広大な神泉苑を縦断するようにしつらえられた池は、池だけを見ても広大だ。この広大な池には逸話も多く、神泉苑が成立して以降、様々な伝説の舞台となってきた。


「さて、池端と一括ひとくくりに言っても、これだけ広大だとなぁ」


 舟遊びを始めとした雅やかな行事が行われる池も、鬼が遊ぶと囁かれている今はしんと静まり返っている。だが風もないのに微かに波打ちながらキラキラと春の日差しを弾く湖面はただそれだけで美しい。小さなさざめきの中に蕾を膨らませた桜の枝が映り込む様は、まさに春ののどかさに満ちていた。


「目撃情報がそこそこ多いことから察するに、辺鄙な池端に現れるってわけでもないだろ。人が集まりそうな場所を探して……」

時臣ときおみ


 考えを呟きながら行動に移ろうとしていた時臣の袖を敦時あつときははしっと捕まえる。そんな敦時に足を止められた時臣は動かそうとしていた足を引き戻すと敦時の方へ足を下げる。


 そんな風に体を寄せてきた時臣に分かるように、敦時は自分が見つけたモノへ真っ直ぐに指を向けた。



 釣殿や船着場がある方角とは反対方向へ池端を進んだ先。


 そこに、先程までは確実になかった人影が生まれていた。


 青年だ。ここからでも仕立てが良いと分かる水干を身に着け、髪を下げみづらに結っている。手には藁が握られていて、距離があるのになぜかこちらを見つめてうっすらと笑っているのが分かった。


 間違いない。


 あれが『交換しよう』と訴えてくる鬼だ。


「どうやら、向こうから来てくれたみたいだな」


 敦時が示したモノに気付いた時臣は好戦的に笑うと青年に向かって足を進め始める。そんな時臣を、今度の敦時は止めなかった。掴んでいた袖から手を離し、時臣の二歩後ろを離れないように小走りに進んでいく。


「おい、そこな者。ここで何をしている」


 時臣が早い歩調で近付いていっても、青年は逃げることも消えることもなかった。ただ変わらず笑みを浮かべた顔で近付いてくる時臣と敦時を見つめている。


 そんな青年に向かって、時臣は歩みを止めないまま声を放った。臆することもなければ、必要以上に高圧的でもない。いつも通りの、誰を相手にする時とも変わりない調子で時臣は声を投げる。


「ここは帝のための庭でな。素性の知れぬ者が立ち入って良い場所ではないのだ。名のある者なら名を明かしてもらいたいし、名の知れぬ者ならば早急に立ち去ってもらいたい」


 完全武装に身を包んでいるにも関わらず、時臣はまず言葉で交渉することにしたらしい。青年と五歩程度の間合いまで近付いた時臣はそこで足を止めると真っ直ぐに青年を見遣った。


「ここで藁と武具を交換していることに意味があるならば、その理由も教えてくれないか」


 そんな時臣の後ろから敦時はじっと青年を観察する。青年はこちらを見てはいるがその視線の置き場所は曖昧で、時臣を見ているようにも、敦時を見ているようにも、はたまたどちらも見ていないようにも思えた。


 ──これは……


 フワリと、風が一行の間を抜ける。春ののどかさに満ちているはずである風が、妙に静けさに満ちているような気がした。


 そんな風に誘われたかのように、フワリと青年の手が動いた。


「交換しよう」


 噂通りの言葉とともに、青年が手にした藁を差し出す。


 何と答えるべきか。噂の中では何をどうしても武具と藁を取り替えられてしまうという話だった。


 言葉とは、シュだ。下手に答えれば、こちらの身が危うい。


 ──まぁでも、止めた所で時臣は止まらないし。


「ああ、いいぞ」


 内心だけで考えを転がした上で溜め息をついた瞬間、案の定時臣は軽やかに答えていた。チラリと時臣の表情をうかがえば、こちらも敦時の予想通り実にあっけらかんとした顔をしている。


 ──今回は止めないけどさぁ……。いつだって、何にだってそんなに真っ直ぐにに答えてたら、ほんっと危ないんだからね?


 己の言葉をまるっと無視されていることへの怒りや不快さえ示すことなくあっさりと応じた時臣は、肩に掛けられた大弓や腰元の太刀を眺めながらさらに青年に言葉を投げる。


「しかし何と交換するんだ? 色々と持ってきたんだが」


 ──まさか、最初から戦うつもりじゃなくて、交換するために持ってきたの?


 時臣の言葉に思わず飛び出しそうになった内心を敦時は必死に飲み込んだ。


 時臣自身は『親王』として扱われることに不満があるようだが、周囲は当然のごとく時臣がどんな性格であろうがどんな行動を取ろうが時臣を『親王』として扱っている。そんな時臣の身の周りを固める物はどれも親王の身分に相応しい一級品ばかりだ。今時臣が手にしている大弓も太刀も、壊れることなく後の世に伝えられていけば間違いなく国の宝となる物ばかりである。どう考えても藁と交換するために持ち出してきて良い物ではない。


 ──吉野の君乳母やら行久様乳母子やら、下手したら主上やら尭宮様東宮殿下辺りからも怒られる……!!


 敦時は思わず頭を抱えた。この場合、怒られるのは時臣ではなく、時臣を止められなかった敦時だ。皆が皆『久木宮ひさきのみや様を止められるのはお前だけでしょう』と責任転嫁も甚だしい言い方をしてくるから、本っ当にやめてほしい。


「弓と」


 だが敦時が悶絶したところで、青年と時臣のやり取りは止まらない。


 まるで花がほころぶかのような声で青年が囁いた瞬間、時臣の肩に掛けられていた大弓が消えた。代わりに時臣の手の中に一筋の藁が現れる。時臣がパチパチと目をしばたたかせると、時臣の大弓は青年の手の中に握られていた。


「ほう?」


 興味深そうに手の中にある藁に視線を落とした時臣は、ためつすがめつ藁を眺めると敦時を振り返った。『見たか?』という表情にひとつ頷いた敦時は、無言のまま差し出された藁を受け取る。


 予想通り、ただの藁だ。特にまじないの気配も感じない。


「交換しよう」


 そんな時臣達に向かって、青年はまた言い募った。視線を戻せば、片手に時臣の大弓を持った青年は反対の手にまた藁を握りしめている。


「ああ、いいぞ。弓は矢がないと本来の使い方ができないしな」


 その言葉にも、時臣はあっさりと答えた。動揺もなければ、焦りや恐怖といった感情もない。むしろ『気がきかなくて悪かったな』とでも言い出しそうな顔で腰に結わえてあったえびらを外した時臣は、自分から青年に向かって箙を差し出す。


「交換しよう」


 その言葉に、青年の表情が初めて動いた。ピクリと眉が跳ね、わずかに不審そうな感情がのぞく。


 だが時臣の手の中から箙は消えた。代わりに一筋の藁が現れ、箙は青年の手の中に移る。


 青年は箙を腰に結わえ付けると一本矢を抜いてつがえた。その先は真っ直ぐに時臣に向けられる。


 だがやはりと言うべきか、何と言うべきか、時臣の表情が変わることはなかった。先程までと一切変わることがない自然体で立った時臣は、また藁を敦時に渡すと真っ直ぐに青年を見据え直す。


「もういいのか?」


 今の青年の顔には、分かりやすく表情が浮いていた。焦りや不安、恐怖といった、本来ならば時臣が浮かべてしかるべきであろう表情が。


 白い額に汗を浮かべて大弓を引く青年に向かって、時臣は最初から変わることがない語調で言葉を投げる。


「こっちにはまだ太刀があるぞ? 交換しなくてもいいのか?」


 その言葉に、青年は答えない。恐らく予想もしていなかった時臣の受け答えに混乱しているのだろう。時臣の考えていることが読めず、次に自分がどう振る舞えばいいのかと思考の迷路に自分からはまりこんでいる。


 ──まぁ、こんな風になるモノが、鬼であるはずがないんだよね。


「殿下」


 潮時か、と判断した敦時は、青年に相対してから初めて口を開いた。


「すでにお分かりかと思いますが」


 いきなり口を開いた敦時に、とっさに青年が矢じりの先を敦時に据え直す。


 動揺が生んだ隙の中に、敦時は己が出した結論を置いた。


は、物理が効く存在です」

「そうか」


 そしてその隙を、時臣は見逃さない。


「実は俺も、そうじゃないかと思っていた」


 体を沈めた時臣が一気に青年との距離を詰める。青年が時臣に注意を引き戻した時には時臣の体はすでに青年の懐に入っていて、固められた右の拳が相手の鳩尾みぞおちを撃ち抜いていた。


「カハッ!!」


 両手を弓矢に塞がれていた青年に時臣の拳を避けるすべはない。時臣の拳を受けた体がユラリともやのように揺れ、正体を現したがドサリと地面に倒れ込む。


 その様を見た時臣は、数歩体を引くと敦時を振り返った。


「……なんだ? コイツは」

外法師げほうし、ってやつじゃないかな?」

「御上に仕えず、市井しせいで術を振るっている術師のこと、だったか?」

「まぁ、簡単に言うとそんな感じかな?」


 地面にくず折れていたのは、襤褸ぼろと見紛う法衣に身を包んだ小汚い翁だった。白目を剥いて泡を噴いた翁は完全に意識を失っている。命は無事なはずだか、枯れ枝のように細い体をしているから、もしかしたらさっきの拳で骨が何本か逝ってしまったかもしれない。


 ──まぁ、鬼の噂と幻術をうまく利用して名のある武器を巻き上げていたような人間だし、その辺りは自業自得だとも思うけども。


「いつからこれが人の仕業だろうと分かっていたんだ?」


 パンパンッと軽く手をはたいた時臣は、翁から大弓と箙を取り返しながら敦時に問いかける。そんな時臣に敦時は軽く肩をすくめながら正直に答えた。


「実は、話を聞いた当初から、薄々」

「ん?」

「『手足が一本ずつ残されてた』『武官が逃げ出してなかったら、野犬の仕業に思われたかもしれない』『それなのに陰陽寮が動かない』って言ってたじゃない? そこからもうおかしいと思ってて」

「随分早いな」


 ここへ来た時と同じ姿に戻った時臣は目を丸くして敦時を見遣った。そんな時臣に頷き返しながら、敦時は自分が考えていたことを説明していく。


「うん。神泉苑で本当に人死があったなら、その理由が鬼であれ野犬であれ、術師の誰かが修祓に動かないのはおかしいんだよ」


 神泉苑は、帝のための庭であり、神のための庭。穢れを残すことは決して許されない。禁苑の穢れを放置すれば、その厄はいずれ必ず都全体に影響を及ぼすのだから。


 だが敦時が把握している限り、直近で神泉苑で術師が術を振るった気配はない。敦時が知らないということは、本当に誰も修祓を行っていないということだ。九条の果てや羅城の外ならばいざ知らず、神泉苑などという敦時のお膝元で呪力が動けば敦時が気付かないはずがない。


 だというのに、今この場に立っても、敦時は穢れの存在を感じなかった。陰陽寮に秘密裏に勅命が降ったという噂もない。


 ならば最初から神泉苑の中に穢れは……人の『死』に係る事象は、発生していないのだ。


「いくら陰陽寮の腰が重いと言っても、緊急事態を前に動き出すのを渋るような組織ではないもの。だから『陰陽寮が動かない』って時点で、陰陽寮が動き出す必要性はない事件か、逆に事件なんじゃないかなって。陰陽寮が迂闊うかつに動けないような大事おおごとだったら、少なからず僕に連絡が来ていたはずだから、消去法で『動く必要性がない事件』っていう判断だね」

「なるほどな」


 ふんふん、と敦時の説明に耳を傾けていた時臣の顔に納得が広がっていく。『分かっていたならば先に説明してくれれば良かったのに』という文句は案の定出てこなかった。説明した所で結局ここまでの流れとやることは変わらないだろうと思っていたから敦時はあえて説明しなかったし、時臣もそんな自分を理解しているのだろう。


「ここで死人が出ていないってだけじゃなくて、死体が持ち込まれたり、血が流されたこともないはずだっていうのは、ここに来てみて改めて分かったよ。死体の欠片や血の一滴でも存在していたならば、大なり小なり穢れは生まれるんだもの」

「では、見つかったっていう手足は?」

「幻術だね。今この外法師が姿を変えていたのと同じたぐい。鬼の存在を強調して、恐怖を煽りたかったんじゃないかな?」

「では、御幸みゆきの続行に不都合は?」

「まったくないね」


 敦時が微笑とともに告げれば、時臣は分かりやすく顔を輝かせた。それだけ『神泉苑の鬼』は時臣の頭を悩ませていたということだろう。……御幸そのものが悩みの種、と言った方がいいのかもしれないが。


「この外法師を問い詰めて、巻き上げた武具を取り返してあげれば、事件は全部解決するんじゃない? 大方、金目当てだと思うから、闇市に流される前に早急に手を打つように手配した方がいい」

「そうだな! さっそく取りかかるか!」


 機嫌良く答えた時臣は、いまだに気を失っている外法師の後ろ襟をワシッと掴むと実に軽やかに引きずりだした。地面に跡をつけながら外法師の体を引きずっているのに、歩みの速さが常と変わらないのが実に時臣らしい。どうやらこのまま神泉苑に常駐する管理の者の所まで連れていって取り調べの手配をするようだ。


 ──いや、時臣のことだから、自分で取り調べまでやるつもりなのかも。


『それはさすがにやめさせたいなぁ』と考えながら、敦時は小走りに時臣の後を追いかける。


 ──さて、後は、だね。


 そんな内心の呟きとともにスッと瞳をすがめる姿を、決して時臣には見せないようにしながら。

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