導師サイの受難

大秋

第一部

1





──母さん。


 身を這う冷気が、ささくれだった感覚をより鋭敏にする。ジンジンと身体の奥底から湧き出る痛みに刺激されて、男は目を覚ました。


 意識を取り戻すまでに、いったいどれくらいの時間ときが流れたのだろうか。泥にでもまみれたかのような鈍く重い頭を必死に働かせてみるが、答えは出てこなかった。


 男は全身にまとわりつく倦怠感を無視して一息に起き上がると、一度だけかぶりを振って周囲を見回す。薄暗い洞窟の中に一人で意識を失っていたようだ。真っ暗というわけではないが、手探りの状態で動くのが躊躇われる視界の悪さ。道は男を中心として前後に拓けていたが、どちらが出口でどちらが入り口なのかは分からない。


 途方に暮れようとしていた矢先、男は思い出す。男が気絶する前に連れ立っていた一人の幼子おさなごの存在を。


「アルマ……」

 一つの切欠を手に入れたことで、男の記憶は徐々に戻ってくる。本来であればこのような局面に至ることを男は想像もしていなかった。


 危機感が足りなかったと言われてしまえばそれまでだが、今更過去を振り返ろうとも後悔を拭える事はない。予想外な方向へと事態が転がってゆき、それはもはや男の手の届かぬところにまで進もうとしていた。


 男にとって問題は、多くの経験から導く事の出来たはずのものを迂闊にも己の見落としにより手放してしまったということだ。その男、サイ・ヒューレにとってそれは大きな意味を持つ。


 この物語の最初はそう……導師サイ・ヒューレが、導師発祥の地である故郷グアラドラへと帰郷する所から紡がれる。





 * * *





邪眼イビルアイを持った子供?」

 黒い長髪を背中の部分で結っている黒眼痩身の男、サイ・ヒューレが問い掛けると、テーブルを挟んで座っている青年、ハル・ニストリカが鷹揚に頷いた。


 年の頃で言えば二十代を中頃を過ぎたくらいの見た目であるサイより、少しだけ若さを感じさせる目の前の青年の発言に、サイは真剣な表情のまま視線を向ける。


 ゆったりとした、灰色の地味な服を身に纏ってはいるが、その格好すらも青年が持つ美しい容姿をより引き立てる趣きを持って、青年を印象付けていた。ハルの薄茶色の髪が光に触れながら揺れると、前髪から覗いた蒼い瞳がサイを見つめる。


「えぇ。導師や巡礼騎士は皆出払っていまして、対応出来る人間がいないのです。サイ、どうかお願いできませんか?」


「ふむ。……皆が出払っていると言ったが、これはいつ入ってきた話だ?」

「……もう一月程前の事、です」

 ハルの言葉にサイは軽く口を閉じると、緩やかに流れる己の黒髪を掻く。


「忌み子として、街の人間に殺されているかもしれんな」

「……そうかもしれません」

 ハルの瞳はサイから外れない。滾々と称える蒼い眼は、それでも一縷の望みに掛けているのか視線を外すことなくサイの返事を待つ。


「次の旅先も特に決めてはいない。ここではゆっくりしようと思っていたところだし時間はある、俺が行こう。間に合えば良いが」

「お願いします。もし……」

「……もし、事が済んだ後であろうとも、この眼で見届けよう」

「すいません。サイ」

 背中越しに受けたハルの言葉に、サイは飲み込もうとした息を吐き出す。白い靄のように漂って消える溜息。

「気にするな、ハル」

 サイは部屋の外に出た後、何を思うでもなく窓越しから覗く空を見た。

 どこまでも続く空の色は、サイの眼には少しだけ眩しく見えた。





 * * *





 街に吹く風も肌寒くなってきた季節。色の移り変わりを見せる大地と共に、人の営みも緩やかにではあるが変化を迎えようとしていた。


 サイはリーウという名の街を一人歩いていた。雑然としていて決して綺麗とは言い難いが、どこか人間臭さを残す街並みがサイは嫌いではなかった。日々の営みに追われるように生活をしている人達は、かつて訪れたことのある王都の人達となんら変わらないようにも見える。目に映る上辺だけのものが真実であるとはサイも思ってはいないが、何か異常な事が表面に浮かび上がっている様子も窺えない。


 邪眼イビルアイというものは、長らく旅を続けているサイの身であればこそ、全く聞かない話ではない。その力は宿主によって特徴を変えるものであるが、力を発現せぬままに寿命を迎えるものも少なくはない。仮に力が発現したとしても、大抵が見つめられた時に不快感を覚える程度の気のせいで済むような軽いものでしかなかった。


 外界に影響を与える程の邪眼イビルアイを持つものは希少であったが、邪念を持ってその力が行使されれば見られた人間は身体の不調をきたすこともあるし、神話に語られる怪物ベヘモスの持つ邪眼であれば、幻覚を見せたり、命を削る事すら造作もないと言われている。それ故に、邪眼イビルアイを持つものが発見された時には、周囲の人間は短絡的な行動に陥りやすかった。


 噂を聞いて確認に向かったとしても、邪眼イビルアイを持つものの存在自体が神隠しにあったかのように消え去り、人々は口に戸を立て禁忌へと変わっていることもしばしば起こりうる。小さな共同体コミュニティを維持する為に行われる排他的な行動ではあるが、そこに個人の是非は反映されにくく、部外者が口を挟む事自体難しい事柄でもあった。


(奴隷商が情報源というのも、珍しいことだ)

 王国を通じてグアラドラに話を持ち込んできたのはこの街に店を構えている奴隷商の一つであった。


 奴隷商と言えば聞こえは悪いが、小さな農村や村であれば、口減らしの為に子供が捨てられることや売られること自体、今の時代になっても少なくはない。そのままであれば失われていたはずの命に、衣食住と働き口を斡旋するのは、国の手が届かぬ草の根の所では命を繋ぐために必要なものでもあった。


 奴隷商の腕にもよるが、大きな商家の下人として受け入れられれば、子供は学びとともに成長もできるし、制限はあるがその中で人生を謳歌することも出来るだろう。だが、情報を持ち込んできた奴隷商の思惑は依然として知れない。どういった経緯でその奴隷商が邪視イビルアイを持つ子供と縁を持ったのか。なぜグアラドラの導師に助けを求めに来たのか。


 どんなことにでも表があれば裏というものが存在する。目を背けようとも厳然たる事実としてそれがある以上、知らぬ存ぜぬで通せるほどサイも夢想家ではない。ただ出てくるのは、いつになっても止めることのできない溜息だけか。サイは街の人間から聞いた奴隷商があるという路地裏に入ってゆく。


「……なんだ」

 サイの眼には路地裏にたむろする子供達が映る。そして、ひっそりと背後に忍び寄る足音を耳にする。踏みしめる地面の音が十分に体格の出来た大人である事をサイに告げる。


「あんちゃん、この先はイズールの奴隷商しかないけどお客さんかい? うちんとこならもっと安くするぜ」

 周囲に響くほどの大きな声が発せられる。少し掠れたその声はサイへと向けられていた。声を受けてゆっくりと振り返るサイ。視界に入ってきたのは、鞘付きの剣でこれみよがしに肩を叩いている若い男であった。年の頃は二十代半ばくらいか、男は顔に笑みを張り付けていたが、サイにはそれが虚勢のように見えた。


「すまんが、そのイズールとやらに用があるのだ。要件はそれだけか?」

「ふーん、そうなのか。しかしあんちゃん良さそうな剣と鎧を持ってるね。腕に自身があるのか、護衛もなしでこんな所に入り込んじゃってさ」

 笑いながら話しかけてくる男の視線は分かりやすいくらいにサイの持ち物に目が行っていた。白い道衣の下に十分に手入れのされた鈍色の鎧を着込んでいるサイ。腰には華美な装飾のなされた鞘付きの剣を提げていたので、それが男の眼を曇らせたのかもしれない。


 頭の中で勘定でも弾いているのだろうか、男が見せる口元の緩みは隠せようがない。一人、二人と路地裏に入り込む影が増えていく。皆が皆武器を持っているわけではないが、短剣や縄を手にしている者も見える。座っていた子供達は剣呑な雰囲気を敏感に感じ取って、その場から這うようにいなくなっていた。


「ちなみに、この街は外様に優しくなくてね。事件があっても警邏はまともに動いてくれないんだよ。どうだいあんちゃん、剣と鎧と有り金全部をここに置いてかないか? 素直に従ってくれたら悪いようにはしないからさ」


「やめておけ。あまりこう言うことは言いたくないが、まだ若いだろう。人生を投げ捨てるような生き方は関心せんな」


「んん? うるせぇなぁ、んなこたどうでもいいんだよ! 痛い目に遭いたくなかったら、大人しく持ってるもんを置いていけって言ってんだよ!」

「いやはや……骨折り損のくたびれ儲けという言葉は知っているか?」


「それはこっちが決めることさ。この人数差でやるのかい、あんちゃん。こっちはどっちでもいいんだぜ?」

 高らかに笑いながら、仲間に顔を向ける男からは余裕が垣間見える。これまでも同じ手口で成功しているのであろう。味を占めて歯止めが利かなくなっているようにも見える。サイは顔に手を当てて天を仰ぐと、今日何度目かの溜息をつく。


「覚悟は決まったかい?」

「あぁ、そうだな。失敬させてもらうよ」

「だからそれはさせねぇって……ちょっ!」

 男はそれでも進もうとするサイの前に立ちはだかろうとした瞬間、サイはなだれ掛かるように壁へと身体を寄せる。軽く壁に手をつけると、一気に膝に溜めていた力を開放する。一歩で男の頭上より高い位置にある壁を蹴って、二歩三歩と足を跳ねさせる。息を吸って吐くまでの短い時間の間に、サイは若者の遙か頭上にある建物の屋根にまで到達していた。


「すまんが、争い事は嫌いでな。ではな」

 サイは下を覗き込むようにして、呆然とした姿を見せる男たちに最後の別れを告げる。

「あっ、こら待て! このやろう!」

 小さくなってゆく男の怒声を尻目に、サイは本来の目的であるものの探索へと戻る。入り組んだ路地の一つに、最初に遭遇した子供達が周囲を警戒しながら何処かへと向かっている姿が見えた。


「風の流れる先はそうなるか。さて、巡り合わせに期待してみるか」

 確信は持てなかったが、直感に訴えかける何かを感じてサイは子供達の後を追うことにした。




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