じゃないけど、超電導物質が普通の電導状態から超電導になるのは二次相転移だって言われてる。実際、僕も学生時代に大学で実験したことがあるけど、超電導物質の温度をどんどん下げていくと電気抵抗もどんどん小さくなって、転移温度になるとゼロになった」


「はぁ」


「だけど、身近にある水の凝固や沸騰は、一次相転移なんだ。これは一気に相転移が進む。そうだね……坂道を転がっていたボールが、いきなり道に開いていた穴に落っこちるようなものかな。そして、一次相転移の場合、同じ温度でも二つの相が共存することがあるんだよ。例えば、まさに沸騰がそう。液体の中にブクブク気体の泡ができているだろう? 同じ温度なのに、気体の状態と液体の状態が同居しているわけだ」


「それは分かりますけど……それ、私の悩みに何か関係ある話なんですか?」


「あるんだよ。まあ、黙って最後まで話を聞きなさい」


「はぁ」


「凝固にしてもそうだ。君、車は運転する?」


「ええ。お父さんのおさがりですけど、自分の車持ってますから」


「そうか。だったら、冬にさ、車のフロントガラスに凍ってない霜が降りてて、ワイパーで霜を落とそうとすると途端にそれが一気に凍り付く、って現象、経験したことないか?」


「ああ、あります。ほんとは凍ってたのに見間違えたのかな、と思ってました」


「あれはね、過冷却っていう現象だ。ゆっくり冷やしていくと水は摂氏零度になっても凍らないんだよ。だけど、ちょっとした衝撃を与えてやると一気に凍り付く。これが一次相転移だ」


「なんでそんなことになるんですか?」


「……実はね、未だによく分かっていない」


「ええっ!」


「そもそも相転移って現象そのものがイマイチよく分かっていないんだけど、一次相転移はさらに輪をかけて難しくてね。少なくとも手計算で解くのは無理で、コンピュータシミュレーションで計算したりするくらいだ。すごいと思わないか? こんな身近な物質の性質が、未だに良くわかっていないんだぜ?」


「そうなんですね」


「ああ。ただ、一次相転移を記述する数理モデルではね、二つの相の間にちょっとした壁みたいなものが登場するんだ。だから、相転移した方がエネルギー状態を小さくできるのに、壁を越えられなくて元の相に留まることもあるわけ。それが、ふとしたきっかけトリガーで一気に壁を越えて相転移を起こす。沸騰の場合は一瞬の温度の揺らぎがトリガーとなって泡を作るし、過冷却の場合は与えられた衝撃がトリガーになる」


「トリガー、ですか」


「ああ。だからさ、ひょっとしたら今の君は、相転移を起こす直前の壁に引っかかっているだけなのかもしれない。だけど、ふとしたトリガーで一次相転移を起こして、一気に別の自分に『変身』できるかもしれないよ。案外、人生なんてそんなもんだ」


「……」


「だけど、そのためにはやはり自分の温度を高める必要がある。もちろん物理的な温度じゃなくて、常に自分が変わりたいと願うことで自分の内部エネルギーを高める。これは単なる物質には出来ない。人間にしか出来ないことだ」


「そうですね」


「そして、トリガーを見逃さないこと。トリガーはどこに転がっているかわからないからね。常に周りを観察して、アンテナの感度を上げる。ほら、さっき『成長は開放系でないと起こらない』って言っただろ? だから、自分の中に閉じこもらないで、いろんなことに興味を持って行動する。そうすれば、きっと『変身』できるんじゃないかな。だけど……今の君には既にそれがかなりできていると思うけどね」


「え……?」


「ほら、君は引っ込み思案だって言ったけど、それでも僕に質問してきたよね。本当に引っ込み思案のままだったらそんなことはできないだろ? 君はそんな自分を変えたくて、僕に質問してきたんじゃないのか?」


「あ……」


「それに君は『何かヒントになれば……』って言ってたね。つまり君は、最初からトリガーを探していたわけだ。だから、何も焦る必要はない。無理に変身しようとしなくても、その調子で頑張っていけば、気が付いたら一次相転移してるかもしれないよ」


「……ありがとうございます! なんだか、胸のつかえがとれた気がしてきました」


「ほら、それが相転移だ。今、君はまさに何がしかの『変身』を遂げたんだよ。それを繰り返していけば、いつか違う自分になれると思うよ」


「はい!」

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