第十章 刹那の閃光

「どこの方かしら? 所属は?」

 手を伸ばしても届かない、おおよそ大きく五歩分ほど向こうで足を止め、迷いなく銃を構えて。

 鋭い視線でサングラスを射抜かれ……彼女が不意に、淡いブラウンの瞳を不審の色に染め、怪訝そうな顔をした。

「……どこかで、見た顔……ね……」

 言いながら、その瞳をゆっくりと見開いていく。

 俺は、ことさらゆっくりとかけていたサングラスを外し胸ポケットにつっこみ……彼女に向かい、ふっと、微笑んだ。

「……うそ………なんで………」

 少し掠れた、小さな声で。呟くように彼女が言う。微かに首を振って、信じられないものを見るように。まっすぐにこちらに向けていた銃口が下がり……手が、小さく震えているのが見える。

 大きな瞳を、驚きと戸惑いで染めて、俺を見つめる。

「……やっと、見つけた」

 耳に届く自分の声は……とても、とても情けなく聞こえた。

 二年間。

 二年間探し求めた彼女。

 美しく成長した姿は――記憶よりも、輝いて見える。

「ショウくん………?」

 呼ばれた瞬間が、限界だった。

 走って――たかだか五歩分程度だ――一瞬だけ後ずさりかけた彼女を引き寄せて。

 銃が落ちるのも気にせずに、聖を強く……――抱きしめた。

「ひじり……」

 耳元で、名前を呼ぶ。俺よりも、頭一つ分低い身長。少しだけ華奢で、柔らかな体。淡い栗色の髪は器用に纏められ、白く滑らかなうなじがのぞく。

 一度、強くきつく抱きしめてから……ほんの少しだけ体を離し、顔を覗き込む。戸惑いの色を浮かべた顔は、どこかあどけなく見えた。

「なんで……君がここに居るの……」

 呆然と呟いて……聖のかわいい顔が、ふにゃりとゆがむ。

「なんで……こんな………」

 頬に手を添えられ、今にも泣きだしそうな、大きくうるんだ瞳で見つめられる。

 彼女の親指が、俺の目元を優しくなぞる。

 心地いい感触。

 聖の、体温。

「うん……」

 何に、というわけではなく頷いて、聖に向かって微笑んだ。しかしそれを見た聖が、余計に、こらえきれなくなったように、涙を溢れさせる。

「ばか……ばかあ」

「ええ? ひでえなあ」

 いやいやをするように首を振り、泣きながら甘い声でばかと繰り返す聖に、苦笑しつつそう返して、手のひらで涙をぬぐう彼女のその手を取った。

 優しく目元にキスを落として、涙を拭う。

「ずっと、探してた……会いたかった」

 囁くように言って、唇に、かすめるようなキスをする。

 彼女の体温に、香りに、存在に包まれて。

 このままどうにでもなってしまえ、と思えてくる。

 ……そのくらい、俺にとっての二年間は、長かったから。

「また、無茶なことばっか、して……顔色も悪いしっ……なんでこんな、痩せちゃってるのよー……」

 ぐしぐしと泣きながら、確認するように。頬に、肩に、体に。

 優しく触れながら聖がそう言う。あー、と苦笑を漏らし、耳元で、お前がいなかったからだろ、と少しだけ責めるように囁いた。ぎゅっ、と抱きしめて……離れないように……離さないように。

「――お前がいない世界はもう、無理だ……」

 苦しさを、全部吐き出すように呟いた。



 ありえないと、思った。

 そんなことはありえないと。

 目の前に……愛しい、君の幻影が現れたのかと。

 とうとうあたしの頭は、どうかしてしまったのかと。

 裏で、こちらで。ほとんど名前を聞かなくなった。

 平穏な生活に帰っていったんだと思っていた。

 メディアの向こうで笑う君を見て、痛む胸は自業自得だからと、幸せを願っていた。

 ……ずっとそうして、深く深く、想いを閉じ込めていたのに。

 抱きしめられた体温で……ゆっくりと現実に帰っていく。

 そこからはもう、感情はぐちゃぐちゃで、彼の顔を、体を、体温を確認して……抑えていたものがすべて、流れ出てきてしまった。

 顔色は悪いし、記憶よりも、細くなってしまっている体。

 あの時も思った、無茶してるんだろうなって。

 けれど、少しも変わらない……すごく優しい笑顔。

 空よりも澄んだ、深い青い瞳。

 変装のためだろう、髪色も髪型も全然違うけど。それでも。

 大好きな、ショウ君。

 あたしの……一番、大切な人。

「なんで、こんなとこにいるのよぉー……」

 涙を抑えようとしても、一度あふれ出してしまったものは、なかなか収まってくれなかった。強く優しく抱きしめられて、もうこのまま、ずっとこのままでいたいとまで思ってしまう。

 神様なんて信じない。信じてない。――でも。

 この時ばかりは、神様が、最後くらいはって、言ってくれてる気がした。

「迎えに来たにきまってんだろ」

 少し苦しそうな、掠れた声色で……それでも、とても優しい手つきで、ポケットから出したハンカチで目元を抑えてくれる。

「取り返しがつかなくなる前でよかった……ほんとに、よかった……」

 離れないままで、ショウ君がそうくりかえす。

「ひじり……帰ろう。みんな、待ってる」

 泣きそうな顔で。

 ショウ君が言う。

 ああ……ああ。

 それにうんと言えたなら。

 すべてを投げ出して、縋り付いてしまえたなら。

 それは、なんて。

 なんて、甘美な。

「……っ、かえって……」

 ぐい、とショウ君の胸をおして、必死に引きはがそうと抵抗する。

 君が、どれほど傷ついてしまっても。

 あたしが、どれほど愚かだったとしても。

 ……君の未来と、幸せを。

 穏やかで平穏な、幸せな日常を。

 それを君が手に入れるためならば。

「っ、ひじり!」

 逃がさないようにだろう、あたしの抵抗を押さえつけるように、腕の力を強めてくる。

 前だったのなら、そうされたらもう、抵抗の仕様もなかったのに。

 必死にもがいて、引きはがした。

 引きはがせてしまった。

 そのくらい……だったのに。

 もうそんなことですら、どうしようもなく悲しくて。

 すぐに少しだけ体を離し、自分の震える手を強く握った。

「かえって……ここに、いないでよ……!」

 ぐい、と涙を拭って、必死にこらえて。

 まっすぐにショウ君の、澄んだ空色の瞳を見つめた。

 すごく……すごく、悲しそうな瞳と顔。胸の痛みで、どうにかなってしまいそうなほどに。

「君は……君は、ちゃんと……幸せに――」

「嫌だ!!」

 強く。

 鋭く、遮られた。

 は……と、小さく息をつき、ショウ君が、吐き出すようにして、続ける。

「お前のいない世界はもうたくさんだ! この二年間、俺がどれだけ……っ、どんな、思いで……」

 そのまま彼は、ぎゅっ、と奥歯をかみしめて、押し黙る。

 ためらいがちに、右手をそっと握られた。

 振り払うことも、抗うことも、できなかった。

 優しく。

 それはとても、優しく。

「――……いくなら、俺も連れてけよ」

 ふわり、と彼は微笑んだ。



「なん、……なにいっ、て……」

 涙は止まったが、まだ潤む聖の瞳が、ゆっくりと、見開かれてゆく。

 ぎゅっと手を握って、ただ聖を見つめた。

 どこで、生きようとも。

 どこで――死のうとも。

 もう、一人でいるのは――――耐えられなかったから。

「だめ……そんなの……」

 震える声で、聖がつぶやくように言う。

「――お前がすること、俺がわかんないと思う?」

 苦笑して、聖の手は握ったままで、反対の手で彼女の頬に手をかける。

「正直な……考えすぎだったらいいなとは、思った。けど……そういうつもり、だったんだろ」

 頬を、目元を、口元を、顎を。

 ゆっくりと彼女の造形を確認するように。

 優しくなぞって。

 彼女の震える唇は、そのまま黙ってしまった。

 いたずらが見つかった子供のような瞳で見つめられる。

「俺の幸せはさ……お前がいないと、ダメなんだよ」

 右手の親指で、聖の震える唇をなぞって笑い。

「だから――俺も連れてけ」

 聖が、再び泣きそうな顔をして。

 ゆっくり口を開きかけた……―――その時。

「Hijiri!」

 男の鋭い声が響き、俺たちは振り返った。

 少し離れた通路の奥に、一人の男が立っていた。

 鋭い目つきの、180前後ほどだと思われる長身の、グレーのスーツを纏った男。よくいるであろう濃いめの茶髪を少し乱し、アンバーの瞳が俺たちを……聖を睨みつけている。まっすぐ銃口を、彼女に向けて。

「貴様……どういうつもりだ」

 少しばかり癖のある英語で、忌々しそうにそういうと、ちらり、と俺を見る。視線の中にある敵意には、覚えがあった。

「タイクーンの覚えもいい貴様が、そんな得体のしれない奴と逢引きか……何を狙っている」

 ぎり、と音がなりそうなほどに強い瞳で聖を見据えたまま、男は銃口を微動だにさせずに問いかけてくる。

「ウォルフ……」

 聖が、少し呆然としたように男の名を呟いた。ぎゅっと聖の手を握ったまま、俺は右手で、やや強引にウィッグを外し投げ捨てる。髪をがしがしかき回すようになでつけて、ウォルフと呼ばれた男を鋭く見やり。

「……お前、は……」

 ウォルフが一瞬だけ目を見開いて、予想通り、銃口をこちらに動かしてくる。

 ぴたり、と俺の頭に狙いを変えた。

 俺の前で聖を狙うなど、そんなことはさせはしない。

「ショウ・クオンタム……!」

「やめて!」

 聖が俺の手を振り払い、俺と男の間に立って、かぶりを振る。

「違う、違うの。彼はなにも関係ない」

 少し焦ったように。それでもしっかりした口調で、聖が俺をかばうように立ちウォルフを見て言う。

「……まるでただの女のようだな。貴様の感情の揺らぎなど、この二年で初めて見る」

 あざけりを含んだ口調で言うと、ウォルフはにやりと口の端に笑みを浮かべた。

「そうしているなら可愛げもあるが……聖、貴様が手引きしたか。結託し何を企んでいる」

「変な勘繰りはよして。何もないわ」

 聖が鋭い目つきでウォルフと呼んだ男を睨む。ウォルフがちらり、と先ほど聖が取り落とした銃を見て、そうか。とどうでもよさそうな声色で言った。

「ならば、潜入を許したのか……まあどちらでもいい。疑わしきは……罰せよ、だ!」

 言うと同時に、奴が引き金を引く動作が、まるでスローモーションのように見えた。

 瞬間的に体を沈め、かわしついでに左手で聖の腕を強く引き、右手でそのまま、聖が取り落とした銃を拾う!

 軽い音が響き、サイレンサー付きの銃が放たれ、ガツッと背後で音がするが、それを確認する余裕はない。次が来る前には右手の銃で、そのまま奴の銃を狙い――弾き飛ばした。引き寄せたことで態勢を崩した聖を背後にかばい、ウォルフから視線を外さない。

 カツン……と、背後、聖のすぐそばで何かが落ちる音がして。

「っく……」

 忌々しそうに顔をゆがめつつ、ウォルフが手を抑え。

 背後の聖が……一瞬、息をのむ気配がし。

「だめ……っ! ショウ君、逃げてー――!!」


 彼女の悲鳴とともに――――轟音が響いた。



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