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 貴志は咄嗟に、蜂だけに八センチあります、などとくだらない駄洒落を思いついたが、言ったが最後、殴られそうな気がしてぐっと言葉を飲み込んだ。

「こ、これ、スズメバチよね。お願いだから早く取ってぇ!」

 岡田の顔が恐怖でゆがんだ。

 貴志はすぐ捕獲キットから電気ショック棒を取り出すとスズメバチにそっと近付けた。

 するとバチッと音がして、蜂が地面に落ちた。と同時に岡田は腰砕けになって、地面にへなへなと座りこんだ。

 貴志は地面に落ちた巨大蜂をすぐに拾い上げ、捕獲容器にいれて観察する。

「岡田さん、これは多分ヨウロウヒラクチハバチです」

「なんなのそれ?」

 力のない声で岡田が尋ねた。

 ヨウロウヒラクチハバチは外見がスズメバチに似ているが無毒である。

 一般に蜂の針は産卵管が変化した物なので刺すのは雌だけであるが、原始的なハチ類であるハバチは産卵管が針になっていないため人を刺すことはない。

「あんた、詳しいのね」

 岡田が感心して言った。

「大学の卒業論文はハバチの研究でした」

「そ、そうなの、なるほどね」

 岡田はようやく足に力が戻ったらしく、立ち上がって歩き出した。

「岡田さん、またなんかブンブン変な音がしませんか?」

 貴志が見ると岡田の頭上でまたハバチがゆっくり飛んでいる。今度は五センチくらいで先程より小型である。とは言え、やはり恐ろしい。

 そういえば岡田から微かにフローラルのいい香りがする。この匂いが好きなのか?

 ハバチがまた、今度は岡田の胸あたりに取り付いたのだ。

 まずいな、今度は正真正銘スズメ蜂のようだ。

「そのまま動かないでください」

 そう叫んで貴志はまた電気ショック棒をそっと近づけた。あと少しで棒が蜂に届こうとしたとき、不意に蜂が岡田の顔に飛び移った。

 岡田は「ギャー」と悲鳴をあげて、反射的に手で蜂を振り払った。

「痛ッ!」

 岡田はそのまま地べたにペタンと座り込んだが、まだ蜂は頭上でホバリングをしている。

 貴志は電気ショック棒をバットスイングのように振り抜いた。

 会心の一撃とでも言うのか、蜂は二メートル先まで吹っ飛んで落ちた。落ちた蜂を見ると頭が半分取れかけて、足をばたつかせている。

 貴志は電気ショック棒を蜂にあてがうとバチッと音がして、そのまま拾って捕獲容器に放り込んだ。

「大丈夫ですか」

「ええ、まあ」

 岡田の手を見るとだいぶ腫れている。貴志はすぐにカバンから吸引器を取り出すと傷口にあてがって毒を吸い出し、さらに水筒の水で洗ってアルコール消毒をした。

 終わりましたよと貴志が岡田を見ると、岡田の顔は真っ青になって、さらに口から喘鳴も聞こえてきた。

 これはアナフィラキシー症状と思われた。ショック状態になると場合によっては死に至る可能性もあり、大変危険な状態である。

 ファルコンの救急医療セットには色々な薬が入っており、その中には応急処置用のアドレナリン自己注射薬もあったはずだ。これはアナフィラキシー補助治療薬で、ショック症状などを緩和する薬である。

 貴志は無線で森野を呼び出した。

 この散策道は木の枝が邪魔になり上空からは見えにくい上、さらにファルコンを駐機させる適当な空き地がないのだ。それでアスレチック広場まですぐに救急セットを持って来るよう依頼した。

 蜂によるショック症状の場合、十五分以内に手当てをする必要があると言われている。出来れば安静状態にしておきたいのだが時間が無い。ここから広場までを約一キロ半として、岡田を背負って時速十キロで走れば約十分で行けるはずだ。問題は体力に自信の無い貴志にそれが出来るかだが、そのとき不意に今朝見たイメージが頭に浮かんだ。

 貴志は右手の拳を空に掲げて強く叫んだ。

「メル、俺に力を貸せ!」

 一瞬、体から青緑の炎が吹き上がり、今までにないような高揚感、興奮や緊張が満ちてきた。

 これはアドレナリンが出まくっている状態なのか、と貴志は思った。これならやれそうな気がする

 貴志は岡田を背負うと全速力で元来た道を走り始めた。

 以前の貴志では絶対に出来ない芸当である。メルとかいう得たいの知れない宇宙人に感謝するしかないな……。貴志は本気でそう思うのだ。

 五分ほど走ったところで、目の前に黒い岩のようなものがあった。ハッとして思わず立ち止まる。

 相手も驚いたのだろう。振り向いて貴志の顔をじっと凝視している。

 熊だ! まさかこんな処で遭遇するなんて。

 まずいことに散策道は一本道だ。引き返す訳にはいかない、と貴志が考えているうちに、熊はノソノソと貴志の方へ歩み寄って来た。

 貴志も岡田をその場に降ろし、熊にゆっくり歩み寄った。貴志に恐怖心は無かった。

 お互いが三メートルくらいまで近づくと熊はムクッと立ち上がった。身長は貴志より低いが体重は百キロ以上ありそうだ。

 貴志はそのまま勢いよく熊へと突っ込んだ。

 熊は勢いに気圧されてそのまま一歩後退すると、前足を急に貴志の顔面めがけて振り下ろした。

 貴志がさっとかわす。

 熊は前足を地に下ろすと、今度は四つ足のまま飛びかかってきた。そして大きな口を開け、貴志の顔に噛み付こうとした。

 貴志は大きく開かれた口吻の横を左掌で受け流し、右手の拳で思いっきり鼻の頭に打撃を入れる。鼻血が出て、熊の頭が地面を向いた瞬間、靴先で鼻の頭めがけて思いっきり蹴りを入れた。

 熊はぐうっという低い声と、引きつるような顔をして、いきなり立ち上がったがその瞬間、貴志は熊の膝頭に思いっきり前蹴りを入れた。

 熊の足がガクッと崩れて体が右に傾き、脇腹が無防備に空いた。その瞬間、貴志はありったけの力を込めて回し蹴りを打ち込む。

 熊はそのまま横に弾け飛ぶと、木の幹に体を打ち付け、動かなくなった。

 貴志はぐったりした岡田を背負い直すとそのまま広場に向かって一目散に走り出した。

 広場に着くとすぐに目で森野を探す。

「貴志くーん」

 休憩用のベンチで森野が手を振っている。

 貴志はそのまま森野へ駆け寄り、ぐったりした岡田をベンチに降ろしすと仰向けに寝かせた。

 直ぐに森野はケースから携帯アドレナリン自己注射製剤を取り出して後部の安全キャップを外し、

「貴志君、岡田さんの足を押さえててね」

 そう言うとユニフォームズボンの上から太ももの前外側にニードルカバーの先端をカチッと音がするまで強く押し付けた。

「これで大丈夫なはずよ」

 時計を見ると蜂に刺されてから十二分が経過している。

 しばらくすると岡田の息づかいが穏やかになってきたようだ。

「救急車を呼んでいるから、あと数分で来ると思うの」

 やがて救急車が到着して、救急隊員が岡田を担架に乗せた。

「それじゃ僕は岡田さんに付き添って病院まで行ってきます。森野さんはファルコンで待機していてください。また連絡します」

「カバン、カバン!」

 森野がカバンを二つ掲げて貴志に差し出した。

「ありがとう、助かるよ」

 こういう仕事柄、急な宿泊や購入品に備えて各自が下着や日用品、現金等をカバンに入れて準備しているのだ。

 移送先の病院で岡田の診察も終わり、貴志は携帯無線で森野に連絡を入れた。

「森野さん、貴志です。岡田さんは症状も落ち着いて大丈夫だそうです。でも医者からの勧めで今日は入院することになりました」

「了解しました。所長には連絡を入れておきましたが、今の話も連絡しておきます。ところで貴志君はこの後どうするの?」

「これからそちらに戻りますので待っていてください」

「了解」

 岡田は既に大部屋に移され、ベッドで横になっていた。顔を見るとかなり落ち着いたようである。

 一、二分仕事のことを話して最後に貴志が挨拶をして病室を出ようとすると、岡田は急に体を起こして貴志の手をぎゅっとにぎった。

「本当に今日はありがとう」

 岡田の予想外の行動に貴志は少し照れたが、悪い気はしない。

「それにしても、あなたの体から炎が吹き出す変な幻覚を見たの」

「あの状態では無理もありません。お大事に」

 貴志は内心ヒヤッとしたが、とぼけて病室を後にすると、病院の玄関でタクシーを呼んで、三十分ほどでファルコンの駐機場所へと戻ったのだった。

 岡田も問題なければ、明日の午前中には調査に合流するはずである。

 翌日は南原が指揮して再調査を行い、巨大化した魚に蛇やら蜘蛛やら、蟻、蠅、ムカデなどを大量に捕獲してきた。

 巨大化昆虫の標本でも製作したら相当見応えがありそうだ。

 それと、警察には当分の間、付近を立ち入り禁止にしてもらうよう依頼した。

 この騒ぎも一週間ほどで収まってきた様子である。

 捕獲した生物サンプルが急激に衰弱して絶命したのだ。多分、未知の成長促進物質による巨大化が急激すぎて、心臓などの臓器が耐えられなかったと思われる。

 それから二週間が経って、立入禁止も解除された。

 今回の新しく発見された成長促進物質の基本構造は、『特殊生物総合調査研究所』から特許申請されている。

 こういう成果があればこそ、来年の予算要求も通り易くなるというものだ。

 それにしても今回の騒動で、岡田の貴志に対する態度が少し変わったように思う。

 貴志に対して優しいというか、妙に気を使うというか……。

 貴志が研究所に来たばかりの頃は、不慣れでよく岡田から叱られたものである。

『キノシタザカ』の名前で何回も怒られているうちに、短くて呼び易い『タカシ』が定着したのだ。

 そんな経緯もあってか、貴志個人としてはむず痒くてしょうがない……、のであった。

第1話完

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