第十幕:real


 第十幕:real



 ゲームのソフトウェアを開発する上での事実上の死線デッドラインを意味するマスターアップの瞬間を目前に控え、俺のデザイナーとしての経歴上で最も永く苦しく苛烈を極めた『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作の開発も、いよいよ最後の大詰めを迎えつつあった。

「ふう」

 秋葉原UDXの地上24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスの一角でそう言って、早朝からずっと液晶モニタと睨めっこしながらデバッグ業務に勤しんでいた俺は腹の底から絞り出すような深い深い溜息を吐くと、重度の眼精疲労でもってじんじんと痛むばかりの眼頭を指でぎゅっと押さえながら背後を振り返る。

「なあ、寛治、そろそろ腹が減らないか?」

 振り返ると同時に殆ど反射的にそう言った俺は、そこに居る筈だった同期入社のデザイナーの小林寛治が傷害事件の容疑者として逮捕されたが故にこの場に存在せず、すっかり片付けられてしまった無人のデスクのみが取り残されていると言う事実に絶望せざるを得ない。

「ああ、そうか、ここには寛治はもう……」

 そう言ってデバッグ業務を一旦中断した俺はゲームパッドを置いてからおもむろに席を立ち、飲み掛けの無糖の紅茶のペットボトルを携えながら、多くの開発スタッフ達が腰を下ろすデスクとデスクの間を縫うような格好でもってぶらぶらとオフィス内をそぞろ歩き始めた。そして新人デザイナーである小菅千里のデスク、いや、かつて彼女がそこに座っていた筈の無人のデスクの前でふと足を止めると、手にしたペットボトルの中身をごくりと一口分だけ飲み下す。

「……」

 唐突に退職すると言い出した小菅が姿を消す以前まで、このデスクの天版の上には、妙に可愛らしくてファンシーなぬいぐるみやキャストドールの類が所狭しと並べられていた筈だ。そして彼女の私物であったそれらが跡形も無く消え失せ、もぬけの殻となったデスクを前にした俺が思わず言葉を失いながら物憂げな表情を浮かべてしまったとしても、それは詮無い事である。

「……」

 やがてかつての面影を失った小菅のデスクの前で言葉を失いつつも、俺は今度は、フロアの奥の壁沿いの一角に位置する上別府美香のデスクの方角へと眼を向けた。しかし当然の事ながら、そこにはもう刃傷沙汰を起こしてしまった彼女の姿は無く、やはりもぬけの殻となった無機質なデスクがぽつんと取り残されているのみである。

「……」

 物憂げな表情のまま無言を貫き続けながら、俺はオフィス内をぶらぶらとそぞろ歩いて移動しつつ、手にした無糖の紅茶のペットボトルの中身をもう一口だけ飲み下した。そして俺のデスクが在るブロックの隣のブロックに並べられた、それなりにきちんと整頓されながらも、彼女の好物であった無糖の缶コーヒーの空き缶がうずたかく積まれたとあるデスクの前で足を止める。

「……柴さん……」

 そう言って彼女の名を口にしながらワーキングチェアの背凭せもたれをそっと指先で撫でた俺の言葉通り、その整頓されたデスクこそ、俺の婚約者であると同時にキャラクターの表示周りを担当するプログラマーでもある柴小春のデスクであった。そして上別府の手によって胸を刺されてしまった彼女が緊急入院してから、もう既に、一週間もの時間が経過しようとしている。

「……マスターアップまでもう残り一週間しか無いって言うのに、このままで、本当に大丈夫なのかな……」

 やはりそう言って独り言ちた俺の言葉通り、我らが『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームを取り巻く現状は、どれだけ贔屓目に見ても決して楽観視出来るようなものではない。何故なら寛治に小菅に上別府、それに柴を加えた計四人もの開発スタッフ達を失ってしまった皺寄せがデバッグのスケジュールを狂いに狂わせ、残された開発スタッフ達はその穴埋めとして連日の残業と徹夜を余儀無くされていたからだ。

「やあ、ワンコくん」

 すると不意にそう言って俺の事をワンコくんと呼称する声に振り返れば、そこにはアートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香が立っていたので、少しばかり驚く。

「あ、鍛治屋敷さん、お疲れ様です。どうしたんですか、こんな時間に?」

「ああ、お疲れ様。ところでそう言うワンコくんの方こそ、柴くんの机の前で物思いにふけったりなんかして、一体どうしたんだい? 婚約者に会えないのが、そんなに寂しいのかい?」

 年甲斐も無く渋谷のギャル風のファッションに身を包んだ鍛治屋敷はそう言って、こちらを冷やかすような悪戯っぽい表情と口調でもって俺に問い返した。

「まあ、そう言われればそうですね。寂しくないと言えば、やっぱり嘘になりますね。ですが彼女も近日中には退院出来る筈ですから、その日を楽しみにしながら気長に待ちますよ」

 俺がそう言えば、鍛治屋敷は安堵したかのような穏やかな笑みと共に、俺に重ねて問い掛ける。

「それにしても、柴くんの胸の怪我が大した事が無かったのは不幸中の幸いとでも言うべきか、とにかく勿怪もっけの幸いだったよ。最初に胸を刺されたと聞いた時には、彼女がこのまま死んでしまうのではないかと焦るばかりで、本当に気が気じゃなかったからね。ワンコくん、キミも病院にお見舞いに行って、柴くんの快復具合は聞いているんだろう?」

「ええ、確かに不幸中の幸いと言えば、その通りかもしれません。かく言う俺も、胸にナイフが突き刺さった柴さんの姿を見た時には、もう駄目かと思いましたよ。だけど病院で医者が言っていた、心臓も肺も殆ど無傷だったって言う医者の説明を聞いて、ホッと胸を撫で下ろしましたからね。刺されたのが胸だけに」

 そう言った俺のちょっとだけ不謹慎な冗談を耳にした鍛治屋敷は、日サロで焼いた小麦色の肌に覆われたその顔に、笑っていいのか悪いのか判断しかねるような何とも言えない微妙な表情を浮かべた。

「とは言え、うら若き女性の胸に痛々しい刺し傷が残るのだけは、どうにもいただけないね」

 やがて微妙な表情を浮かべていた鍛治屋敷が気を取り直し、そこそこグラマラスな自分の胸にペーパーナイフを連想させるように指先を這わせながらそう言ったので、俺もまた彼女に同意する。

「そうですね、俺が病院までお見舞いに行った時にも、柴さんはその事を随分と気に病んでいましたからね。まあ、刺し傷とは言っても良く良く観察してみないと傷だと分からないような小さなきずあとが残るだけで済みそうですし、そんなに気にする必要も無いんじゃないかと彼女を説き伏せようとしたんですが……残念ながら、最後まで納得してくれませんでした。海で水着とか着た時に、目立つのが嫌だって言ってね。やっぱり柴さんにも、恥じらいと言うか見得と言うか、そう言った歳頃の女性らしい感情があったんですね」

「そりゃそうだ、柴くんにだって女性らしい感情くらい、あるに決まってるだろう? どうもね、ワンコくん。キミは時々、あたしが予想もしていなかったような、おかしな事を言い出す癖があるね」

 この俺の個人的な柴に対する評価と言うべきか、もしくは彼女の事をどのような女性だと思っているかと言う点に関してある種の疑念を抱いたらしき鍛治屋敷はそう言って、ひどく呆れている様子であった。

「ところでワンコくん、聞いたところによるとキミはあたしと違って、お見舞いに行った際に柴くんのご両親とも面会したんだって? キミとの結婚の件に関して、ご両親は何と言っていた?」

「ええ、そうなんですよ、本当に参っちゃいますよ。本来の予定では柴さんと二人揃って転職するのを待って、ある程度仕事が落ち着いてから仙台の彼女の実家まで改めて挨拶に行く筈だったのに、急遽、病室で顔合わせをする羽目になっちゃいましたからね。おかげで俺も柴さんも柴さんのご両親も、終始、苦笑いしっ放しでした。まあ、それでも彼女のご両親に「娘を幸せにしてやってください」なんて言われちゃいましたし、責任重大ですよ」

 俺が溜息交じりに肩を竦めながらそう言えば、さっきまで微妙な表情を浮かべていた鍛治屋敷は今度ははっきりと相好そうごうを崩しつつ、愉快そうに声を上げて笑う事によって俺と柴の前途を祝して止まない。

「それで鍛治屋敷さん、俺に何か用ですか?」

 俺が改めて、一頻ひとしきり笑い終えた鍛治屋敷にそう言って問い掛ければ、彼女もまた改めて返答する。

「いや、まあ別に、何か用事があってキミに声を掛けたと言う訳でもないんだが……なんだかキミが随分と物憂げにしていたから、小林くんや柴くんの事もあるし、ちょっとばかり心配になってな」

 鍛治屋敷がそう言った次の瞬間、オフィスの出入り口の方角からわあっと言う数人の開発スタッフ達の小さな歓声が聞こえて来たので、俺と鍛治屋敷の二人もまたそちらへと眼を向けた。するとそこには、つい今しがたまで俺らの話題の中心人物であった女性が立っていたので、俺も鍛治屋敷も驚かざるを得ない。

「柴さん!」

 そう言った俺の言葉通り、少しばかりカールしたショートボブの髪のその女性は、俺の婚約者である柴小春その人であった。

「ケケケケンケンさん、かかか鍛治屋敷さん、お、おおお、おつ、お疲れ様です。そ、それとご迷惑をお掛けしてしまって、ももも申し訳ありませんでした」

 数多のデスクが並べられたオフィスを縦断してこちらへと歩み寄り、肩に担いでいた大きな鞄を彼女のデスクの足元に置いてからぺこりと頭を下げた柴に、俺は驚きを隠せないまま問い掛ける。

「どうしたの、柴さん? 退院は明後日の筈じゃなかったっけ?」

「ええ、そそそその予定だったんですけど、お、おおお、おも、思ったよりも傷の治りが早かったんで、よよよ予定より二日ばかり早めに退院させてもらいました。だ、だからこうして皆さんを驚かせようと、たたた退院した事を、だ、だだだ、だま、黙っていたと言う訳なんですよ。いいいいわゆるサプライズって奴ですか?」

 サプライズと言う言葉の使い方が正しいかどうかはさておいて、とにかく俺も鍛治屋敷も彼女に驚かされた事は、揺るぎない事実であった。

「それで、こんなに大きな荷物を抱えて来たって事は、自宅に立ち寄らずに病院から直接ここまで足を運んだって事だよね? それはまた、どうして? せっかくの休職期間なんだから、本来であれば退院する筈だった明後日まで、自宅でゆっくり休んでいれば良かったのに」

 俺がそう言えば、柴はガッツポーズを決め、その細くか弱い腕に小さな力瘤を作ってみせる。

「いいえ、そそそそんな訳には行きません! あ、あああ、あた、あたしが入院している間も、みみみ皆さんはマスターアップ直前の地獄の修羅場の真っ最中だった訳なんですから、い、いいい、いっこ、一刻も早くあたしも皆さんに合流して頑張らないと! だだだだからこうして自宅に立ち寄らずに、ま、ままま、まっす、真っ直ぐ病院から馳せ参じたと言う訳なんです!」

 小さなガッツポーズと共にそう言って、仕事に対する意欲と熱意を懸命にアピールしてみせる柴の姿に、鍛治屋敷は感極まらざるを得ない。

「そうか、それはまた、随分と殊勝な心掛けだな。本来ならば管理職であるあたしはキミに休息を指示すべき立場だが、キミが自分から業務に復帰したいと言うのなら、それを止めるべき理由も無い。勿論無茶をするなとだけは言っておくものの、背に腹は代えられない状況でもあるし、どうか頑張ってくれ、柴くん!」

「は、はい! ああああたしもよろしくお願いします! な、ななな、なが、永い間お休みして、ももも申し訳ありませんでした!」

 鍛治屋敷に発破を掛けられた柴はぺこりと小さく頭を下げながらそう言うと、きちんと整頓された彼女のデスクに腰を下ろし、そのまま流れるようにスムーズな所作でもってデスクトップパソコンの電源を入れてバグ修正の準備を開始した。

「さあ、ケ、ケケケケンケンさんも鍛治屋敷さんもお集まりの皆さんも、どどどどんどんバグを報告してください! あ、あああ、あた、あたしが全て、しゅしゅしゅ修正してみせますから!」

 自分のデスクに腰を下ろした柴はそう言って声を張り上げ、やはり細くか弱い腕に小さな力瘤を作りながら意気軒昂ぶりを誇示するものの、どれだけ贔屓目に見繕っても精一杯の空元気を無理矢理絞り出しているようにしか見受けられない。つまり柴の胸の傷、それに心の傷は、それだけ深く重篤だと言う事である。とは言え俺も鍛治屋敷も、そんな病み上がりの彼女が張っている虚勢をむざむざ見破ってあげつらうような空気が読めない馬鹿でもなければ、柴の復帰を祝う開発スタッフ達の出鼻を挫くほど無神経でもありはしない。

「言ったな? だったら俺も柴さんに負けないように、ばんばんバグを発見してばんばん報告してやるから、修正は任せたぞ、柴さん!」

「は、はい! ままま任せてください!」

 鍛治屋敷に続いて俺もまた発破を掛ければ、二人から続けて発破を掛けられた柴はそう言って胸を張りながら、その胸の中心部を彼女自身の右の拳でもってどんと力強く叩いてみせた。するとどうやら胸を叩いた際の衝撃が、上別府に刺された傷に障ったらしく、周囲の開発スタッフ達には聞こえないような小声でもって「痛たたた……」と言いつつ疼痛に耐え忍ぶ。

「良し、やるぞ!」

 柴のやる気に感化された俺はそう言って心のふんどしを締め直すと、確固たる足取りでもって数多のデスクやスチールラックが立ち並ぶオフィスを縦断し、自分のデスクに腰を下ろしてからゲームパッドを手に取った。そして度重なる徹夜が原因の耐え難い眠気も、満足に食事を摂っていないが故の猛烈な空腹も忘れてデバッグ業務に邁進し続ければ、とうとう俺達『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームはマスターアップ当日の朝を迎える。

「……ふう……」

 やがてビルディングとビルディングの谷間から昇る朝陽によって照らし出された秋葉原UDXの地上24階の、㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスの一角でそう言って、俺は自分のデスクの天板の上にゲームパッドを置いた。いや、置いたと言うよりも、むしろ手から滑り落ちるような格好でもって取り落としてしまったと言った方が、より正確な表現なのかもしれない。何故なら三昼夜に渡って一睡もしていない俺の両手はぶるぶると小刻みに震えるばかりで、すっかり握力を失ってしまっていたのだから、もうこれ以上ゲームパッドを支え続ける事は物理的に不可能だったからである。

「……最後のバグの修正確認、終わったぞ!」

 そして感極まった俺は肺一杯に息を吸い込み、徹夜続きですっかりからからになってしまった喉と舌に鞭打ちながら声高らかにそう言って、オフィス中に響き渡るような大声でもってデバッグ業務の完了を宣言して退けた。

「やった!」

「やっと終わった!」

「これでようやく、家に帰ってぐっすり寝られるぞ!」

 すると俺のデバッグ業務完了の宣言を耳にした開発スタッフ達が口々にそう言って、歓喜の声を上げると同時にぐったりと肩を落として全身から脱力し、まるで全ての力を使い果たしてしまったかのような格好でもって各自のデスクに突っ伏したままぴくりとも動かない。

「さあ、これから提出用のROMを焼くぞ! ROM焼きと提出担当のスタッフ以外は、退勤の打刻を終えたら、今日はもう帰っていいからな! 風邪を引かないように、ちゃんと家に帰ってから、暖かくして寝るんだぞ!」

 アートディレクターを務める鍛治屋敷がそう言えば、オフィスのそこかしこで死屍累々の様相を呈していた開発スタッフ達は「はーい」と掠れた声でもって返事をしてから席を立ち、そのまま退勤の打刻を終えた者からオフィスを後にし始める。

「……ああ……やっと終わったんだな……」

 ぞろぞろと連れ立って退社する、まるでゾンビか何かの群れの様な開発スタッフ達の姿を横目で見送りながら、俺はワーキングチェアの背凭せもたれに全身の体重を預けたまま溜息交じりにそう言った。

「た、たたた、ため、溜息なんて吐いちゃって、ど、どうしたんですか、ケケケケンケンさん?」

 すると俺と同じく退社せずにオフィスに残っていた柴が、過労によるふらふらと覚束無い足取りでもってこちらへと歩み寄りながらそう言ったので、俺は精も根も尽き果てたかのような力無い笑みと共に返答する。

「ああ、うん、これでやっと、遂に、全てが終わってくれたんだなと思ってさ。……正確に言えば今は未だ最初のマスターアップが終わっただけの段階で、今日これから焼く予定のROMをプラットホームフォルダーであるPF社に手渡し、そこの品質管理部からの承認を勝ち取らなくちゃならないんだけどさ。だけど、まあ、今この瞬間くらいは、達成感と充足感に包ませてくれよ。な? いいだろ?」

 俺がそう言えば、下瞼にすっかりくまが浮いてしまっている柴もまた俺同様、精も根も尽き果てたかのような力無い笑みをこちらに向けた。

「おや? 二人揃ってどうしたんだい、ワンコくんも柴くんも? 二人とも、未だ帰らないのかい?」

 その時不意に、若干ながら普段の気風きっぷの良さが損なわれてしまっているように見受けられなくもない鍛治屋敷がデスクの向こうからそう言って問い掛けたので、問い掛けられた俺と柴は返答する。

「ええ、まあ、そうですね。勿論この俺だって、鍛治屋敷さんに言われるまでもなく今すぐにでもダッシュで走って家に帰って暖かい布団に潜り込みたい気分で一杯ですけど、もうちょっとだけ、ここで休んで行こうと思いまして」

「あ、あた、あたしもケンケンさんと一緒に帰ろうと思って、ここここれから帰り支度をするところです」

 そう言った柴の言葉通り、どうやら彼女は、一緒に帰るべき婚約者である俺が帰り支度を始めるのを待っているらしい。

「そうか、それじゃあ二人とも、くれぐれも交通事故にだけは充分に気を付けて帰ってくれよな。あたしはこれから、今焼いているROMを品川の㈱PFエンターテイメントに届けるついでに、福嶋くんと一緒に移籍に関する最後の交渉を纏めて来るからさ。いくら寝不足だからと言ったって、駅のベンチでごろ寝して風邪を引いたり、電車の中で終点まで寝過ごしたりするんじゃないぞ? いいな?」

「ええ、その程度の事は、言われなくたって分かってますよ。俺達だって、もう子供じゃないんですから、そんなに心配しないでくれませんか?」

「そ、そうですよ、ケケケケンケンさんの言う通りですよ。そ、そそそ、それ、それにそう言う鍛治屋敷さんの方こそ寝不足なんですから、じ、じじじ事故にだけは気を付けてくださいよね?」

 俺と柴がそう言って忠告すれば、忠告された鍛治屋敷は連日連夜の残業と泊まり込みでもって疲弊しながらも、精一杯の朗らかな笑みをこちらに向けながらその場から立ち去った。そして立ち去る彼女の背中を見送った俺達は上着を着込んで鞄を背負い、帰り支度を終えると、二人揃って秋葉原UDXを後にする。

「こ、ここここれからどうします? ままま真っ直ぐ帰宅しますか?」

「いや、ちょっとばかり小腹が減った事だし、家に帰って寝る前にどこかで何か食べて行こう。この時間だと、そこのマックくらいしか開いてないかな? 柴さんも、マックでいい?」

「は、はい!」

 俺はそう言った柴の了承を得ると、彼女と共に、秋葉原UDXのすぐ隣に建つ『ビックカメラAKIBA』の一階の『マクドナルドビックカメラAKIBA店』の方角へと足を向けた。午前五時から営業している店舗へと続く街路を二人で肩を並べながらそぞろ歩けば、早春の早朝の秋葉原の街を吹き抜ける風がふわりと優しく頬を撫で、何とも言えず心地良い。

「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」

「ええ、ビッグマックのバリューセットを、サイドはサラダ、ドリンクはホットのミルクティーで」

「ああああたしは朝マックのソーセージエッグマフィンセットを、サ、サササ、サイ、サイドはアップルパイ、ド、ドリンクはホットコーヒーでお願いします」

 そう言って注文を終えた俺と柴の二人は出来上がった商品を受け取ると、店舗の地下の禁煙スペースへと移動し、空いていたテーブル席に腰を下ろしてからそれぞれのハンバーガーを食み始める。

「ケ、ケケケケンケンさん、ももももし仮にPF社の承認をこのまま一回の提出でもって勝ち取れたとしたら、こ、こここ、これ、これで本当に、ここここの会社での全ての仕事が終わるんですよね?」

「ああ、そうだな。思い返せば新しい『クラースヌイ・ピスタリェート』の企画を鍛治屋敷さん達と一緒に立ち上げたのが今から五年前、いや、六年前だから、俺達はもう六年間近くも一つのゲームの開発に携わっていたって事になるんだよな。そう考えるとAAAタイトルのゲームの開発って言うのは、本当に砂漠で一粒の砂金を探すくらい不確実で、小学校に入学したばかりの子供がいつの間にか卒業してしまうくらいの時間を掛けた、気の長い話なのかもしれないな」

 テーブル席に腰掛けた俺はビッグマックをもりもりと食みながらそう言って、感慨深げな柴の問い掛けに淡々と答えつつ、この俺自身もまたこの六年間を回想して止まない。

「こ、ここここの六年間、ほほほ本当に色んな事がありましたね。だ、だだだ、だけ、だけど最後の最後になって、ままままさか立て続けにあんな事件の数々が起こるだなんて事は、そ、想像もしていませんでした」

「ん? その想像もしていなかった『あんな事件の数々』って言うのは、もしかして寛治とか小菅さんとか、上別府さんとかが起こした諸々の事件の事かい? まあ、寛治に殴られたこの俺も、上別府さんに刺された柴さんも、どちらも一連の事件の当事者の一人として、他人事では済まされない事だけは確かだな」

「い、いいい今頃会社を去った三人は、ど、どどど、どこ、どこでどうしているんでしょうね?」

 俺の向かいのテーブル席に腰掛けた柴もまたそう言って、小さな口でもってソーセージエッグマフィンをもそもそと食んでいた。

「どこでどうしているんでしょう、か……小菅さんは円満に退社したから、きっと転職先の新しい会社で、彼女が望んでいたような可愛らしいファンシーグッズのデザインに没頭しているんじゃないかな?」

「そ、そうですね、こここ小菅さんは、げ、げげげ、げん、元気にしているのかもしれませんね」

「だけど寛治は警察官まで殴ったもんだから公務執行妨害の容疑でもって書類送検されてしまったし、上別府さんも傷害と殺人未遂の容疑でもって立件されてしまったから、あの二人は今この瞬間も、どうにも心休まらないような悶々とした日々を過ごしているんじゃないかな? ……いや、寛治はともかく上別府さんばかりは自分の行いを省みるようなナイーブな性格じゃないだろうから、彼女だけは堂々と枕を高くして寝ていると言う事も考えられるけどね」

 俺がビッグマックをもりもりと食みながらそう言えば、ホットコーヒーを啜っていた柴は力無い笑みをこちらに向けつつも、何とも言えない微妙で複雑な表情をその可愛らしい顔に浮かべる。きっと彼女は今からおよそ二週間前の夕暮れ時に、件の上別府の手によって、ペーパーナイフでもって胸元を刺された時の苦痛と恐怖を追体験してしまっているに違いない。

「さて、と。それじゃあ腹も膨れた事だし、通勤ラッシュで駅が混み始める前に、そろそろ帰ろうか」

 やがて各々のメインディッシュであったビッグマックとソーセージエッグマフィンだけでなく、サイドディッシュであったサラダとアップルパイもまた平らげ終えると、俺はそう言って席を立ちながら柴に退店と帰宅を促した。すると俺に急かされる格好になってしまった柴は紙コップの底に残っていたホットコーヒーの最後の一口を慌てて飲み干し、紙ナプキンでもって口の周りにこびり付いていた汚れを丁寧に拭い取ってから、俺に遅れじと急いで席を立つ。

「は、はい、そそそそうですね、そ、そろそろ帰りましょうか」

 そう言って席を立った柴と俺はハンバーガーを包んでいた包装紙やドリンク類が注がれていた紙コップ等をゴミ箱に放り込み、プラスチック製のトレイを返却し終えると、朝食代わりの朝マックでもって小腹を満たす客もまばらな『マクドナルドビックカメラAKIBA店』を後にした。そして早春の早朝の秋葉原の街を吹き抜ける風に再び晒されてみれば、駅の方角からはスーツに身を包んだサラリーマンや大きな鞄を背負った如何にもオタクらしい若者達が続々と自動改札を潜りながら姿を現し、この街が今朝もまた目覚めつつあるのが如実に見て取れる。

「ほら、急がないと、もう駅が混み始めているよ。このままじゃ朝の通勤ラッシュに巻き込まれて、満員電車でもってもみくちゃにされながら帰る事にもなりかねないからな。さあ、急ごう」

「は、はいっ!」

 そう言った柴と俺は二人揃って、タクシー乗り場の向こうの秋葉原駅の方角へと急いで足を向けた。そして万世橋警察署秋葉原交番の手前の横断歩道を渡ってタクシー乗り場を縦断し、駅舎と隣接した『BECK'S COFFEE SHOP 秋葉原電気街口店』の店先に差し掛かったところで、不意に柴が足を止める。

「ん? どうしたの、柴さん?」

「あ、あのですねケンケンさん、じ、じじじ、じつ、実は前から言おう言おうと思っていた事があるんですけど……いいい今ちょっといいですか?」

「前から言おうと思っていた事? うん、何かな?」

「あ、ああああたしとケンケンさんは婚約者同士の間柄ですし、おおお同じ会社の同僚としての付き合いも永いんですから、そ、そそそ、そろ、そろそろ『柴さん』なんて言う他人行儀な呼び名じゃなくて、ししし下の名前で呼んでくれませんか?」

 早朝の秋葉原の駅前で、唐突にそう言った柴は、彼女を下の名前で呼ぶよう俺に要求した。

「下の名前で? いやあ、まあ、その……確かに俺と柴さんは婚約者同士なんだし、そうすべきなのかもしれないけれど……今更呼び方を変えると言うのも、なんだか恥ずかしいと言うか、照れ臭いな」

「ははは恥ずかしくても照れ臭くても、そ、そそそそうするのが婚約者と言うものなんですよ、ケ、ケケケケンケンさん? いいいいずれあたし達は結婚して、夫婦になるんですからね?」

 そう言われてみれば、確かに彼女の言う通りであると言わざるを得ない。何故なら結婚して柴さんの名字が変われば、彼女の事を『柴さん』と呼ぶ訳にも行かないからである。

「それじゃあ……えっと……小春さん?」

「はい、け、けけけ賢人さん!」

 俺が意を決して小春の事を下の名前で呼べば、彼女もまたそう言って、俺の事を『ケンケンさん』と言うニックネームではなく『賢人さん』と言う下の名前で呼びながら嬉しそうに微笑んだ。本当に心から嬉しそうに、屈託無く微笑む彼女の姿が、なんだかいつにも増して愛おしく感じられてしまって仕方が無い。

「小春さん……」

 すると感極まった俺はそう言って彼女の名を再び口にしながら、眼の前の小春の細く華奢な身体を、ぎゅっと固く抱き締めた。

「け、けけけ賢人さん? ど、どどど、どう、どうしたんですか? あ、あたしもう三日も四日もお風呂に入っていませんし、ききき着替えてもいませんから、あ、あああ汗臭いですよ?」

 衆目に晒されながらの突然の抱擁ハグに驚きつつもそう言った小春の身体は確かに汗臭く、少しばかりカールしたボブカットの髪もまた汗と皮脂に濡れてじっとりと湿っていたものの、今はそんな醜態すらも愛すべき彼女を彩るある種のエッセンスの一つであると言わざるを得ない。

「……小春さん、愛してるよ」

「け、賢人さん……ああああたしも愛してます……」

 やはり細く華奢な彼女の身体を抱き締めながら俺が愛を語れば、小春もまたそう言って愛を語り返しつつ、俺の身体をぎゅっと固く抱き締め返した。そしてそのまま暫し抱き締め合った後に、俺と彼女の二人はどちらからともなく互いの顔を寄せ合い、さも当然の流れとでも言いたげに唇を重ね合う。

「……」

 早朝の秋葉原の駅前を行き交う通勤客達の好奇の視線もはばからず、俺と小春の二人は無言のまま眼を瞑り、いつまでも互いの舌と唇を重ね合い続けた。頭上のプラットフォームの方角から、JR山手線が出発する際の、まるで乗り遅れた乗客達を急かすかのような軽快な発車メロディが聞こえて来る。

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