突然現れた男は、私の旦那の生首を持ってきた。

狐火

冷え性


 耳を塞げば心臓の音が聞こえてくる。目を閉じれば瞼の裏の真っ黒な世界が視界を覆う。一ヶ月何もしなければ生活に不自由が生じるほど爪が伸びるし、風呂に入らなければ異臭がする。

 

 世界が真夜中から乖離して日の光を受け入れ始めたころ、薄暗い部屋には低い寝息が放出されて、そして沈んでいく。


 暖かい布団の中で一睡もできなかった私。横を見ると私より10歳ほど若い男が、愛らしく口を開けて寝ている。

 

 白い肌にうっすらと髭が生えているその男に対して愛着はある、好意もある。きつく私を抱きしめて、表情が見えないにも関わらず私に優しい微笑みを渡してくれるような男だ。


 けれど彼には何かが足りない。私は彼を信用していないし、心のどこかで別に失っても構わないと思っている。


 でも彼のことは胸を張って好きだと言える。これからずっと一緒にいたいと思っている。


 彼の頬に手を伸ばし指先でそっと触れると彼は私の体を探し、見つけると私の体をぎゅっと抱きしめた。無意識の世界にいても、私を求めてくれる彼。こんなに愛おしいことはないはずなのに、なぜか私は彼を愛おしいと思わなきゃいけないと義務感を抱いている。


 彼と出会ったのは二ヶ月前。通っているジムで彼に声をかけられて、数回食事した。付き合ってほしいと言われ、最初は拒んだ。


「こんなおばさん、あなたには不釣り合いよ」


 そう言うと彼は私の手を握り、私の目をじっと見つめる。澄んだ瞳で私に懇願するような眼差しを向けていた彼は、だいぶ卑怯であった。


「僕じゃだめですか?」


 そんな言葉を吐かれては、私はもう何も言えない。私は彼の告白を受け入れ、そして今に至る。


 彼の腕からゆっくりと離れ、暖かいベッドから抜け出す。彼が目覚めていないことを確認すると、私はリビングに向かった。


 小さな電気をつけて私はリビングにある棚の上から二番目の引き出しを開け、ある箱を取り出した。


 その箱には綺麗な指輪が入っている。2年前に封印したこの呪いを、私は最近何度も見返してしまう。


 彼と出会った頃から、私は彼からの好意を受け取ると同時に、死んだ旦那からの愛情を思い出していた。


 旦那は結婚して一年もしないうちに病気で他界した。病気が見つかった時にはもう手遅れで、必死に闘病したけれどだめだった。


 ポジティブだった旦那の元気がだんだん無くなり、日に日に目に力がなくなっていくのを見るのが辛かった。


「愛してるよ」


 病室にお見舞いに行くたびに、そう言って私の手の甲にキスしてくれた旦那。


「私も、愛してる」


 あと何回、旦那に愛していると伝えられるだろうか。病室から帰る時はそればかりを考えていた。


 段々と言葉が喋れなくなっていった旦那。

 でも旦那の目を見れば私に愛しているよ、と伝えようとしているとわかるぐらい、旦那は声が出る限り、私に愛の言葉をくれていた。


 そろそろ旦那の3回忌。旦那が死んだ現実を忘れたくて封印していたのに、彼と出会って彼に見つめられるたびに旦那の瞳を思い出す。


 私に旦那がいたことを彼は知らない。いずれは話さなければいけないとわかっているが、旦那の存在を言葉にすることが怖くて仕方ない。今でも旦那は生きていて、私は今不倫しているんだと心のどこかで信じている。


 馬鹿馬鹿しいな、と私は指輪を箱にしまって、いつもの場所に隠した。そして寝室に戻り彼の寝顔を見た。


 どんなに彼を愛しても、あの時ほど幸せを感じられない。きっと旦那からの愛情が、世界で一番強いものだと私が思っているから。また傷つくことを恐れて、あの時ほど彼を愛せない。


 耳を塞げば心臓の音が聞こえてくる。目を閉じれば瞼の裏の真っ黒な世界が視界を覆う。一ヶ月何もしなければ生活に不自由が生じるほど爪が伸びるし、風呂に入らなければ異臭がする。


 私は生きている。そして旦那は死んでいる。存在する世界が違くなってしまっただけなのに、ひどく遠くて切なくて。


 時々、耳を塞ぐと旦那の鼓動が聞こえてくる時がある。瞼を閉じれば旦那の優しい眼差しが浮かんでくる時がある。

 旦那の爪を噛む癖が移って、いつの間にか爪がなくなっている時もあるし、風呂に入らないと汗をかいた旦那の匂いがする時がある。


 それはたった一瞬のことだけど、それを感じるために私は生きている。

 出会い、そして彼と私との関係が始まり、彼が旦那が死んだ事実を私に突きつけてきた時から、自分の血生臭い人間っぽさを感じていた。


 私と旦那は夫婦だから、一心同体なんだと思う。


「おはよ、早起きだね」

 

 ぱちっと彼の目が開き、彼は私に向かって言った。


「起きちゃったんだ」


 おいで、とベッドの中で私に手を伸ばす彼。私は彼の胸元に潜り込み彼の温もりを感じた。


「きーちゃん、体冷えちゃってるよ」


 私をぎゅっと抱きしめる彼。


「冷え性なの」


 死んだ旦那と一緒で私の体温は低い。


「知ってるよ」


 その言葉に一瞬ドキッとして、けれど平静を装う。だよね、と呟いて私はこっそり涙を流した。


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