首なし馬

海石榴

第1話 勝瑞城惑乱

 天文二十二年(一五五三)の秋に至った頃のこと。

 阿波勝瑞しょうずい城の広間は、その日、困惑と緊迫感に満ちていた。

 阿波守護たる細川持隆もちたかが、並み居る重臣らを前に、急に上洛したいと言いはじめたのである。

「そっ、それは、そればかりは……」

「すぐ上洛と申されましても……」

 重臣らのどよめきに、持隆が一喝を浴びせる。

「そのほうら、不服と申すか!」

 若き家宰かさい(筆頭家老)の三好義賢よしかたが、主君の意を問いただした。

「なれど、上洛して、いかがなされるおつもりでございましょうか」

「しれたこと。天下のご政道を正すためよ」

「ほう、この襤褸らんるのごとく乱れきった幕府のご政道を、阿波一国の力で正すと申されますか」

 当時、無能な足利将軍義輝よしてるのもとで、幕府の権威は瓦解し、天下は下剋上という無明長夜に陥り、政情・民情ともに乱れきっていた。

「ふんっ、幕府や義輝公が役立たずなら、将軍の首をすげかえ、幕閣人事を刷新すればよいではないか。わが阿波の国には、清和源氏の名流にして、足利将軍家嫡流の御所さまが平島ひらじまの地におられる。平島の御所さまを征夷大将軍に推戴し、いまこそ我が将軍輔佐ほさの管領となって、天下の実権を握るとき。そうは思わぬか」

 これを聞き、家宰の三好義賢は唖然とした。主君の持隆は、天下の趨勢すうせいを何もわかっていないのだ。

 たしかに阿波細川家の家格は、将軍位に次ぐ管領職に就けるほど高い。

 代々幕府の管領職に就いてきた京都の細川本宗家ほんそうけの庶家(分家)として、幕府や将軍家からも一目置かれている。

 しかしながら、阿波細川家の当主たる持隆がそれら権勢に取ってかわり、幕府を指揮するに至るまでには、あまりにも大きな障壁が横たわっている。

 第一に、阿波公方の足利義冬よしふゆ、もしくはその嫡子義親よしちか(のちのよしひで)を奉じて兵を挙げ、将軍義輝、管領細川氏綱などの旧来権力を一掃しなければならないのだ。

 しかも、いま畿内の覇権を手中にし、朝廷からも「天下の副将軍」として認められているのは、三好義賢の兄である三好長慶ながよしである。長慶の軍は畿内最大勢力を誇り、指一本で六万の大軍を動かせる――もはや実質的に天下人といえる座に就いていた。

 これらの勢力に、阿波一国でいかにして対峙するというのか。持隆の威光で、細川家の勢力下にある隣国讃岐さぬきや淡路から兵を掻き集めても、せいぜい一万か、二万であろう。上洛など無理だ。無闇に上洛すれば、京畿の巷をいたずらに戦禍に陥れ、人々に塗炭とたんの苦しみを与えるだけのことになろう。

 義賢は主君の持隆に異を唱えた。

「畏れながら、現下の状況で挙兵し、万が一、失敗しようものならば、阿波細川家の権威は失墜し、持隆さまの身も安泰とならぬことは必定にございます。それでもご上洛の兵を挙げると申されますか」

「ええいっ、臆したか、義賢。それとも兄の長慶に弓は引けぬと申すか。もうよい。皆の者、下がれ」

 三好義賢を筆頭とする重臣らが踵を返そうとしたとき、持隆の甲高い声が広間に響いた。

「待て。安芸守あきのかみだけ残るがよい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る