地上 その五の三

 中国航天局の宇宙船発射基地がある海南島は、ハワイとほぼ同じ緯度に位置する中国唯一の熱帯気候の地であった。


 日本宇宙機構の職員として昨夜遅くにこの常夏の島へ派遣されてきた須藤守は、以来中国航天局の職員と共に一睡もせず、中国製中古シャトル〈伝馬3号〉の打ち上げ準備を行っていた。

 夜明けとほぼ同時に気温が三十度を超えた発射場には、微かに潮の香りを含んだ南東風が吹き続けている。おかげで須藤の前髪は縄状の束になるほどにべたつき、さらにはここ十二時間、絶えず周囲で交わされているビン語とかいう聞き慣れない中国語が耳の奥で反響し、つまりはとても不快であった。

 こうしてささくれ立った神経には、抜けるような青空も、輪郭のはっきりした純白の雲も、ひりひりとした苛立ちをさらに煽る対象でしかない。須藤は〈もちづき〉で救助を待つ仲間を思うことによって、なんとかモチベーションを維持していた。


 二時間ばかり前、動力系統の最終チェックを終え、あとは発射を待つばかりと一息ついたところへ、急遽、貨物スペースの隔壁を一部取り外せという指示が日本から届いたのだ。悪意のない、それでいて必ず最悪のタイミングで入る作業変更。どれも意味のある重要な指示だとは理解しながらも、やはり気持ちのどこかで、いい加減にしろと毒づいてしまう。しかしそう言いながらも速やかに気持ちを切り替え、作業はきちんとこなすのであった。


 ようやく隔壁の除去を終え、三十分の休息時間が終わり、発射台の陰からのろのろと這い出した須藤の耳に遠くからの声が届いた。

 見れば管制塔の方から豆粒のような人影が手を振りながら駆けてくる。一月とはいえ熱帯気候の陽射しは強く、白茶けた大地には陽炎さえ立っている。馬鹿のように広大な発射場であるから、まだ駆け寄る人物の顔かたちは判別できないが、須藤にはそれが同じ日本宇宙機構の職員、田畑であることがすぐにわかった。この南国の地に派遣された日本人は二人だけで、駆け寄る人物が、おーいと叫んでいたからである。


「また新しい指示が入ったぞ」

 荒い息をつき、顎の先に汗を光らせながらもう何度聞かされたかわからない台詞を口にする田畑の顔は、これ以上の歓びはないというほどにほころんでいる。須藤には、何事も前向きに捉える田畑の性格が羨ましくもあり、鬱陶しくもあった。


「富永センター長から直接受けた指示だぞ」

 それって、物凄くやっかいな内容ではないのか。須藤は嫌な予感に全身を緊張させた。

「日本宇宙機構が〈伝馬3号〉を買い取ったそうだ」

「は?」

「だから、このシャトルはもう俺たちのものなんだ。中国に遠慮することなく好きにしていいんだよ」


 確かに悪いニュースではないが、どこのものであろうと現地作業員としてやることは同じではないのだろうか。

 須藤は首を捻って背後にそびえるモスグリーンのシャトルを見上げた。

 今年で十年選手の機体は整備を受けたばかりでそれなりに美しくはなっているが、どことなく古びた雰囲気をまとってもいる。とりあえずは今回のフライトを無事にこなしてくれよという願いを込めて念入りに整備したから、動作そのものに問題はないだろうが、わざわざ買い取って自分たちのものにしたいというほどの魅力もない。やはり田畑のプラス思考は並ではないようだ。多分二ケタは違う。


「で、指示の内容は?」

「船名変更さ」

「は?」

「ほら、あの横っ腹にでかでかとペイントされている味気ない名前、伝馬3号、あれを書き換えるのさ」


 須藤の肩ががくりと落ちた。発射までもう数時間だと聞かされているこの期に及んで、あの馬鹿でかいレーザー転写装置をはるか二キロ先の倉庫から引っ張り出せというのか。というか、本当に富永センター長直々の指示なのか。

 田畑の屈託のない笑顔に能天気な陽光が降り注いでいる。

 本当なんだ。ならばこれまでの作業指示で一番の脱力系だ。だが現地派遣作業員としては指示に従うのみである。


「じゃあ、とにかく急いで取りかかろう。新しい名前はなんて書けばいいんだ?」

 須藤は気の抜けた顔と声で、田畑に尋ねた。

「HOPEだよ。出来るだけ大きく目立つようにHOPEと書け、というのが富永センター長の指示さ」


 田畑は輝かせた目をまっすぐ須藤に向けてきた。

 須藤がその意味するところを理解するには少々時間が必要だったが、田畑の笑みとシャトルとを何度か見比べるうちに作業指示の内容がじわじわと心に染みてきた。


 HOPE――なるほど、悪くない名前だ。それでもってやりがいのある作業だ。


 須藤は頬が自然とほころぶのを感じながら、空を見上げた。もちろんそこに〈もちづき〉の姿は見つけられなかったが。

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