第48話 立ち聞き

 早朝に村を立って、郷里に着いたのは昼過ぎだった。田舎の風景が遠ざかるに連れて、次第に気持ちは「田舎の祐之進」ではなく「父の小姓祐之進」へと変わっていくのが自分でも不思議だった。

 駕籠の中からでも街中の賑わいを感じると、アオと楽しく過ごした事がまるで遠い夢の中の出来事だったようにすら感じる。父に伴って江戸藩邸で暮らし始めたのが三年前、それから村里で暮らしたのが八ヶ月。要するに、三年八ヶ月、母の暮らすこの郷里の屋敷には帰っていない事になる。

 屋敷の長屋門を潜ると祐之進は懐かしい気持ちになっていた。家老の屋敷らしく、正面玄関には立派な敷台があったが、我が家とはいえここから上がれるのはこの家の主人である孫左衛門と殿様くらいだ。いくらこの家の当主の息子であっても祐之進はこの表玄関から家に上がった事は一度も無い。だと言うのに、今日は祐之進を乗せた駕籠が敷台に横付けされた。祐之進が戸惑っていると、奥から母が祐之進を出迎えに出てきた。薄鼠の落ち着いた着物に黒い帯。慎ましい武家の内儀の佇まいをした女性だった。


「お帰りなさいませ、祐之進殿。この度はまことにおめでとうございます」


 そう言うと、母は恭しく三つ指をついて祐之進を出迎えた。母は昔からそうだった。子供とはいえ祐之進は子供扱いされた事はなく、幼い頃から己の部屋も与えられて育った。それに引き換え母と同じ部屋で暮らし、甘やかされて育った千之助が子供心に妬ましかった。だが今は分かる。母が冷たい態度に見えたのも、いずれこの家の当主となる事を祐之進に自覚させるためだったのだ。


「ただいま戻りました。長らく留守にして御不自由おかけしました。…あの、ここから上がっても宜しいのですか?」


 慣れぬ敷台に足を踏み出すのを躊躇う祐之進に母はにっこりと頷いた。


「もう貴方は田村家の立派な跡取りですからね、旦那様がいらっしゃらない時はこの家の主人は其方ですから、どうぞここからお上がりください」


 元服する事で変わる事がきっと他にもあるだろう。今、祐之進はその最初の一歩を踏み出したのだった。だが、それはアオとの日々を引き換えにするほどのものなのか、まだ祐之進にはそこまでの自覚はできなかった。

 ともかく、帰った家では歓待され、祝いの品々が届き、元服用に誂えた衣装や烏帽子などが揃えられた。そしてその烏帽子親には叔父である金剛寺貞近こんごうじさだちか様がなると言う。恐らくは貞近様の一文字が新しく祐之進の名前となるのだ。


 そうか…、アオに次に会うときにはもう私は祐之進では無いのだな。


 その事を寂しく思うと言う事は、まだ祐之進の中ではこの恋は終わった恋ではないのだ。そうやって元服当日の三月十日までの三日間はあっという間に過ぎ去った。


 当日は良く晴れていた。江戸から父と千之助も駆けつけ、元服は田村家の代々氏神様である三津田神社の御神前にて執り行われる事となっていた。神社の控えの間にて父や烏帽子親に堅苦しく挨拶をし後、祐之進は着替えるために中座した。


「兄上!兄上…!」


 それを見計らって千之助が駆け寄ってきた。


「本日はおめでとうございます」


 堅苦しい挨拶が千之助に似合わずに思わず祐之進は笑ってしまった。


「ところで、アオ殿はどうされたのですか?まさか、此度のことで別れる事になりはしませんよね?」


 幼いくせに鋭く突っ込んでくる千之助に、不器用な祐之進は言葉に詰まった。だがそんな祐之進に千之助が思いがけない話をして来た。


「俺、今良い事を聞いたんです。父上がさっき家臣の宮部殿とお話をされているのが漏れ聞こえてきて…、アオ殿を祐之進付きの家臣として当家に迎えてはどうかと言う話で…」


 そこまで言った時、背後で千之助を呼ぶ母の声がした。


「あ、はい!ただいま!

…ともかく今日は兄上は希望をもって元服に臨んで下さいね!」


 そう言い置くと、千之助は話途中で慌ただしく去っていってしまった。だが、良い話を聞いた。アオは自分はどんな立場で祐之進の側にいれば良いのだと言っていた。もし、今の話が本当だとして、父がアオを祐之進の家臣として迎えてくれたなら何も躊躇わずに共にいられるではないか!途端に祐之進は浮き足だった。もう今日の元服のことなど頭から消し飛んでいた。父に会って今の話が本当かどうか確かめねば気が収まらなくなっていた。





「若様〜!どちらにいらっしゃいますか?早くお支度を整えねばなりません!若様〜?」


 浜路は着替えの間になかなかやって来ない祐之進に気を揉んでいたが、当の祐之進はいてもたってもいられずに父の控えている間へととって返していた。


「父上、お話したき事が…」


 そう言って祐之進は控えの間に足を踏み入れようとした時、中から父と宮部がアオの話をしているのが漏れ聞こえて祐之進は慌てて襖の影へと身を隠した。


「聞けばそのアオとやらは武家の出身と聞きました。剣術の嗜みもある若者と聞きましたが、先ほど申しましたようにいっそ当家に迎えてみては如何でしょうか。祐之進様も腹心を得ればこの先何かと心強き事でございます」


 そうだ!宮部!よく言ってくれた!もっと言ってくれ!


 襖の影で祐之進は宮部の進言に心が逸るのを抑えきれずにいた。


「そうなれば儂も良いと思ったのだが、あの者は…。もうあの村にはおらぬ筈だ」


 え…?


 襖の影で今の聞き捨てならぬ言葉に祐之進の顔が曇った。


「それは…どう言う事でしょうか」

「その者の名を蒼十郎と言ったが、其奴が罪人である事は其方も存じておろう」

「はい、あの者の兄分があのものに不埒を働いた殿様の末弟の喉を斬って切腹させられたと言う話でしたか」

「左様、それを恨みに思った蒼十郎が本来なら殿様が認めぬ仇討ちに及んだ事は存じてあるか」

「は、はい。それとなくは…殿様の末弟は命を取り止めていたとか聞きましたが、結局は死ぬ運命にあったのですな」

「あの者はその時まだ十二歳であった為、その時は罪を免れたが…。其方も武士ならば聞いたことぐらいあろう。公事方御定書第七九箇条に定められていることを」

「はあ、確か…十五歳以下之者御仕置之事では十五歳以下の者が殺人・放火を犯すと、十五歳になるまで親類に預け、その後に遠島に処する…とか何とか…」

「そうだ、今年の四月には彼奴は十六歳になるが、親元が不憫だと言って十五ギリギリの三月まで遠島を待ってくれと懇願したのだ。しかも家族が連座で罪に問われるのを恐れて蒼十郎は親との縁まで切ってしまったのだ」

「なんと!それで河原で暮らしていたのですな?

しかし気の毒な話です。あの歳で遠島とは…」

「うむ、それ故儂も不憫に思ってな、祐之進と一夏過ごしたいと言う願いを聞き入れたのだが、…果たしてそれが二人の為になったかどうか…」


 いつも毅然としている父らしくもなく、肩を落とし、ため息などついている。その話を聞いていた祐之進は目眩に襲われていた。あらかたアオの事情は知っているつもりでいたのに、自分が預かり知らぬ所でアオと父との間にはそれ以上の話がなされていたのだ!


「三月十日に国境の番所から出立すると、あの者の家臣の…何と言ったか、そう、島津周作と言う者が儂に知らせてくれたのだ」

「そう言う訳が…。それで元服をかこつけて祐之進様を家にお戻しになったのですか」

「祐之進には遠島の事を知られたくないと言うのでな。このまま何も知らずにいてくれたら良いのだが」



ガタン!


 その時、襖の揺れる音がした。


「誰だ…?」と言う宮部の問いに答えることなく、その足音はここから遠ざかっていく。


「しまった!祐之進に聞かれたか…」


 普段冷静沈着な孫左衛門が狼狽えて立ち上がった。


「誰ぞ!祐之進を連れ戻して参れ!」

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