さようなら②

 ベルゼウスがいる広間の扉は、蟻の子一匹通れないほど固く閉ざされていた。

 扉を必死に引いている小さな背中が目に映り、俺はすべての感情を2本の脚に振り向ける。

「ミルル!!」

 だが、あまりに遠すぎたのか、ベルゼウスへの思いが強いのか、俺の声は届かなかった。

 ミルルは、わずかに開いた隙間から身体をねじ込み、広間へ消えた。


 もう、俺は壁なんか頼りにしない。杖代わりにしていた斧の柄を捨て、視線の先の扉へと一目散に駆け抜ける。

 砕けることなどいとわずに扉を掴み、投げ飛ばすほどの勢いで開け放つ。

 そして俺の思考から、一切の言葉が消えた。


 苦痛に歪んだレスリーの背中。

 膝をついて丸まったシノブの背中。

 詠唱姿勢で硬直したホーリーの背中。

 切っ先を正面に構えたブレイドの背中。

 呼吸が止まり、凍りついたミルルの背中。


 ブレイドの剣に貫かれたベルゼウスは、歪んだ笑みを仮面の下で浮かべていた。突き刺さった剣を両手で掴むが、ついに膝から崩れ落ち、天井を仰ぎ、力なく後ろへ倒れた。


「ベルゼウスさん!」

 ミルルはベルゼウスのそばに駆け寄って、消え入りそうな浅い吐息を浴びていた。ミルルの頭に微かに震える腕が伸びる。

「……ミルル……」

 愛だけを支えにして上げた腕は、ミルルをそっと撫でると力尽き、虚しく叩きつけられた。途端に呼吸は荒くなり、深く傷ついた鎧が激しく上下している。


 戦う力を使い切ったレスリーは、残ったわずかな体力を視線だけに向けている。

 出せるすべてを出し切ったシノブは、霞む視界を凝らすことしか出来ずにいる。

 最弱の白魔術しか残されていないホーリーは、それでも詠唱姿勢を崩せずにいる。

 残る力を振り絞ったブレイドは、床に手をつき最期のときを、じっと見届けている。


「ベルゼウスさん……どうして……」


 ミルルはぽつりぽつりと雫を落とし、抑えきれない激情に小さな身体を震わせている。

 そして俺は膝を折り、肩を抱くことしか出来なかった。


 吹けば今にも消えそうな命の灯火ともしび。それをベルゼウスは、かすれた声に変えて絞り出す。

「……ミルルよ、これぞ我が運命というものだ。そして彼らは、託された願いを叶える務めを果たした……それだけのことだ」

 ミルルは感情に押し潰されて、背中を丸めた。ベルゼウスを濡らす雫は、涙を流しているように仮面をつたう。


 ミルルがあまりに小さくなるものだから、肩を抱くことが出来なくなった。今の俺に出来ることは、そっと背中に触れるのみだ。


「……ミルルよ……」

「……なぁに? ベルゼウスさん……」

 すっかり細くなった震える声に、ミルルも俺もブレイドたちも、最期のときを覚悟した。


「……最期に、お祖父ちゃんと呼んでくれ……」


 ベルゼウスより先に、俺たちの息が止まった。


「……お祖父……ちゃん……?」


 ベルゼウスの鉄仮面が、悔いのない笑顔をしているように見えた。


「ベルゼウスさん! 私のお祖父様だったの!? ねぇ、ベルゼウスさん!」


 鉄仮面が、小さくうなずいた。


「……お祖父様! お祖父様! お祖父様!!」


 ベルゼウスは、満足そうにこと切れた。

 何度も館に運んでくれた脚が、マンドラゴラを一緒に植えた腕が、グレタへの想いに高鳴らせていた胸が、些細な願いを叶えられた微笑みが瘴気の霧となって消えていき、残されたのは白薔薇の花束ひとつであった。

 広間の中央に突き立てられた剣は、ベルゼウスの墓標となった。


 これは、いつかの俺が夢見た結末。今は自分の無力を恥じ、変えられなかった未来を悔いるのみだった。

 ベルゼウスの無念を弔い、祖父を失い悲しみに暮れるミルルに寄り添う、それが今の俺に出来ること。

 せめて、愛したグレタの元へ花束を届けようと拾い上げ、微動だにしないミルルの肩に触れた。


 俺の両手は軽い力、強い意思に振り払われた。


「──ミルル……?」


 無数のカラスとコウモリが、窓を破って広間に飛び込んだ。俺を軽々と弾き飛ばすと、ミルルを一瞬で包み込む。それはさながら、黒い竜巻だ。

 扉からはクロが駆け寄り、翼の渦へと呑まれていった。

 渦は次第に細くなり、その勢いを増していく。くびれが出来て丸くなり、細くなり、それは少女の、ミルルの形となった。


 俺は、間違っていた。

 人間が黒魔術を忌避するのは、都合が悪いからではない。

 すべてを破壊し尽くせる圧倒的な力、抗うことなど敵わない最強の力、それを恐れていたのだ。

 そして俺たちは、やはり間違っていた。

 その力を突き動かすもの、それは憎悪だ。


 ミルルを包んだ黒い渦が、上から下へと落ちていった。見慣れた金髪が、磁器のような白い肌が露わになった。おめかしに着せたピンクの服は、闇より深い黒に染まった。

 ミルルの無事に安堵して、声をかけようとした次の瞬間。

 ミルルの頭から角が生えて、背中にはカラスとコウモリの翼が広がった。


 その姿は誰が見ても、こう思うだろう。


 ──悪魔──。


 変わり果てた少女からは、息も出来ないほどの威圧感が漂っていた。俺たちは、ひとりの少女の怒りによって束縛されている。

 この悪魔を生んだのは、史上最強の悪魔を生み出したのは、紛れもなく俺たち、人間だ。それを後悔したところで、もう遅い。

 この世界は、もうじき破滅を迎えるのだ。


[ミルルがあらわれた]

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