あれは、時臣ときおみに命を救われた直後のことだったと思う。


「おんみょうじさま」


 このまま後宮に置いていては命が危ないと判断された敦時あつときは、その日の夕刻には賀茂かも家に居候することが決まった。時臣は敦時を自分の傍に置きたがったらしいが、当時は時臣も後宮で生活していたし、幼かった時臣にはままを押し通す力もなかった。


 何とか敦時を時臣から引き剥がしたかった時臣の周囲と時臣自身が揉めに揉め、収拾がつかなくなっていた所にたまたま参内していた賀茂家当主が顔を出し、『将来的に時臣に仕える者とすること』という条件付きで賀茂家が預けるという決着がついた時には、すでに日が西に大きく傾いていたと思う。


「わたしも、しゅぎょうにはげめば、おんみょうのじゅつを、つかえるように、なりますか?」


 西日がまぶしい濡縁を、後に師となる賀茂の当主に手を引かれて歩いていた時のことだった。


 唐突に問いかけた敦時に、師は視線を落として首を傾げた。そんな師に向かって、敦時は必死に言い募った。


「おんみょうのじゅつをつかえるようになれば、みなの目に見えていない、このふしぎな力のながれを、わたしもあつかえるようになりますか? みなの目に見えていないという、ふしぎなかたちをしたものたちを、はらうことができますか?」


 幼子のつたない問いを、師はきちんと聞き取ってくれた。


 足を止め、敦時と視線を合わせるために膝を折った師は、穏やかな声で敦時に言葉を向けてくれた。


「どうして、そんなことを問うのかな?」


 恐らくこの時点で、敦時の処遇について具体的な話はまだ何も決まっていなかったのだろう。『呪い子』として封印せよとも、ただの人として使えとも、術師として仕込めとも、……あるいは秘密裏に殺せとも、師は指示されていなかったに違いない。


 だから師は、問うたのだ。己から道を選ぼうとする、いまだ何者でもない幼子に。


「あのおかたの、おやくにたちたいのです」


 そんな師を真っ直ぐに見上げて、この時敦時は初めて、己の意志を言葉に載せた。


「あのおかたは、いってくださいました。『おのれのみちは、おのれでひらけ』と。そのために、名をくださいました」


 これからは『敦時』と名乗るといい、と時臣は言った。自分の名前から一文字取って、敦時。自分の従者になるのだから、同じ字があった方が良いと。


 そう言われて、笑いかけられて、他にもたくさん言葉をかけてもらえた。そのほとんどに敦時はろくに答えられなかったというのに、それでも時臣は楽しそうに笑っていた。


 初めて、だった。


 この世に生まれ落ちてからずっと、忌まれてばかりいた。ろくに言葉をかけられることもなく、視界に入ることさえ嫌がられ、最後には厄介払いを兼ねて宮内に押し込まれた。


 自分がそう扱われるのは、『生まれが悪い』せいだと言われた。敦時自身にはどうにもできないことで、敦時は生まれた瞬間から忌まれ続けてきた。周囲には見えていないモノが見えることも、周囲の忌避感に拍車をかけていたらしい。だがそれだって、敦時にはどうしようもないことだった。


 そんな世界に、敦時は諦観の念とともに従っていた。


 そうであるのだから仕方がない。世界がそうだと決めたのだから仕方がない。


 仕方がないのだから、それに殉じていくしかないのだと、全てを受け入れてうつむき続けてきた。


 だけど。


「わたしは、あのおかたの言葉に、むくいたいのです」


 そんな敦時の顔を、時臣は上げてくれた。


 生まれが何だ。せんが何だ。


 そんなもの、全てひっくり返してやれ。己の手と足で破り捨ててやれ。


 どうせ生きるならば、顔を上げていた方がいい。笑っていた方がいい。


 お前は己で道を切り開いて、唯々諾々と占に縛られてうつむいて生きてる人間を上から笑ってやれ。呪い子と呼ばれるその運命とやらが本当にあるのだとしたら、それさえ手玉に取る人間になってやれ。


『少なくとも俺は、お前がただ生きているだけで災厄を招くような存在には思えん。俺は、お前に課された運命なんて、信じないからな』


 そう言ってくれたあの人の姿が、敦時にはまばゆい光に包まれて見えたのだ。


「あのおかたの言葉がほんとうであったと、あかしたいのです……! おねがいします! わたしに、おんみょうのじゅつを、おしえてください……!」


 必死に師を見上げて訴えたあの瞬間、師がどんな表情を浮かべていたのか、敦時は覚えていない。視線を合わせるためにかがんでくれていたから師の顔はすぐ目の前にあったはずなのに、敦時の記憶の中にある師の顔は西日が生む影の中に沈んでいる。


「ふふっ」


 だがその分、師が自分に何と答えたのかは、鮮明に覚えている。


「あのよわいで、言葉だけで、人の運命を変えたか。さすがは天が選んだ御方だ」


 小さく笑った師は、独白をこぼしてから、敦時にひとつの問いを向けた。


「君の目に、久木宮ひさきのみや様の姿はどう映ったかな?」


 思わぬ問いに、敦時は戸惑って目をしばたたかせた。そんな敦時に『どんな言葉でも私は笑わないから、正直に答えてごらん?』と師は言葉を足してきた。


「……ひかり」


 今まで敦時の周囲に、敦時と同じ世界を見ている者はいなかった。だからありのままを答えてはいけないのだと、敦時はいつからか覚るようになった。


 だが不思議とこの時は、スルリと正直な言葉がこぼれた。


「ひかりを、はなっていらっしゃいました」


 その言葉に、師は満足そうに笑って、改めて敦時に両手を差し伸べた。


 問いの意味は分からなくても自分が及第を得たのだと分かった敦時は、大きな師の手のひらに自分の両手をそっと預けた。


「我らの世界へようこそ、。お前は今この瞬間から、私の弟子だ。私が納めた不可思議の全てを、私はお前に伝えよう」




 ……久木宮様はね、強い光と、それに負けない強い心を持ってこの世に降誕なされた。今の世には類を見ない、それこそいにしえの神々に並ぶような光をその身に宿しておられる。まぁ、簡単に言ってしまえば、先祖返りというやつだ。


 強すぎる光は、少々厄介でね。恐らく宮様の人生は波乱に満ちていることだろう。しかし宮様はそんな波乱も、波乱と思うことなく乗りこなしていくに違いない。


 困るのは、お傍にはべる、守刀まもりがたなだ。宮様には早めに守りの術師をつけたいと考えているのだが、私が知る限り、宮様の守りを担えるような術師はいなくてね。どうしようかと、頭を悩ませていた所だった。


 ……お前なら、なれるかもしれないと思ってね。


『呪い子』とまで言われるほどに恐れられたお前のその強大な霊力。生まれながらにヒトならざるモノ達と遊んできた見鬼けんきの瞳。それらをお前が遺憾なく扱えるようになれば、あるいは宮様をお守りする術師にまで、お前は成長するやもしれん。


 ……お前が私の全てを引き継いだ時、私はお前を蔵人所くろうとどころに推挙しようと思う。


 久木宮様のみに仕える、陰陽師として。久木宮様を何からをも守り、時にそのために闇に手を染め、しかしその全てを久木宮様には覚らせず、変わることなくお傍に在り続ける、絶対無敵な懐の呪剣として。




 それが、私がお前に望むことだ。


 お前は、それを全部呑んで、そこに在ることができるかい?




  ※  ※  ※




 太陽が西に沈めば、世界は闇に満たされる。


 人が治める世界は眠りにつき、ヒトならざるモノ達が支配する時間がやってくる。


 陰陽師とは、そのニ界の境界を行き来する存在だ。


「良い夜ですね」


 月と星が微かに光を落とす中、白い衣をフワリとかずいた敦時は、目の前に広がる光景に小さく笑みをこぼした。


「こんな宵は、蹴鞠もさぞかし楽しいことでしょう」


 人気ひとけが消えた、神泉苑の池のほとり。微かな月明かりを受けた池は鏡のように天空の星々を映し出している。


 まるでその池に映し込むかのように高く鞠を蹴り上げていた童子達は、敦時の声に振り返ると口を開いた。


『おや』

『おや』

白童子しろのどうじ

『白童子ではないか』


 下げみづらに髪を結い、揃いの青い水干に身を包んだ童子が四人。振り返った童子達の額には小さな角が生え、口元からは牙がのぞいていた。よくよく見れば瞳は昼間の猫のように瞳孔が縦に裂けている。


 明らかにヒトではない。だが敦時は変わることなく笑みを湛えて童子達を見つめているし、童子達も童子達で親しげに敦時を迎え入れる。


『お前も蹴鞠をしに来たのか』

『昼間も来ていただろう』

『一緒にいた天子は置いてきたのだろうな?』

『あれはいけない。まぶしすぎる』


「あの御方は、お屋敷でお留守番です」


『それは良い』

『それは良い』

『あれは眩しすぎる』

『あれがいては、我らが遊べぬ』


 キャイキャイと騒ぐ童子達の言葉に、敦時は人知れず笑みを深めた。


 ──置いてきて正解だったな。


 昼、ここで外法師を捕らえた時臣は、己の手で外法師の取り調べを行い、巻き上げられて闇市に流されかけていた武具の回収の手配をした後、敦時とともに別邸……普段敦時が暮らしている屋敷に引き上げた。その頃にはすでに日が傾きかけていたから、敦時は夕餉とともに慰労の意味を込めて時臣に酒を振る舞った。敦時に勧められるがまま杯を重ねた時臣は眠りに落ち、敦時はこうして単身で夜の神泉苑に出向いている。


 巷を騒がせている、神泉苑の鬼……昼間捕まえたまがいものではなく、本物の『鬼』を祓うために。


 ──昼間に出る鬼と、夜に出る鬼は別物。それは最初から分かっていた。


 昼に出る鬼と夜に出る鬼は、現れ始めた時期も違えば性質も違う。


 夜に出る鬼がまず現れ始めて、それから昼にも鬼が出るようになった。夜の鬼は見た目こそ恐ろしく語られているが近付く人間を威嚇するだけで実害は発生しておらず、昼の鬼は明らかに相手から武具を巻き上げることを目的としていた。


 昼に出る鬼とやらが夜に出る鬼の噂を利用した詐欺師なのだろうということは、最初から分かっていた。夜の鬼がいたから、昼の鬼が生まれたのだ。


 だから、昼に出る鬼だけが祓われても、この一件の根本的なところは何も解決しない。時臣は実害が出ている昼の鬼の方に気が行っていて気付いていないようだったが、あれだけが解決しても時臣の真の憂いは晴れないのだ。


『だから「陰陽寮が動かない」って時点で、陰陽寮が動き出す必要性はない事件か、逆に事件なんじゃないかなって』


 昼、まさしくこの場所で、敦時自身が口にした言葉。


 昼の鬼が前者のことならば、夜の鬼はまさしく後者だと、敦時は昼間ここに立った時に感じた。


 ──時臣、目元のくま、すごいことになってた。


 考えると同時に、屋敷を出る前に見た時臣の寝顔が脳裏をよぎる。


 常と変わらない快活な表情に紛れて気付くのが遅れたが、眠りに落ちた時臣の顔には疲労が色濃くにじんでいた。そもそも酒に強い時臣は、平素であればあの程度の酒量で意識が落ちるような人間ではない。敦時に気付かれないようにしていたのか、はたまた『この程度で疲れるような俺じゃない』と無自覚に無理をしていたのかは分からないが、時臣は相当体に無理を強いていたのだろう。


 ──何だかんだ言って、主上に御幸みゆきを楽しんでもらいたくて、相当頑張ってたんだろうな。


 そう感じて微笑ましく思うと同時に、どこかで腹を立てている自分もいる。


 ──そんなにクタクタになる前に僕を頼ってくれれば、いくらだって、どうにだって……


 敦時ならば、これだけ大きな噂になる前に、鬼を祓うことができた。それどころか、わざわざ御幸に出なくても満足してしまうくらい御所中を花で覆い尽くすことも、花以外の美しいモノで埋め尽くすことも、……そもそも帝が『御幸に出たい』という気持ちを抱かないように心を操ることだって、今の敦時にはできるのに。


 ──君が、望んでくれさえすれば……


 だが敦時がどれだけ歯がゆく感じても、時臣はそんなことを敦時には望まない。できると知っていたって、望んでこない。


 それは時臣が、敦時を他の人間と接する時と等しく『ただの敦時』として扱っているからだ。敦時のことを『ちょっと不思議な術が扱えるだけの、幼馴染みで従者の敦時』として扱ってくれているからだ。


 その心に救われたくせに、敦時は時折、そんな時臣が歯がゆい。


『白童子』

『さぁさぁ、勝負だ』

『五人でも蹴鞠はできる』

『さぁさぁ、勝負勝負』


 ──だからこそ、今は。


 童子達の言葉に、敦時はゆったりと一度まばたきをした。


 そして同じ速度でゆっくりと言葉を紡ぐ。


「その前にひとつ、教えていただいてもよろしいですか?」


 時臣の望む形で、時臣が知らない場所で、時臣が心の底に抱えて口にしてこない憂いを、時臣に気付かれないまま祓うために。


「なぜ、あえてヒトの子をこの庭から遠ざけるような真似をなさっておいでなのですか?」


 敦時には、彼らの正体がいる。彼らが誰の眷属であるかも知っている。


「これは、あなた方の主である、善女ぜんにょ龍王りゅうおう様のめいなのですか?」


 神泉苑に、穢れは欠片もなかった。夜に遊ぶ童子達が人の生首を鞠代わりにして蹴鞠をしているという噂があるのに、だ。


 あやかしは、穢れの一種だ。穢れが欠片もない場所に妖は立ち入れない。


 ならば、鬼の正体は、何なのか。


「あなた方は、この池にお住まいになられている善女龍王様の御眷属なのですよね? わざわざヒトの子の目に恐ろしい姿、禍々しい姿となって映っているのは、ヒトの子をこの庭から追い出そうとしているからなのだと考えました。その理由を、どうかお聞かせいただけませんか?」


 敦時の言葉に黙り込んだ童子達は、数拍間を置いてから同時にニヤリと笑った。一人が手にした鞠が一瞬おどろおどろしい人の生首に代わり、また一瞬ですぐに真っ白な鞠に戻る。


『おう、おう』

『我らは確かに善女龍王様の御使い』

『この池に住まう者』

『主様の御命令で、ヒトの子を追い払っておったわい』


 ザワリ、ザワリと風もないのに夜気が揺れる。昼間、敦時が神泉苑に踏み込んだ時に感じた違和感の正体はこれだ。この眷属達が自分達以外の存在を追い払っているせいで、今の神泉苑は妙に静かなのだ。


『主様は、今年の花を楽しみにしておられる』

『主様は、騒々しいのがお嫌いだ』

『毎年毎年、ヒトの子は花の季節になると騒々しい』

『だから今年の花は、我らだけで楽しむことにしたのだ』


『その方がここの花達も喜ぶというもの』

『そうだ、ここは我らが主の御庭ぞ』

『そうだ、そうだ』

『ヒトの子は去れ、ヒトの子は去れ』


「……確かに、そのお言葉にも一理あるとは思いますが」


 不穏なざわめきに、敦時が被いた衣がはためく。


 だが敦時は一切それに怯むことなく、スッと右手で刀印を結んだ。たったそれだけで敦時を排除しようとしていた風が砕かれたように消え、新たな風が敦時を中心にして生まれる。


「そもそもここは、ヒトの子が造りし庭。いかに神とはいえ、ヒトの子を締め出して花を独り占めしようとはいささか勝手が過ぎるかと」


 その風に童子達が一斉に牙を剥いた。グバリと裂けた口から鋭い牙を剥き出しにした童子達は両腕を地面につくと獣じみた動きで敦時を威圧し始める。


 だがそれに対しても敦時はスッと瞳をすがめただけだった。


「これ以上横着を通そうと言うならば、神といえども消し去るまで」


 ブワリと、敦時の霊力が解き放たれる。白い燐光は敦時の瞳の中にも躍っていることだろう。


『呪い子』とまで呼ばれた力。ヒトよりも妖に近い、敦時の本性。陰陽師としてその力を操るすべを身に付けた今の敦時は、望めば妖だって神だって消し飛ばすことができる。


 その全ては、たった一人の主のために。


「我が主が、この斎庭さにわの花をお望みだ。邪魔をするなら、お前達が消えろ」


 言葉とともに霊力を叩きつければ、それだけで童子達の足が下がった。威嚇を向けていながらも、彼らは自分達の劣勢を覚っている。それでも引かないのは、この池の主の眷属であるという矜持が成せるわざなのか。


 ──手っ取り早く眷属を祓えば手足をもげば頭も姿を現すか。


 怜悧な光が宿る瞳を童子姿の眷属達に据えた敦時はシュを紡ごうと唇を開く。


 だがそれよりもサッと視界に見慣れた光が走る方がわずかに早かった。


「敦時っ!!」


 ギャッと童子達が手で顔を覆ってうずくまる。それくらい、唐突に走った光は強烈だった。


「何をしている敦時っ!! 不必要に力を振るうなっ!!」


 だが敦時は、差し込んだ光よりも力強く轟いた声の方に驚いていた。反射的に息を詰めて弾かれたように振り返れば、心に思い描いた人物がしかめっ面で、いつもと変わらない早い歩みでこちらに向かって突き進んでくる。


「とっ……!?」


 時臣、と呼びかけそうになった名を敦時はすんでのところで飲み込んだ。


 ──どうして……!? お酒のおかげで完全に寝落ちしてたはずなのに……っ!!


「昼の鬼と夜の鬼が別者だということくらい、俺にだって分かっていた」


 ズカズカと敦時の前まで来た時臣は腕を組むと顎を上げて上から敦時を見下ろした。時臣は敦時より頭半分ほど背が高いから、こうやって見下されると妙に圧を感じる。


「だというのにお前は、昼の問題が解決した後、夜の鬼に関して何も言ってこなかった。まるで万事が解決したかのような振る舞いをしていた。十中八九夜に単身で事件解決に乗り出すんだろうなと思ってたら案の定だ。お前は俺に嘘は言わんが、時折大事なことを喋らないからな」

「まさか、全部分かってて狸寝入りしてたの?」

「いや、さっさと意識を落としてさっさと起きようと思ってな。眠気を感じた時に下手に抗わずにさっさと意識を落としたんだ。おかげで頭の中もスッキリしてるぞ」

「……よく、起きれたね……?」

「早起きは得意だからな」


『そういう問題?』と首を傾げた敦時に時臣がスッと指を伸ばす。何事かと思わず無防備に見つめていたら、指先で思いっきり眉間を弾かれた。突き抜ける痛みに一瞬視界がくらむ。


「〜〜〜〜っ!!」

「自分から必要以上に悪役になりに行こうとするな、馬鹿が」


 思わずその場にしゃがみ込んで悶絶する敦時を放置したまま、時臣はスタスタと前へ出た。敦時が全気力を総動員して顔を上げた時には、時臣はうずくまった童子達の前で足を止めている。


「なぁ、お前達」

『あ……あぅ』

「お前達は、この池にお住まいになっている善女龍王の眷属だと言っていたな。善女龍王と直接お話することはできないだろうか? ここの花について、できれば直接話がしたいんだが」

『う……あ…… 』

「やはり神というやつは、そうおいそれと人間とは言葉を交わしてくれないものなのだろうか?」


 ──……時臣、それ、逆効果だから。


 時臣はうずくまる眷属達と目線を合わせようとしゃがみ込んでいるが、眷属達はますます体を縮こませて呻くばかりだ。時臣が放つ光が眩しすぎて目が潰れかけているに違いない。


 ──いい加減、説明した方がいいのかな? いや、でも説明したところで信じてくれるかな……?


 帝の血筋は、高天原タカマガハラにおわします天照大御神アマテラスオオカミを祖としている。人の世に降って幾星霜、ヒトの子の血筋と交わることで血と力は年々薄まっていく傾向にあるが、彼らが太陽神の末裔であることに変わりはない。


 そんな中、時臣は近年稀に見る強い力を宿して生まれてきた。いわゆる先祖返りと呼ばれる存在だ。見鬼の瞳を持つ敦時のような人間や、ヒトならざるモノ達には、時臣の姿が常にまばゆく輝いて見える。敦時の師曰く、時臣が帯びている力は古の神々……それこそ皇家の始祖に並ぶくらい強いものであるらしい。


 ──時臣の目に不可思議なモノが映らないはずなんだよなぁ……。だって全部、時臣からこぼれる力で祓われちゃってるんだもの。


 時臣の体からあふれ出ている力は太陽の力……強力な『陽』の気だ。陰気から生まれる妖は時臣に触れるどころか、近くに寄ることさえできない。だから時臣の見える範囲に妖は現れないし、現れることができるような強大な妖なり神なりは敦時が絶対に近寄らせない。


 ──それこそ神話の登場人物並の力を持ってるくせに、どうしてこんな御方がこんな性格に生まれついちゃったのかねぇ?


『天子様』


 思わぬ展開に若干現実から逃避していたら、どこからかか細い声が聞こえてきた。


『どうか我が眷属をお許しくださいませ、天子様』


 はっと我に返った敦時は声の発生源に気付くと素早く時臣の前に滑り込んでいた。腰を落とし、懐から呪符を抜く敦時に気付いた時臣は、腰を上げながら敦時の視線の先を追う。


『此度お騒がせ致しましたのは、全てわたくしの身勝手な願いゆえ。その者達に責はございませぬ』


 池の中心。星と月が光をこぼす水面の上に、小さな人影があった。


 黒々とした髪の上に冠を載せ、大陸風の装束に身を包んだ女童めのわらわだった。鏡のように凪いだ水面みなもの上に裸足はだしで立った女童は、距離が離れているのに耳元で囁かれているように響く声で言葉を紡ぐ。


「貴女が善女龍王か?」


 警戒心を露わにする敦時を迂回するように時臣が前へ出る。そんな時臣を今宵の水面のように静かな瞳で見据えた女童は、わずかに顎を引いて時臣に答えた。


『いかにも。妾がこの池の主、善女龍王である』


 時臣の関心が童子達から逸れた瞬間、童子達は顔を腕で覆ったまま勢い良く池に飛び込んだ。ドボンッ、ドボンッと重い水音を響かせながら池の中に消えた彼らはスイッと波紋を生み出しながら主の御下へ逃げ帰っていく。


 ──あの動き……。小龍とかじゃなくて、鯉の類だったみたいだね。


「善女龍王、眷属達と俺の従者が話している声が聞えていたのだが、貴女が花を独り占めしたくて此度の騒ぎを起こしたという話に違いはないか?」


 敦時は落としていた腰を戻して時臣の斜め後ろに控える。だが手にした呪符だけは戻さない。少しでも善女龍王が不穏な仕草を見せたらすぐに対処できるように構えたまま、敦時は善女龍王を見据える。


「貴女の眷属達は『我らに愛でられた方が花も幸せ』というようなことを言っていたように聞こえた。だがそれは間違いなのではないかと俺は思う」

『花は、ヒトに愛でられた方が幸せである、と?』

「いいや」


 闇に満たされた神泉苑の中。明らかにヒトならざるモノと対峙しているさなか。


 それでも時臣の顔に浮いていたのは、常と変わらない不敵な笑みだった。


「花は誰に愛でられようが気にしない。さらに言うならば、愛でられようが愛でられなかろうが、まったく気にしない。花というものは、花が咲く時節が巡ってきたから花を開かせるだけだ。そこには何のはからいもない。花は誰かを喜ばせようと開くわけではなく、己のために花を開かせるのだから」


 そんな時臣の言葉に善女龍王が大きく目を見開いたのが分かった。しんと凪いでいた空気までもが、時臣の言葉に触れて震えたような気がする。


「とはいえ、貴女の言い分も分からなくはない。誰だって自分の屋敷に勝手にズカズカ入られて、楽しみにしていた花を勝手に眺めてどんちゃん騒ぎなんかされたら迷惑に思うはずだからな。俺だってそんなことをされたら頭にくる」


 そんな変化に一人気付かない時臣は言葉を続けると表情を改めた。真摯な光を宿した瞳を真っ直ぐに善女龍王に向けた時臣は、最初から変わることがない、誰と話す時だって変わらない語調で言葉を紡ぐ。


 森羅万象万物の全てが、思わず耳を傾けずにはいられない力を帯びた言葉を。


「だから、二日間だけ、この庭の花を貸してはいただけないだろうか。その二日間以外は、貴女にこの庭の花を捧げよう」


 時臣の言葉を受けた善女龍王は、わずかに瞳をすがめ、時臣の言葉を吟味するかのような表情を見せた。


『……二日間、とは?』

「八日後、この庭に主上が御幸なされる。その日と、諸々の準備をするためにその前日、この庭を我らにお貸し願いたい」


 時臣の言葉の前では、誰もが時臣と対等だ。人も、帝も、妖も、神さえもが、気付けば時臣と対等の立場で考え、物を言う。ヒトとは違う次元に存在しているはずである神がヒトの子のような表情を見せ、ヒトの子と同じように言葉を発しているのがその証拠だ。


 ──これは先祖返りの力というよりも、時臣の人徳がなせる業、なんだけどね。


「まず、こちらからの誠意として、明日から六日後まで、この庭へ人が立ち入ることを禁止する。その様子を見て信用できると判断してもらえたら、七日後と八日後だけは、眷属を人の目に触れないようにしていただけないだろうか? 御幸が無事に終了したら、その感謝を込めて、花が散るまでまた人の立ち入りは禁止する。御幸の時以外、今年の花は貴女方で楽しんでくれ」

『……我らがその約定を果たす保証はどこにあると言いましょう? 花を独占するだけ独占して、当日も生首の鞠が跳ねるやもしれませぬよ?』

「そこは貴女方を信じるさ。俺の役目は誠意の提示と、信じることだけだ」


 神の試すような言葉に、時臣は変わらず不敵に笑った。そんな時臣の後ろで敦時は小さく溜め息をつく。


 ──まぁたそんな勝手なことを言っちゃって……


 これが策謀やら腹芸ならばまだしも、本心からの言葉なのだから性質たちが悪い。今の時臣の言葉に裏はないし、含みも一切ない。


 そしてそんな言葉だけが、神の心を動かすものだ。


『……良うございます』


 ユラリと、場の空気が揺れた。まるで水面に波紋が走るかのようにゆったりと揺れた空気は、今まで張り詰めていた緊張をゆったりと溶かして消えていく。


『天子様の誠意にお答え致しましょう』


 最後に女童の声が響いた時には、すでに湖面から人影は消えていた。ただユラユラと池の中央から広がる波紋だけが、何者かがそこにいたのだという余韻を伝えている。


 その様を見つめてから、敦時ゆっくりと息をついた。結局使わなかった呪符を懐に戻しながら緊張を解けば、時臣がケロッとした顔で敦時を振り返る。


「つまりこれは、約定は成立したってことでいいのか?」


 その余りに普段と変わらない姿に、敦時は思わず腕を組んで溜め息をついた。そんな敦時に時臣が不思議そうに首を傾げる。


「……いいってことだよ」


 だがそんな表情は敦時が渋々答えを口にするとパッと広がった笑みに蹴散らされた。ニコニコと無邪気に笑った時臣は、本当に心の底から嬉しそうに口を開く。


「これで無事に解決だな! やっぱりお前と俺が出向けば、何でもサクッと片付くな!」


 その笑みは、時臣が敦時にしか見せない笑みだ。本当に心を許した相手にだけ見せる、歳よりも幼い無防備な笑顔。


 そんな時臣に微苦笑を浮かべながら、敦時は心の内だけで小さく呟いた。


 ──ほんっと、そーゆートコ。


「さて、さっそく宮中に戻って触れを出さないとな! 根回しも必要だし、忙しくなるぞ! あ、お前は屋敷に戻って休んでくれていいからな。今日一日連れ回したわけだし」

「んー……、いや、たまには君の従者としてお供するよ。『蔵人所の陰陽師』が直々に申し上げた方が効果的なこともあるでしょ」


 せっかちな性格のままに足を踏み出した時臣を追って、敦時も足を前へ踏み出す。内心がにじむ微苦笑をそっと意地悪な笑みにすり替えて先を行く時臣の背中を見つめたが、時臣はいつものごとく敦時を振り返らない。必ず敦時が追いつくと、時臣は知っているから。


「あと、君が無茶しすぎてるのを止める役割の人も必要だしね」

「この程度、無茶でもなんでもない」

「どうだかぁ? ……あぁ、あと墨くらいは磨ってあげるよ」

「本当か? 敦時が磨る墨は綺麗で書き心地がいいから助かる」

「時臣は力を込めて磨りすぎなんだよ」

「うるさい」


 いつものように他愛もない言葉を投げあいながら、二人連れ立って神泉苑の外を目指す。


 そんな一時を敦時は今日も、噛みしめるように味わっていた。

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