第三話「りんご飴」

 ぼくは彼女にどうしようもなく惹かれていた。しかしそれはどうしようもない思いだった。


 そう、文字通り、どうしようもないはずの思いだった。


 ぼくには大勢の前で一生添い遂げることを誓った伴侶がいて、その間には他の何事にも代えられないまだ幼い息子がいた。どこかで彼女に対する思いを断ち切らねば、ぼくたちがもう抜け出せないほど深く深く沈んでいくことは想像に難くなかった。そして決断をするべき時が決してそう遠くないところまで近づいていることを言葉に出さずともぼくたちは感じていた。


 その日も人目を気にしながら、ぼくたちは安寧の場所を求めて夏夜のなかを彷徨った。半端に開けた窓から吹き込んでくる生あたたかな潮風を感じながら車を走らせているときに


「なんだかあそこよさそうですね」


と彼女が指差した道路脇に、ほのかに薄暗く外灯に照らされた小さな駐車場が現れた。そこはまるでぼくたちのためだけに用意されている場所であるかのように思えた。スピードを緩めて様子を伺うと、そこは小さな公園に隣接していて、四台までしか停められないような駐車場だった。既に二台の先客がいることは気になったけど、他に行くあてもなくその日はそこに停めることにした。


 隣に停めた黒の軽自動車には誰も乗っていなかったが、まもなくして道路を挟んだ海辺の方から大学生くらいの男女四人が戻ってきた。きっとひと夏の思い出に花火でもしていたのだろう。その時間がかけがえのない瞬間だったと思い返す日が訪れるなんてことを知る由もない彼らは終始楽しそうで、まもなくして車に乗り込んでその公園を去っていった。


 向かいに残されたもう一台のセダンタイプの車の運転席にはおそらく三十代くらいのサラリーマンと思われる男性がスマートフォンの明かりに顔を照らされながら座っていた。ぼくはその向かいのサラリーマンに少しだけ気を払いながらも、窮屈なシートベルトを外して身体を助手席の方に少しだけ向け直した。彼女もゆっくりと膝をこちらに向けて、二人して目を合わせて小さく息を吐いた。ぼくたちはそれからなんてことはない話を交わした。


「夏といえば一番は何を思い浮かべますか」


「お祭りとか、りんご飴かな。食べたことはないですけど。美味しいんでしょうかね」


「ぼくも食べたことあるか覚えていないですね」


「お祭りといえば浴衣が似合いそうですね」


「そっくりそのままお返しします」


「来年は着られたらいいですね」


「そうですね」


 本当になんてことはない会話だった。夏といえば海だの、バーベキューだの、挙げるべきは山ほどあるだろうに彼女が浮かべたのは食べたこともないりんご飴だった。そのことは彼女をことさら魅力的にみせた。夏といえば、そのありふれた問いに自分が食べたこともないりんご飴と答える人がどれだけいるだろう。




 気づくと既に二時間半も経っていた。正確には、時計を気にはしていたから時刻は把握していたけれど。隣にピンク色の軽自動車が停車したことでふたりだけの世界から呼び戻されたのである。そしてその車から二十代くらいの女性が降りてきたと思ったら、その女性は向かいのサラリーマンが待つ車に乗り込んでいった。それまでは


「家に帰りたくない理由があるのでしょうね」


なんて話をしていたが、その男性はここでその女性のことを待っていたのだった。


「家に帰りたくないというよりも、ここにいたい理由があったんですね」


 人それぞれ、男女それぞれに苦悩やあるいは隠し事は存在するのだと、大層な月並みなことを考えて、その夜ぼくたちはその駐車場をその二人に明け渡した。




 いち段落、

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