第30話 緊急訓練の話 2

◇◇◇◇


「え? 忘れ物?」


 扉を開けた途端、戸惑ったような顔のライトが顔を覗かせた。相変わらず腕には人形を抱えている。視線を向けると、こちらも珍しくぱっちりと瞳を開いてソフィアを見ていた。


「いえ。経理課の中尉さんからの伝言を携えてきました」

 ソフィアはにっこりと微笑み、それから意味ありげに周囲を窺ってみせる。


「今の私は密使ですからね。聞かれては大変」

 ソフィアの言葉に、ライトは朗らかに笑った。ついで、腰を屈め、首を傾げてみせる。


「では、承ろう」 

 そういう彼の耳に彼女は口を寄せた。


「予定に無い訓練を今から行うそうです」


 できるだけ、そっと囁いた。くすぐったいのか、ライトは少し肩を竦め、それから「へぇ」と目を丸くする。


「なるほどね。そりゃ、重要だ。事前に知られたら意味がない」

「でしょう?」


 ソフィアは笑うと、ジョイスティックに指をかけ、きゅるり、と電動車いすの車輪を動かした。ライトと少し距離をおく。


「多分、数分後に始まりますから、気を付けて下さい。無重力にはならないそうですが、多少揺れたりするそうで……」


 ソフィアはライトを見上げ、会釈をしてみせた。


「じゃあ」

 そう言って元来た道を戻ろうとするソフィアに、ライトは慌てた。


「どこ行くの」

「どこ、って……」


 ソフィアは車いすを操作して、座面を動かす。彼と向かい合うようにすると、首を傾げて見せた。


「部屋に戻ります。準備万端にして、訓練に備えますが……」


「何かあったら困るだろう。この前の、無重力の時みたいに」

 ライトが口早にそう言い、ソフィアは二度ほどまばたきをしてみせた。


「……まぁ、そうですね」

 知らずに、口がへの字に曲がったのは、前回の自分の失態が脳裏に浮かんだからだろう。


「あんなことにならないよう、頑張ります。何事も経験でしたね」

 苦笑するソフィアに、ライトは大きく扉を開いて見せた。


「一緒にいよう。そうしたら、君に何かあったら僕が対処できるだろう?」

 真面目な顔のライトを、ソフィアはぽかんと見上げる。


「部屋にひとりでいるのは危ないよ」

 黙ったままのソフィアに、急いた口調でライトが言う。


「いや、あの……」

 ソフィアはそれでも瞳を左右に散らして困惑する。


「そこまで甘えることもどうかと思いますし、基本、自分のことは自分で出来ますから」


「いや、君が自立していることは重々承知しているよ」


 言葉を遮ってまで断言したライトだが、ふと自分が左腕に抱えている人形に視線を落とした。


 なんだろう、ときょとんとしたソフィアの目の前で、ライトの顔が朱を吸い上げた和紙のように熱を帯びる。


「な、なにを……。そんな、お前……」


 口早にそう罵った後、ソフィアの視線が気になったのか、がばり、と顔を上げた。


「何もそんな不埒なことは考えてないよ、ぼくは! 単純に君の身を案じただけで……」


 ぶるぶると首を左右に振るライトを、呆気に取られたようにソフィアは見ていたが、断片的にライトが口にする言葉をつなげていき、判断したところによると。


 どうも、「ライトに下心があるから、ソフィアが警戒している」とでも持衰セイラが言ったようだ。


 それで、危機感を抱いたソフィアが、強情に部屋に帰る、と言っていると思い込んでいるらしい。


「いえいえ! ライトがそんなことをしないのは、分かっていますよ!」

 ソフィアがそう取りなす。


「もちろんだ」

 ライトは胸を張る。


「持衰と同じように、身を清めているんですもんね」


 ソフィアの言葉に、ライトは安堵したように何度も首を縦に振る。そのきまじめな様子と、左肘で半眼になった人形を交互に眺め、ソフィアはくすり、と笑う。


――― でも、妄想ぐらいはしたのかな。


 そんなことを思ったが、ソフィアが微笑んだからだろう。ライトは体中からこわばりを解いて、「よかったらどうぞ」と扉から身を躱す。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 ソフィアは頷くと、再び彼の部屋に車いすを進ませた。


「一〇分後に、訓練が……」


 開始するんだよね、と言ったライトの声は、けたたましい警報音に消された。同時に、室内の照明も勝手に明滅する。


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