第31話 緊急訓練の話 3

 ライトは手早く扉を閉めると、ソフィアの電動車いすのグリップを握った。


「本艦右舷に敵艦発見。本艦の警告を無視し、接近中。まもなく交戦状態になる模様。総員、ただちに、持ち場に急行し、各班班長の指示に従え。繰り返す……」


 先日の女性アナウンスではなく、あきらかに合成音声が室内にこだました。指示と命令を端的に、そして冷静に告げるその声を、ソフィアとライトはただ、黙って聞く。


「なお、総員は……」


 続いて、服装の指定があり、それは無重力にも対応できるような装備だった。ソフィアは一瞬戸惑う。中尉からは無重力にはならない、と言っていたが、やはり違うのか。


 咄嗟に、固定具に指を走らせようとしたが、それより先にライトの手が伸びる。

 がちり、と硬質な音を立てて床に車いすを固定させ、顎を上げる。


 なんだろう、と戸惑うソフィアだったが、熱心にアナウンスに耳をそばだてているのだ、と気づいた。


「イエローからレッド。これより、本艦は戦闘態勢に入る。ただちに……」


 続くアナウンスに、ソフィアも次第に眉根が寄る。

 いつまでも、あのフレーズを言わないからだ。


『なお、これは訓練である』

 その一言を。


「……あの……」

 胸に溜まる不安に押されるように、ソフィアはライトに声をかけた。


「これ、本当に……」


 訓練なのか。


 そう尋ねようとしたら、そっとライトは立てた人差し指を口唇に寄せる。「黙って」。そんな仕草に、ソフィアは口を閉じる。だが、心の中の動揺がおさまるわけではない。


 今、初めて自分が乗っているのが〝航宙母艦〟だと思い知らされた。


 ソフィアも、室内に流れるアナウンスを視覚的に探すように、瞳を空に彷徨わせる。


 その時。

 ふと、彼女の手に何かが触れた。


――― ……え……?


 反射的に自分の手を見る。肘かけに、ぎゅっとしがみついた自分の手。

 それを。

 上からそっと握りしめてくれてるのは、ライトだ。


 手の甲を通じて伝わる温もりや、節くれ立った指の力強さに、ぱくぱくと心拍数を上げていた心臓が次第に落ち着いてくる。


 ソフィアはライトに手を握られたまま、長大なアナウンスを聞き続けていた。


「総員、戦闘に備えよ」


 アナウンスはそう締めくくられた後、数秒後、ぽーんと、気の抜けた音が鳴った。


「なお、これは訓練である」


 棒読みに近いガイドアナウンスに、ソフィアとライトは顔を見合わせ、同時に噴きだした。数秒後には、点滅していた照明も通常モードに切り替わる。


「緊迫してましたね」

 お腹を抱えて笑うソフィアに、ライトも屈託なく笑ってうなずく。


「途中まで、『うわ、まじか』っておもったよ、ぼく」


 そう言うと、するりと手を離す。


――― あ……。


 ソフィアは、一気に温もりを失った自分の甲を見た。ふわり、と熱を奪う空調がなんだか恨めしい。


「なにか、飲む?」


 ライトはソフィアの気持ちに気づくでもなく、左腕に人形を抱えたまま尋ねる。落胆しながら、頷くソフィアは、ふと右耳に違和感を覚えた。髪でもひっかかったのだろうか。ピアスのキャッチが移動した感覚がある。


「ピアス……」

 慌てて手を耳たぶに寄せる。外れかかっているのかも知れない。


「あの、鏡ありますか?」


 困惑しながらソフィアはライトに尋ねた。ライトは一瞬きょとん、としたものの、ソフィアの姿を一瞥して理解したらしい。


「手鏡、どっかにあったかな」

 慌てたように机や洗面所をあさり始める。


「こんなのでいい?」


 申し訳なさそうにライトがソフィアの元に戻ってきたとき、手にしていたのは、手鏡だ。


 随分とクラシカルで、持ち手のついた白木の物だ。くるりと裏返すと、鏡と表裏になった部分は、複雑な彫り物をされていた。


「ありがとう……、ございます……?」


 礼を口にしたものの、これが彼の持ち物でないことは、その彫り物の優美さを見ても明らかだった。


 どう見ても、女性物のなのだ。


「うちの母のものなんだ」

 ライトは気まずそうに言う。


「……ほんと、嫌なんだけど、過保護でね……」


 そう言うと、左肘の人形に顔を向け、ため息をつく。人形は瞼を半分下ろし、睨み上げるような表情をしている。


「いや、そりゃわかるよ。母親はそんなもんだ、ってことは」


「お母様の……?」

 ソフィアが声をかけると、ライトは肩を竦めた。


「お守りみたいなもんなんだよ。鏡、って。だから、持って行け、って」


 なるほど、とソフィアは得心する。自分にとってのピアスのような物なのだろう。


 ソフィアは改めて手鏡を見た。

 長い航海だし、そもそもが怪異だらけの艦に乗り込むのだ。やはり、母としては不安なのだろう。息子の身を案じて持たせたであろうその品を。


――― とうの、息子はあんなに乱雑に扱うなんて……。


 さっき、手鏡をこの男が洗面所の引き出しから乱雑に引き出したのを思い出し、ソフィアは改めてライトを見つめる。


「……セイラと同じ目で睨むのはやめて」


 目を逸らして口を尖らせたライトに、「だったら、丁寧に扱って下さい」と言うにとどめる。多分、倍以上に何か人形が言っているらしいのは、ライトの顔を見れば明らかだったからだ。


「では、少しお借りします」


 ソフィアは礼を口にしたが、それはライトに、というよりライトの母君に対してだ。息子を守る為の物で、自分のアクセサリーを確認するのは気が引けたが、ほんの少しだけ使わせて頂こう。


 ソフィアは、左手で手鏡の握りをつかみ、自分の顔を映した。


 楕円形の手鏡には、見慣れた自分が居る。

 金色の髪を結わずに下ろし、薄く化粧が施された顔。

 鏡の中では、藍色の瞳をした自分が、こちらを見返している。


 ソフィアは視線を移動させ、右手で横髪を耳にかけた。きらり、と室内の光を反射するのはダイヤのピアスだ。


――― よかった、ちゃんとある。


 ほっとして、次は左の耳に瞳を移動させ。

 そして。


 鏡越しに。

 目が合う。


 紫色の。

 瞳と。


「……………」


 ソフィアは声も出ずに、ただ、凝視した。

 自分の左側だ。


 左側、というより。

 左耳の真横だった。


 はっきりと。

 泣きぼくろの女の顔がうつっている。


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