第7話 読書と準備、さらばご老人たち、そして旅立ちへ3

 その日の朝はいつもより少し早めに起きた。睡眠は三時間といったところ、まずまずだ、とアルムは思った。村を出れば野宿をすることは当たり前に起こる。いつ何時、獣に襲われるか分からない状況下での長い睡眠時間はとても危険だ、そう思った彼女は普段七時間睡眠だったのを三、四時間睡眠に減らして、代わりに昼寝をはさむことにした。

 この日も家のベッドで寝ることはなく、村の近くにある森の中で一夜を過ごした。いろんな環境に耐えうるために、毎日場所を変えて森の中で睡眠をとる。これを二年間欠かさずにアルムは行った。


 川原で顔を洗うと、服を着替えにアルムは一旦家に帰った。当初は予定していなかったが、彼女は午前中の間に家中を掃除することに決めた。二度と帰ることのない家を、自分の香りが染み込んでしまった木の壁や木のベッドを、薄皮一枚分削ぎ取るような感覚で丁寧に丁寧に掃除した。

 この村が嫌いというわけではない、ただ村にと思うと、この村にいた自分の存在を綺麗きれいサッパリなかったものにしたい、そういう感情に囚われ掃除には熱が入った。


 エルフ族以外に知能のある種族がいて、エルフ族以外の文化が外では育まれている、そのことをこの里は意図的に一〇〇〇年以上も隠し続けてきた。それは許せる内容ではない、アルムはそう思った。


 夢中になって掃除をしたら、あらゆる毛穴から玉のような汗がでた。白い民族衣装が気持ち悪く体に張り付く。掃除を終えるとアルムは村の中央にある唯一の大浴場に出かけた。人が集まる所を好まないアルムにしては珍しいが、外の世界にないかもしれない大きなお風呂には、もう一度入っておきたかった。


「真っ昼間から大浴場を利用する人も少ない。せいぜいジジババがいるだけでしょ」


 そう思いながら大浴場に向かった。あんじょう顔見知りのジジババぐらいしか大浴場にはいなかった。

 村の大浴場は混浴で男女恥ずかしげもなく浴場内でみな自然に振る舞う。アルムは円形の大浴場内の端で、他のジジババから距離を取るように湯につかった。


 湯に浸かりながらドーム型の天井を見上げる。今日でこの村ともお別れ、思い出にでもひたるかなどと、およそアルムらしからぬ行為をしようと思った……が特に何も浮かばない。特に秀でた思い出などない。

 ただ熱い湯に浸かって天井に描かれたエルフ族の歴史っぽい大層な絵をぼんやりと眺めた。絵の意味は分からないし、ところどころ劣化が激しく決して面白いものでもなかった。


 どれぐらい眺めたのだろう……二〇分か三〇分は眺めている。ふと隣に目をやると裁縫を教えてくれたバアヤが湯に浸かっていた。いつからいたのかは分からない。アルムに声をかけることもなく、ただ静かに隣で湯に浸かっていた。


 ――一時間もたっぷり大浴場を満喫すると、湯を出て洗濯したての新しい服を着た。


 ダークブルーの水着のような服はまだ乾ききっていない肌に吸い付く。その上に涼し気な淡いクリーム色のワンピースを着て、厚手のグレーを基調としたローブを着る。そしてローブに合わせた黄色のラインの入ったダークグレーのロングブーツを履く。


 村を出るために準備した革のリュックサックは昨日のうちに森の中に隠してある。ここに来るときに着てきた白いワンピースはこのまま置いていこう。

 どこにでもある民族衣装だし、アルムのものだと誰も思わない。見つけた誰かが捨ててくれるか頂くかするだろう。あとはこの身一つで村を出ればいい。


 アルムは人の目につかないように村の奥地の森から出発する予定だ。村の中心の湖を超え、石や木でできた家並みを眺めながら奥地へと向かう。見慣れた家々を眺めていると、流石さすがに少し寂しさを感じた。


「確かにここは私の故郷だな……」


 アルムは少しばかり思いにふける。そして村の奥地へと向かい人気ひとけがなくなり、更に歩く。一歩先に出たら戻らないと決めた森の入り口に差し掛かる。彼女はそこで立ち止まる。……そして気づいた時には森の入り口を折り返していた。

 頭の中で特に考えたわけでも思い立ったわけでもない。誰かに呼ばれたから振り向く。それはそういうたぐいの反射的な反応だった。


 アルムは知らぬ間に、森の入口の近くにある石と木で建てられた年季の入った家の前まで来ていた。家は部屋が一階に四つほどあり、二階には二部屋ある。アルムの家のちょうど二倍はある大きさだ。

 アルムはなぜだか分からない心の底から湧き上がる気持ちを、なんとか抑え込もうとした。くすんだ緑色の木のドアの前で音もなく息を吐く。そして彼女はどうしようもない気持ちを抑え込めないまま、意を決してドアをノックした。


 コンコン……しばらく待った。返事はない。


 もう一度ドアを叩く。コンコン……。乾いたノックの音が響く。


 何かドアの向こうから人の声が聞こえる。そして間を置いてから、ギィっとアルムの尖った耳に突き刺さる音と共にゆっくりとドアが開いた。アルムより小柄だがぷっくらとした体型のバアヤが出迎えた。アルムが裁縫を教わった、そして大浴場ではそっと隣りにいたあのバアヤだ。


「……バアヤのスープが飲みたくて」


 アルムは適当な理由をつけた。バアヤは特に何も言わず、彼女を家の中に通した。

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