第49話 其方しか見えない

 今の話は一体なんだ?!

 公事方御定書第七九箇条って?

 十五歳で遠島…?

 村にはもういない?


 真っ白になった祐之進の頭の中で、先ほどの父と宮部の話が途切れ途切れに共鳴していた。処理しきれない事柄が頭の中を暴れ回っているのか頭が破れそうに痛かった。


『三月十日に国境くにざかいの番所から出立するそうだ』


 三月十日…

三月十日…


 それはまごうことなく今日の今の事では無いのか?!混乱した今の祐之進の頭の中でそれだけが鮮明に浮かび上がっていた。


 頭も体もふらついていたが、体が燃えるように熱かった。いや、それは凍り付くほどの冷たい感覚だったのかも知れない。闇雲に走り出した祐之進の気持ちは自分にとって、そして田村家にとって今日が重要な日などと言うことはとうに頭から消し飛んでいた。その心は既に村へ、アオへと駆けていた。


 ともかくアオに会わねばならない!

 会わずにいられない!

 このまま永遠に別れるなど出来ようはずがない!


 履き物も履かずに飛び出した神社の境内で、折よく厩舎に引かれていく馬が横切った。馬は流鏑馬やぶさめ用の煌びやかな馬具を身に纏っていたが、今の祐之進には乗って走れればなんでも良かった。武士の嗜みとして流鏑馬の稽古は祐之進も何度かした事がある。躊躇うことなく、その馬に飛びついた。


「已む無き事情があり、しばし神馬をお借り申す!御免!」


 そう叫ぶが早いかくつわを取っていた厩者の手から手綱を奪い取ると、あぶみを踏んで跨る勢いに任せて手綱を思い切り引っぱった。馬は驚いて前脚を高く上げるとひと鳴きし、そのままの勢いで神社の外へとはやての如く駆け出した。


「祐之進様ー!お待ちください!!若様!!」


 呆気に取られてポカンと見送る厩者の背後から宮部と何人かの男たちが息を切らせて全速力で追ってきた。だが時は既に遅し、祐之進は走り去った後だった。


 人通りの激しい往来を煌びやかな馬具をつけた馬が全力疾走で走り抜けていた。その勢いに人々は何事かと驚いて右へ左へと道を空けたが、馬はお構い無しに道端の物売りの籠をひっくり返して走っていく。道端には野菜が転がり、馬を避けようとした棒手振りの籠から魚が道端に振り散った。だが今の祐之進にはそんな事は目にも入らなかった。

 アオに会わねばとその一念で、大きな馬に今にも振り落とされそうになりながらも懸命にその尻を足で蹴って走らせた。馬は走りに走り、村里へ通じる街道に出るなりへたばってしまった。鼻息荒く一歩も動かなくなった馬に窮した祐之進の目に留まったのは、ちょうど良く松の幹に繋いであった誰ぞの馬。背に腹は変えられぬとばかりにあろう事か祐之進はその馬に飛び乗った。

 それに慌てたのは茶屋で一服していた馬の持ち主だ。「泥棒ー!」と叫んで飛び出して来たが後の祭り。祐之進は疾走する馬上から振り向きざまに「私は田村祐之進という者、しばしご貴殿の馬をお借り申す!」そう叫んで走り去ってしまったのだ。

 祐之進が脇目も振らずに村に駆け込んだ時にはお天道様は真上に照り輝いていた。この村には居ないだろうと孫左衛門が言っていたように、中洲にも屋敷にもアオの姿は無かった。それを確認する頃には祐之進の散らかった頭の中にもはっきりと今の状況が見えてきた。

 あの時のアオの罪は赦されたのでは無く、これから償わなければならない罪だったのだという事。やがて来る今日という日が分かっていたからアオは自分にその事を言えなかったのだ。それは少なくとも祐之進を大事に思っていたアオの気持ちの証のように思えた。

そう思うと、アオへの恋情はますます募った。

 祐之進は村人に頼み込み、もう一度馬を取り替えると漏れ聞いた『国境の番所』までの道を聞くと礼もそこそこに馬に飛び乗っていた。だが出発したは良いが今度の馬は農耕馬だ。馬力はあるが鈍足で祐之進はじりじりとした気持ちで国境を目指していた。


 頼む、間に合ってくれ!

 私を待っていてくれアオ!


 祈る気持ちで道を急いだが、果たして国境の番所に辿り着いたとしても、そこにアオがいるとは限らない。土煙を上げて駆け込んだ番所には案の定、アオの姿は無かった。番所の役人に聞くと、アオは罪人を運ぶ唐丸駕籠とうまるかごに乗せられて数刻前にここを出立したと言う。いくら鈍足馬と言えど、相手は駕籠だ。きっと間に合うはずだと念じながら祐之進は馬を走らせた。

 しかし行けども行けども駕籠には追いつかず、もうダメかと弱気になった時だった。視界に飛び去る松林の隙間からその眼下に唐丸駕籠の姿を捉えた。それは祐之進の行く道の下に並行に走ったもう一本の道だった。アオを乗せた駕籠は緩やかに右に曲がっており、このまま行けば直進している己とは遠ざかってしまうのが見て分かった。祐之進は焦った。さりとて下に降りる道はなく、祐之進は声をかぎりにアオの名を叫んでいた。


「アオー!待ってくれ!その駕籠暫し待たれよ!!アオ!アオー!!」


 その声は唐丸駕籠に揺られていたアオの耳にも届いた。


 祐之進?そんな馬鹿な…。今頃彼奴は元服の真っ最中でこんな所にいるはずは…!


 鳥籠を被せたような唐丸駕籠の隙間からアオは半信半疑で声のする方へと視線を走らせた。


「アオ!待ってくれ!!アオ!アオ!」


 そう己の名を叫びながら、上の道から急斜面を馬が駆け下って来るのが見えた。それは無謀としか言えなかった。


「馬鹿!なんて事を!…止めろ祐之進!!怪我をするぞ!!」


 案の定、馬がそんな所を走れるはずも無い。馬は直ぐに斜面の土に滑って転び、祐之進は勢いよく投げ出された。縦横無尽に走る木の根っこに身体をぶつけながら、その急斜面を祐之進の身体は二転三転してアオのいる道へと転がり落ちた。祐之進は土まみれで着物はあちこち裂けていた。上げた顔は頬にも額にも血が滲み、それでも足を振るわせながら立ち上がり、最後の力を振り絞ってアオの駕籠へと走って来る。何度も転んでは立ち上がり、祐之進の目には今アオの唐丸駕籠しか見えてはいなかった。

 そんな祐之進の姿にアオは駕籠に齧り付くようにしがみつき、必死で担ぎ手に懇願していた。「止まってくれ!お願いだから止まってくれ!」と。








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