10 仕上げは鍋島


「――この暑さで、なんでもつ鍋やねん」

 鍋島はおしぼりで額を拭きながら言った。「しかも辛味噌。発汗量倍増。俺、ダイエット中でもなんでもないけど」

「どうしてももつ鍋が食いたかったんだよ」

 俺は箸を止めずに言った。「昨日の夜からずっと『もつ鍋の口』になってたんだ」

「ほな福岡で食うて来たら良かったのに。本場やろ」

「そんな時間一秒だって無かったし。向こうで俺、ペットボトルの水しか飲んでねえ」

 鍋島はふうん、と頷いた。「で、何で辛味噌?」

「さっきからそこごちゃごちゃうるせえな」俺は言った。「美味いんだろ? だったらいいじゃねえか。奢ってやってんだぜ」

「それはさぁ、 おまえが何か? 俺に? 頼みが? あるって言うから? それやったら晩メシでも奢ってよ、ってことやんか? そうでなかったら――」

「分かった分かった」俺は手を上げて鍋島の話を止めた。「いいから黙って食えよ」

「……………………」

 鍋島は話すのをやめ、鍋の具を黙々と口に運び、ただずっと咀嚼を続けながらその丸い目でじっと俺を見た。しばらくして飲み込むと、またモツを口に入れてもぐもぐと食べながら俺を見る。そしてたまに極々小声で「あーおいちい。おいちいなー」と言ってはまたじっと俺を見た。

「……ウザすぎる……!」

 俺は箸を置き、腕組みして背中の壁に身体を預けた。「……おまえ、アレだろ? まだ怒ってんだろ? 俺がおまえを差し置いて、稲妻のような速さと衝撃で結婚したことをさ」

「んん? そうなの? 俺、なんも聞いてないけどな?」鍋島はハイボールを手に取った。「万が一そうやったとしても、そんな大事なこと、黙ってるとかありえへんし?」

「……何だよこれ。モラハラ?」俺はテーブルをコツンと叩いた。「いい加減にしろ。のんびりやってらんねえんだよこんなこと」

 鍋島はほくそ笑んだ。「そう言や、何でこんな早い時間からやねん。仕事定時に上がって、まだ六時半やで」

「さっさとおまえの署名もらって、今日中に役所に届を出さなきゃならねえんだよ」俺は言った。「だから、しょうもねえことして邪魔すんな」

「今日は吉日なんか」

「大安だってよ」

「意外やな、そういうことにこだわるなんて」

「俺じゃねえ、周りのみんなだ。もちろんみちるも」

「それは逆らえへんな」鍋島はグラスを空けた。「それやったら、別に俺やなくても良かったのに。昨日のうちに身内の誰かに書いてもらって、今日朝イチで出してきたら良かったんやんか」

「おまえじゃないと、ってのがみちるの強い意向だ」俺はふうっとため息をついた。「……まぁ、俺もそう思ってる」

 鍋島は満足そうにふんと鼻を鳴らして、通りかかったスタッフにハイボールのおかわりを求めた。スタッフは頷き、空いたグラスを下げて立ち去った。

「せやからこの店を選んだってわけか」

 鍋島は煙草に火を点けながら言った。「ここから北区役所は目と鼻の先や」

 そうだ、と俺は頷いた。この店は環状線の天満てんま駅からすぐの場所にあって、区役所へも歩いて五分もかからない。

「二十四時間いつでも受け付けてくれるとはいえ、こっちだって明日があるからな。遅くても今から二時間以内には持って行きたいんだ。みちるもその報告を待ってる」

「……なるほど」鍋島は煙を吐いた。「ただ、ちゃんと――」

「説明だろ。分かってるよ」俺は食い気味に言った。「するよ。言ってくれ、何が聞きたい?」

「全部」

「うっそやめてよそんなめんどくせえ――」俺はまた壁に倒れた。

「俺の署名が要るんやろ? 一条ご指名の、この俺のさ」

 そう言って得意げに煙草を燻らせながら俺を眺めている鍋島を、俺は心底恨めしい気持ちで睨みつけた。こいつが俺に自分の婚姻届の署名を頼んできたときは、絶対に容赦しねえ。倍返し、いやそのまた倍返しだ! 土下座させてやる。――古いか。

「……分かったよ。ただし冷やかしで話の腰を折ったら殺すからな」

「もう〜おめでたい話なのにあかんでそんな物騒な言葉ぁ〜」

「だからそれだよ」俺は箸で鍋島を指した。「マジでやめろ。次やったら必ず仕留める」

 へいへい、と鍋島は肩をすくめ、運ばれてきたハイボールをぐいっと飲んだ。そして羽織ったシャツのポケットから新しい煙草を取り出して封を開け、ライターの隣に置く。腰を据えて聞く態勢に入ったようだ。

「――じゃあまずは、横浜に行った日のことから話せ」

「……そこからかよ」

 気が遠くなってきた。

 もう、大昔のことのような気がする。昨日があまりにも濃密な一日だったのと、その前日、つまり一昨日を境に俺の人生にはっきりと境界線が引かれたのを実感しているからだ。

 だが同時に、あの昨日を過ごしたおかげで時間の無駄を瞬時に省くスキルを身に付けてもいた。抵抗することをさっさと諦め、一つ向こうのテーブルを片付けているさっきのスタッフに声を掛けて芋焼酎のロックを注文した。俺も本腰を入れたのだ。

 どうせなら、包み隠さず話そう――。(ただしみちるとのイチャイチャは口が裂けても言わない。)



 三日前の墓参での出来事をすべて話し終わったところで、それまでほぼ黙って聞いていた鍋島は言った。

「――探すつもりは無いんやろうな。その両親の移住先」

「無い。そこまでの決断を踏みにじることはできねえし、そんな資格もねえ」俺は言った。「相当の葛藤があったはずだからな」

「……確かに」灰皿で煙草を消すと鍋島は俺を見た。「そんで、おまえを解放してくれたんや」

「その通り」俺は顔をしかめて頷いた。「だから、底まで堕ちた。向こうの意志を受け入れることで、自分も解放されたがってるんだってことを晒されて、嫌悪感のどん底にな。そのあと食った昼メシを、速攻で吐いた」

「……自分を責めすぎやろ」

「おまえ、自分だったらどうだ?」俺は笑って訊いた。「同じだろ」

 うーん、と鍋島は唸った。

「このままだとどうにかなりそうだと思ったよ。電車に飛び込んじまうとかさ。それで、みちるに会いに行った。あいつの前だったら、平静を保てるんじゃねえかと思ったんだ。で、仕事から帰ってきたばっかのあいつのために、メシ作ったり、カクテルを用意したりさ」

 思い出して、俺はちょっと胸が詰まって来た。大昔のことのように思っていても、実際はほんの三日前のことだ。思い出し、話したら、そのときの感情も一緒に蘇ってきたようだ。

「――そうやって、あいつと一緒にいたら何とかその日は越えられそうだと思ってたら――」

 俺は焼酎を飲んだ。先を話すのが怖くなった。それでも、やめようとは思わなかった。

「……みちるが、言ったんだ。俺が長年の苦しみと悲しみに区切りをつけようとしてるんじゃないかって。そんな顔に見えるって。……それでいいと思うって」

 鍋島は俯いた。息を吐いて、頭に手をやった。

「そ、そしたらさ。もう俺、止まんなくなっちまって――」

 俺は笑って、それから唇を噛んだ。「出るわ出るわ。涙、鼻水、ヘンな泣き声――嗚咽ってやつよ。自分でもどれだけ泣くんだって思うほど、何時間も」

「……想像つかんな」

「涙が枯れるまで、って、まさにああいうことを言うんだな。そのうち日が変わって、疲れて眠っちまった」

「そこで全部、吐き出せたんやろ」鍋島は言った。「今まで溜めてたいろんな感情の全部」

「そうだと思う」

 俺は鍋の底に残った具を箸で隅に寄せた。「頼むか? シメ」

「え? ああ、まだちょっと早いかな――」

 鍋島はテーブルの端に立ててあったメニューを見た。そしてスタッフを呼び、牛タンの煮込みと豆腐のサラダ、そして俺と同じ焼酎を注文した。俺もおかわりを頼んだ。

 俺は話を続けた。

「起きたら、みちるは仕事に行ったあとだった。朝メシ作って置いてくれてたよ。それ食って、そのままずーっと、部屋ん中でぼんやり、抜け殻みたいに過ごしてさ。そのうち少しずつだけど、自分の気持ちと向き合って、これからどうしたらいいのかってことを考えられるようになってきたんだ」

 俺はそのときのことを思い出した。明らかに、自分の人生が変わった瞬間だった。

「――そしたら、分かってきたんだ。十年間、ずっと真っ暗な闇の中をウロウロ彷徨ってるばかりだった俺に、出てきていいんだよって光を射しに来てくれたのがみちるなんだって。そんで、行っていいんだよって、背中を押してくれたのが、あの彼女の両親だって」

 鍋島は小刻みに頷いた。強く納得していることの表れだ。

 俺は壁にもたれ、通路を挟んで反対側の壁に並んだ誰だか分からない有名人のサイン色紙を眺めながら言った。

「二宮が墓で会ったときに言ってたことは正しかったんだなって、思い知らされたよ」


 “――だけどね、芹沢さん。人は――人の心というのはいつか変わる。変えられるんですよ。どんなに濃密な憎しみで占領されていても、また別の人と関わりを持って、その人たちに癒されることで――乗り越えて、変わっていけるんです――”


「――まあそんなで、だったらこの際決めよう、って思ったのさ。思いを形にしようって」

「それで結婚」

「うん。断られる可能性はゼロじゃなかったけど、段取りとかいろいろ調べてさ。何しろつい前日まで、そんなこと一ミリだって考えてなかったんだから、詳しいことなんにも知らねえのよ。とりあえず婚姻届は必要だなって思って、役所に取りに行った」

 そこでスタッフが注文した品を運んできた。テーブルに並べ、空のグラスを下げて去って行くと、俺は腕時計を見て言った。

「――時間取ったな。ここからはスピード上げるぜ」


 それから、帰って来たみちるに婚姻届を見せ、二人で無謀とも言える強行策の計画を練った話から、昨日の夜、すべての計画をやり遂げて福岡空港でそれぞれ別の便に乗って帰るまでの話を、俺は淡々と話した。

 途中、鍋島はスタッフを呼び、シメの麺を注文した。スタッフは一旦鍋を引き取ってこちらで調理しましょうかと訊いてきたが、鍋島は自分でやりますと答えた。この男の料理の腕はプロ顔負けだ。

 そして運ばれてきた麺を手際よく、きっちりと絶品のシメに仕上げながら、驚いたり感心したり笑ったりちょっとじんとしたり、大きくはないがちゃんと一つ一つにリアクションを返してきた。

 みちるの父親については、トップランクの警察官僚の割には気さくで理解がある方だが、万が一俺がみちるを不幸にするようなことがあったら本気で俺を潰しにくるだろうと警告した。俺は真摯に受け止めた。

 二宮の再登場については、あいつはブラックでもホワイトでもない、グレーなハッカーであると同時にみちるのパシリで、鍋島曰く俺のような厄介な男の理解者という不思議な存在だと首を捻った。そして、別居婚というレアなスタイルを選んだことで否が応でも抱いてしまうみちるの不安を解消すべく、そのスキルを使って俺を監視してくるかも知れないと疑った。俺はまさかと一蹴しながらも、あいつならやれるだろうなとちょっと心配になった。

 結婚式については、いずれ自分も挙式を控えているせいで興味津々で、みちるがずっと泣いていたと聞くと出席してなくて良かったと胸を撫で下ろしていた。鍋島は重度の『女性の涙恐怖症』なのだ。

 他に、披露宴は時期をあらためて設けることになったが、挙式を福岡で執り行ったので披露宴は横浜でと考えていること、けれどももしかしたら福岡でもやれと言われるかも知れない、それは実は俺が十二代目当主を継ぐ立場にあるからだと知ると、鍋島はみちると同様に驚いた。そしてなぜか「初代に謝れ」と一人で憤慨していた。失礼なやつだ。


 すべてを話し終わったところで、料理も食べ終わった。残った焼酎のグラスをちびちびと空けながら、満足げに煙草を味わっている鍋島に俺は言った。

「――ってことでそろそろ書いてもらおうか」

「ああ、そうやったな」

 俺は昨日からずっと持たされている婚姻届をテーブルに広げた。鍋島はそれを手元に引き寄せ、煙草を灰皿に置くとじっくりと眺めた。

「――ただの紙切れやけど、やっぱ重みがあるな」鍋島は頷いた。「いろんな思いが詰まってるってことか」

 そして鍋島は用紙を見つめたまま俺に右手を差し出した。「ん」

「え?」

「ボールペン」

「持ってねえの?」

「持ってないよ」と鍋島は肩をすくめた。「持ってないとあかん?」

「いや、そういうわけじゃねえけど――」

 俺はちょっと驚いた。いろいろペーパーレスな時代だけど、刑事なら筆記用具の一本くらい持ってろよと思った。

 俺は自分のペンを差し出した。すると鍋島は言った。

「って言うか、おまえが出して渡すのが筋やろ。おまえの婚姻届なんやから」

「……はい。すみません」俺はふてくされて頷いた。

 証人署名欄に記入を終えると、鍋島は身体を起こして確認するように眺めた。次は認印だろと思って二宮のときと同様、用意していた判子を出そうとすると、鍋島は隣に置いた自分のボディバックから印鑑ケースを取り出した。

「――それは持ってるんかぃ」俺は関西弁で突っ込んだ。

「誰のもんでも借りられるわけやないものは持ってるんや」

「……あ、そ」

 鍋島はふふんと笑ってケースから判子を取り出した。俺が朱肉を差し出すと、ちょっと驚いたように目を開き、それからしっかりとインクを付けて用紙に押印した。

「ありがとう」

 俺はちょっとほっとして言った。これで完成だ。あとは提出するだけ。

 鍋島はまた確認するように用紙を見つめながら、灰皿に置いた煙草を取って咥えた。煙に目を細め、まだしつこく眺めている。

「おい、灰を落とすなよ」俺は言った。

「……分かってる」

 やがて鍋島は用紙の向きを変えて俺の前に差し出し、煙草を灰皿に押しつけて俺を見ると言った。

「――一年前のあの事件、担当して大阪こっちに来たのが一条で良かったな」

 俺は頷いた。「そうでなかったら、俺は未だに闇の中だ」

「救いの女神や」と鍋島は笑った。それからわざとらしくかしこまって言った。

「おめでとうございます。末永くお幸せに」

 俺は不覚にも泣きそうになったが、必死で堪えた。


 こうして、やっとのことで書面を完成させた俺は、店を出たあと鍋島と別れ、区役所に提出した。

 届は受理され、俺とみちるは正式に夫婦になったというわけだ。

 はぁ、しんどかった。



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