芦川ヒカリの憂鬱Ⅴ

芦川ヒカリの憂鬱Ⅴ 1


 古泉が眠ったのを確認して俺はメモ帳を開いた。そのはずが、いつの間にか俺は鳥居の下にいた。

 夜の帳が降りた境内は月の光が薄いためか暗く、そして空気は少しだけ冷たい。月明かりを反射する手水舎や、空っぽの賽銭箱、寂れた本殿の佇まいには見覚えがある。足の裏に砂利の感覚はないので、まるでグーグルマップでも見ているみたいに、歩いているのかどうかわからないまま進んで行く。わずかに一歩一歩が重く感じ始めて、それがなぜかと思い出せば足の裏がじくじくと痛み始めた。手元に明かりがないのに、視界にある人影がハルヒなのだと確信できてしまう。

 そうしてやっと、ここが市内探索のあの日にハルヒと行った神社だったとわかった。だから──これはきっと、夢なんだろう。

 天照を祀る神社に月の石を置くなんて、知らなかったとは言え機関も粋なことをしたもんだ。それにハルヒの名前も太陽の日差しっぽい音だし、偶然だけどこの神社にぴったりだった。俺も名前は光を指すけど、兄貴が朔と名付けられたことを考えると、由来はきっと月の光なんだろうな。俺にとっては偶然が奇跡に感じられる、そんな場所だった。


 ハルヒは石段に腰かけて、なにやらイチゴ柄のメモ帳を開いている。可能性が低いから除外しようと思ったが、その可能性の計算には個人的な考えが多分に含まれていたことを、夢の中だからか素直に思う。つまり、俺は恥をかいたり傷ついたりするのが嫌だった。だからプロセスから外した。そんなものは可能性とは言わないし、破綻している。だから、そういう余計なものを取っ払ってみると、わかりやすい真実が見えてくる。

 ハルヒは、このメモ帳を日曜に買った。レシートの通りならペンと、プレゼントと共に。これまでハルヒは俺の前で一度もそのメモ帳を使っていない。つまり、人前では使わないものなのだ。イチゴのシャーペンも、筆箱には入っていたがキョンが借りるまでは俺の視界に入ったことはない。後ろの席だから見えていない時間が多いというのもあるだろうが、それにしたって積極的に使っているものじゃないはずだ。

 月曜までそれらの品があることを、俺は気に留めなかった。逸脱事項に関して今でこそ少しは柔らかく受け止めているが、前はもっと躍起だった。その俺が、本編に描写されていない持ち物を見逃すとは到底思えない。だから、本当にそれまでは持っていなかった可能性が高い。日曜に買ったものを、ハルヒはあまり見せないように持ち歩いていたということになる。

 どうしてなのだろう、と考える。それは、多分俺がイチゴのピンをハルヒにあげたことに起因している。多分、俺にイチゴが似合うと言われたことは、ハルヒとしても別に嫌ではなかったんだろう。でも素直じゃない彼女のことだから、真に受けていると思われるのは癪だった。もしも本当にうざったかったのなら、日曜にそれらを買わなかったはずだ。だから、彼女は少なからず嬉しかった。一式揃えてみるのもいいかもしれない、と思う程度には。あるいは、谷口が俺とイチゴ牛乳を結び付けたみたいに、彼女のそれはイチゴと俺をイコールで結んだ好感情だったのかもしれない。

 土曜の市内探索まで思考を戻そう。あの日、SOS団は大した成果をあげられなかった。だが、俺とハルヒの願いが合致したことで、原作では手に入らなかったはずの月の石が見つかった。そこまでの俺は、きっと彼女の望む働きをいくらかしていたんだろう。だから、彼女の中で俺への期待は膨らんだ。俺が連れて行った神社だ。俺に対して、なにかやってくれるやつだと認識したんだと思う。

 その後からが問題だった。

 まず、ハルヒが俺を大事に思ってくれていることを俺はちゃんと認識すべきだった。外したらハズいなんていう思い込みは相手を傷つけるだけで、なんの得もない。相手がどう思ってくれているかわからないからこっちも仲良くしていいか考える、なんて空気の読みすぎで、俺は元の世界でだって友達をうまく作れなかった。

 俺は──原作を知って無双できるはずの俺は、日曜にハルヒが一人で探索に行くことを知っていた。だから、当然俺は彼女に連絡すべきだった。

 俺は、あの日にハルヒと遊ぶべきだったのだ。そうすれば、ハルヒが雑貨屋に行った時だって俺は横でイチゴ柄のメモ帳を買うハルヒをからかったりできたはずだ。その俺が男を集めて遊んでいたなんて、ハルヒの言う団員の使命を放棄して恋に現を抜かしたのだと呆れられても仕方がない。


 眠る前に開いたハルヒのメモ帳には、日付と曜日が記されていた。多分、簡単な日記として使っているんだろう。だから隠されていた。何度も言うが涼宮ハルヒの憂鬱はキョンの視点で語られるお話だ。だから、ハルヒの日記を読むという行為は、かなりのタブーなのだと思う。それでも俺は開いた。きっと、こうすべきだったから。

 日曜日の欄にはこうあった。


『もらいっぱなしってのもどうかと思ってお返しを買った。でも、帰って見てみたらイマイチな気もするのよね。どうしてこんなものを買ったのか不思議。最近やってるアニメに影響されたってわけじゃないけど。あいつもオタクだから見てるかもしれないわね。そういう話をしてあげればいいのかしら。でもあいつに話を合わせるってのもどうなの?』


 やっぱり。ハルヒが鞄にいれていた紙袋は、俺へのお返しだった。なぜだかあいつは俺にそれを渡せないまま、俺は透明人間になってしまったんだ。ならば、きっとあの日がタイムリミットだった。気が合う俺が、彼女のその秘密を暴くべきだった。

 俺のために努力をしているのだと、ハルヒは再三俺に言って聞かせていた。俺はそれをきちんと聞き入れておかなければならなかった。もしも透明人間になったら──その問いに、確かに俺は本気で願いを言わなかった。風呂を覗くなんて話をしたのはおかしかった。今ならわかる。いつもの俺だったら、確かに言ったはずだ。


「透明人間になってもハルヒといるのは変わらないよ」

「透明人間になんかなりたくないな」


 俺はきっと、そのどちらかを、熟考に熟考を重ねた末に答えたはずだ。透明人間になったらどうしたいか、の問いに答える時点で俺らしくない。本心を隠す時の俺は、隠すなりに思いは伝えるはずだ。それをやりすぎたのは、キョンのことを考えていたからだ。

 あの時の俺はキョンを観察したいと思った。本当は、そのままの気持ちをハルヒに伝えても多分、平気だった。その後にいくらでも誤魔化しようはあった。透明人間になりたくないと答えれば、ハルヒは俺をこの世界に繋ぎとめるために尽力し続けてくれた。ハルヒと一緒にいたいことを伝えても、同じようにしてくれたと推測できる。

 あの時の俺の失敗は“キョンが考えそうなこと”を選んで話したことだ。キョンが言いそうなことを言うやつなんて、そんなのは彼だけでいい。俺は、自ら俺のポストを手放したんだ。

 ただでさえ、俺は十年前のあの日、キョンに影響されて喋り方がひっぱられているところがある。文章にでもしたらどっちがどっちかわからない時だってあるだろう。もしかすると、あれは俺とキョンとを分別するための試練だった可能性すらある。

 キョンのことを気にして答えた行動こそが、俺が俺という存在からずれたことで生まれた逸脱事項だった。そして、俺の答えなんかを気にしているハルヒの言動こそが、俺がいる以上生まれる人間関係の差異であった。

 いやでも、不思議お色気成分が欲しいって言ってたよな。そこはどう組み立てればいいんだ?

 月曜のページを、めくる。


『思ってたよりセーラー服が普通すぎたわね。プロデュースが間違ってたってこと? それにしても、なによあいつ。どういうつもり? 急に苗字で呼ぶなんてよそよそしいわ。男連中で遊びに行ったとか言ってたし。あたしなんかした? その割にはおとなしくコスプレはしてたけど、突然ご機嫌伺いなんてして、どういうつもりなのかしら。

 朝倉とばっかり喋ってるのは何故なの。だいたい、団長のあたしを差し置いて朝倉に最初にプレゼントしたってのも気に食わないのよね。あんなやつにお返しなんてしなくていいかも。よく考えたら、これってキョンと被ってるかもしれないし。

 他のやつとばっかりしゃべってるから、団に呼ぶチラシだって作ってあげたんじゃない。そうすれば、あいつが喜ぶ不思議な事件が舞い込んできたかもしれないのよ。わがままなやつ。ほんとう、面倒くさいやつ。だってのに、なぜあたしはあんなやつのことばっかり気にしないといけないの? あいつ、紙飛行機大会なんて本気でやりたいのかしら』


 俺のことばかり、書いてある。

 その記述を見て俺には思い当たるところがあった。二人きりで話していた時の記憶を巻き戻すと、確かにテンションが上がってしまった俺は、この神社で彼女のことを下の名前で呼んでいた。キョン以外が「ハルヒ」と呼ぶのはダメだろうと気を付けていたのに、あの日ばかりは呼んでしまったのだ。

 そりゃ、俺も名前で呼んでくれたキョンが苗字で呼ぶのに戻った時はなんだよ、と思った。だから、ハルヒだってそう思うのは当然だ。ハルヒは本気で俺と友達になろうとしてくれているのに、俺は彼女をがっかりさせた。

 友達になろうとしてくれた理由は、俺が異世界人だからかもしれない。苦労して連れてきた存在だからかも、しれない。

 でも、ハルヒがこんな風に友達付き合いで悩む子だと俺は思っていなかった。不思議なことのためなら全部を捨ててきた少女だ。だから、そんなことはあり得ないと決めつけていた。

 そして、俺はそんな彼女の理解者になりたいと願い続けてきたはずだった。彼女と肩を並べたいとずっと願いながら、つまらない人生を過ごしてきた。その願いがやっとかなったはずだったのに。

 こうじゃないとダメだ、なんてのは俺の勝手な思い込みだったんだ。でも、それで言ったらハルヒだって思い込みがすぎるぞ。お前からのプレゼントを被ってるだなんだと言って喜ばないなんて、本気で言っているのだろうか。

 嬉しくて、嬉しすぎて、一回はその可能性を排除したくらいだ。俺はハルヒの鞄を覗いた時、もしかして俺のだったらいいなって、そう思ったんだから。

 火曜のページ。


『具合が悪くて保健室に行ったって、なにやってんのよ。せっかく見に行ってあげたのにいなかったじゃない、嘘つき。まあいいわ。あいつのことだから、授業をサボってなにか探してる可能性もあるし。許してあげましょう。でも、最近夢見が悪くて全然眠れないことは、ちょっとむかつくわね。

 なんで、あいつの隣がキョンなのよ。この席替えはやっぱり納得いかない。それにしても、泣きそうになりながらあたしが帰るのを止めるなんてやっぱりホームシックなのかしら。古泉くんったらなにしてるのよ』


 多分、これが古泉に俺を預けられない理由とやらに繋がっている。俺の挙動不審をホームシックだと思い込んだハルヒは、それを解消できない古泉に役不足を感じた。無意識化では、この不思議な世界にようやく呼び込んだ異世界人が家に帰りたがっているなら引き留められない、という焦りもあったかもしれない。

 俺が規定を守ろうとした行為がハルヒの不信感を強めていた。それに、部室にいる間にハルヒが保健室を見に行ってたなんて誤算だ。でも、それってちょっとおかしいよな。俺が保健室にいることにしたのは長門だ。なら、気づいていたんじゃないだろうか。あの時消えた記憶が全部戻っていないのなら、きっと俺が長門にそうするように頼んだのだろう。でも、そうじゃなかったら?

 もしかして、あの日ハルヒが早退したのは朝倉のせいじゃなくて長門のやったことなんじゃないだろうか。満月だったあの日、部室の石は発光していた。それをハルヒに見せないために長門が早退させた……? そうなると、毎月誤魔化さないといけなくなるのだろうか。

 今日のページを、めくる。


『朝倉が転校した。あたしが早退した後、なにかあったのかしら。

 今日もあいつはあたしの提案を止めなかった。この間は神社の本殿には入るなとかうるさく言ってたくせに。最近のあいつはなんでも二つ返事で、ちゃんと話を聞いてないみたい。あたしに遠慮してるの?

 あいつはキョンからもらったヘアアクセをつけないみたいだった。キョンと仲が悪いってわけじゃないみたいだけど避けてる。

 あたしとキョンだけ、避けてる。

 みくるちゃんや、有希ちゃん、古泉くんとは仲がいいみたい。同じクラスのあたしたちだけ距離をとってる。それはどうして? じゃあ、なんで谷口のやつはいいわけ? もしもあたしがシンデレラなら、絶対にあたしのために頑張った団員をないがしろにしたりしないわ。この場合、ガラスの靴ってあの石になるのかしら。持って帰るのもいいかもね』


 この日記からは席順の意図がわかる。俺とキョンとハルヒ。やっぱりハルヒは俺が二人に対して遠慮していることに気づいていた。だから、俺をキョンの隣のままにした。俺がキョンの隣にいたい願いとも合致している。そして、それを観察できる位置に自分を置いた。谷口たちが離れたのも、ハルヒの中ではロジカルだった。あの時ハルヒは俺に「SOS団の未来がかかっている」とそう言った。俺は、誤解を解かなければならない。朝倉とハルヒの期待に応えなければ、いけない。

 もしもハルヒが俺を忘れていなければ、あいつは今日、月の石を家に持ち帰っていたんだろう。そう考えると、ある意味ではこの状況も意味があったと言える。ハルヒが俺を記憶するうえで根付いていそうなものといえば、まずあれが思いつく。気づいてもらうためには必要なものだ。明日の朝調達しなくては。

 ページをめくる。


『何も思い出せない。もやもやする。あんたは誰なの? あたしの、なに?』


 ハルヒは答えを求めていた。俺は、明日それに答えなきゃいけない。

 石段に腰かけていたハルヒが、縋るような目で俺を見上げていた。それから俯いて、立ち上がった彼女が俺の手を握る。


「あたし、前にもあんたに会ったことがあるの?」


 以前にもハルヒは俺に似たようなことを聞いた。それが何を意味するのかは、俺にはなんとなく想像できる。涼宮ハルヒの憂鬱を見たことがある人なら、俺にはいずれやらなければならないことがあると、わかってしまうのだ。

 だが、今のハルヒが俺の夢に出てきてこう聞くなら、それはきっと俺に確認したいってことなんだろう。そして、俺自身が確信したいんだ。こんな夢に意味なんてないかもしれない。でも、俺は返事をしないといけない。


「ああ、会ってるよ。俺はハルヒに会ったことがある」

「そう……じゃあこの神社にも来たことがあるのかしら」

「あるよ。俺たちの思い出の場所だ」


 ずっとこびりついていた誤魔化し癖を、洗い流さないといけない。俺は変わらないといけない。甘えも逃げも、捨てて。


「会いに行くよ。ハルヒ。何度だって、お前のところに行く」

「あたし、待ったりしないわ」

「いいよ。追いつくから」


 あっそ、とハルヒは背中を向けて歩き出した。全然振り返ってくれなかった。でも、寂しくはならない。俺は明日、その肩を叩くつもりだ。お前の目の前にちゃんと現れる。

 例え今さら別の良物件に変えてくれって言っても、元の世界に帰ってやるつもりはさらさらない。そんなのはもう遅いから、どうか俺で我慢してほしい。一般常識じゃクーリングオフ期間内だけど、そんなことは知ったことではない。お前だってめちゃくちゃなやつなんだ。俺だって多少の破天荒は認められてもいいだろ? その背中が小さくなっていくのを、俺は懸命に追いかけた。




 ──目を覚ます。カーテンから明かりが差し込み、瞼を突き刺している。枕元に置いたスマホは鳴動せず、隣からはしずかな寝息が聞こえている。いつもならまだ起きる時間じゃないってことだが、思ったよりも眠気のないまま目覚めることができた。

 それどころか夢でハルヒとなにを喋ったかが問題なく再生できる。はっきりと夢の内容を覚えているなんて俺にしては珍しいな。起き上ると、意外にも古泉は背中を向けて眠っていた。柔らかい髪が枕に押しつぶされているのを見て、だからこいつは寝ぐせがひどいんだな、と思う。

 覗き込んで顔を見ると、古泉のくせに随分と幼い寝顔をしていた。実際こいつはまだ高校一年生だから、案外こんなもんなのかもしれない。修学旅行でもキャンプでも、男子の寝顔なんざ俺には記憶にない。知っているのなんて父親と兄くらいのものだ。古泉も、こうして見れば寝ている時はべらべら喋らないから可愛いものである。それにしたって睫毛がむかつくほど長いな。

 まあ、普段の生活を考えればもう少し眠らせておいてやってもいいだろう。俺はやつの髪を額からめくるようにして払ってやり、朝食の支度をするために立ち上がる。なんで眉を寄せてやがるんだ。喜べそこは。


「う……」


 出来上がった食事の匂いに釣られたのか、古泉がもぞもぞと起き上る。現金なやつだ。まだ瞼が上がらないのか、布団の感触を確かめるようにぺたぺたと触り、そのまま空中に手を上げてなにやら虚無を掴んでいる。変わったモーニングルーティーンだな。太極拳でもやってんのか?


「あれ……触れなくなってるのか……」


 呻くような声で古泉は薄目を開ける。どうやら俺を覚えているらしい。虚空を睨みつけている古泉はそこそこ凄味があるので、長く見ていると心臓に悪い。シート殴り古泉のトラウマが蘇りそうだ。俺から触れてやることにした。


「あぶねっ」

「ああ、そこにいたんですか。どこかへ行っちゃったのかと思いました」


 虚空一閃。古泉の手刀に喉を突かれそうになり、慌てて避ける。そのまま古泉の手は躊躇いなく俺の肩を掴むので、ダブルでびっくりして飛び上がりそうになった。


「声の位置から、この辺りだと思いました」

「目隠し白刃取り強そうだな、お前」

「なんですそれ」

「今日はむにゃむにゃしてないんだな。眠たがってる方がかわいいのにって意味」

「……なんです、それ」


 不服そうに苦笑する古泉が急に真面目顔になると、顎に手をやり唸った。


「確かにこの時間、僕とあなたは一緒に過ごしていましたが……」

「それにしても経過時間で情報が離れていくなら、おかしいよな?」

「空間に留まる残滓の影響でしょうか? もしくは」

「時間経過によってハルヒの中で思い出したい欲求が高まっているのかもしれないな。タイムリミットが近くなって焦り出すなんてかわいいところがあるじゃないか」

「余裕がありますね」


 俺は古泉の手を握る。念を込めるみたいに、両手で。薄目の古泉は、寝起きにしてはまともに話しているように見えて、また眠り始めてしまいそうなぼんやりとした表情だった。


「ないよ。自信があるだけさ。古泉とキョンがどうにかしてくれるってな」

「……気が引き締まります」

「そうか。弁当の支度をするよ。朝飯食っちゃってくれ」


 台所に戻って振り返ると、俺の手がまだそこにあるみたいに古泉が自分の手を握り、下手くそに笑う。プレッシャーをかけてしまっただろうか。でも、頼られたいんだろうから精々足掻いてもらおう。

 古泉はいつも通り、俺が料理をするのを後ろからしげしげと眺めていた。サンドイッチを片手に「なるほど」なんて納得をして。しょうがないので聞いてやることにする。構ってちゃんだよな、意外と。


「何がなるほどなんだ」

「いえ、あなたがそこにいることを認識して、どう動いているのか考えてみたんです。すると、確かにあなたが料理をしていることがわかって、フライパンが宙に浮いて見えるんですよ」

「マジの透明人間みたいやんけ」

「ですね。これが涼宮さんが願った本来の透明人間の形なのでしょうか」

「だとすると、他のやつらにまでそう見えたら結構やばくないか?」

「あなたを知覚して、行動をシュミレートするのはそれなりにハードルが高いはずですよ。なにせあなたは捉えどころがない人ですから」


 なんかのマウントか? でも、確かにどう動いているかイメージできていればの話なら、そう簡単に周囲の人間には真似できない。それなら不思議事件としてバレる心配はないし、ハルヒがやっぱり透明人間が欲しいと思いなおすこともないか。それにしても。


「お前変態だな」

「褒めてます?」

「んー……まあ、今は?」

「いつでも褒めてくださって結構です。僕、褒められて伸びるタイプなんですよ」

「はいはい、つよいつよい」

「もっとちゃんと褒めて欲しいんですが」

「だっ、ダル……」


 弁当を完成させて古泉の髪の毛を整えてやると、気恥ずかしそうに笑うものの、おとなしくされるがままだ。日常は戻ってきている。確実に。俺はありったけ必要そうなものをかき集めて、気合を入れなおした。




 古泉と手を繋いだまま登校することを、やはり誰も気にしていなかった。九組に着くまで揶揄われなかったし、嫉妬されるようなこともない。ハルヒにも咎められない。そう考えるとあまり恥ずかしくないような気もしてきて、俺は平然とこいつの手を握ったまま歩いて来られた。なんだ、やっぱり距離感で照れるなんて国木田たちのてきとうな嘘じゃないか。

 古泉は上機嫌で、やたらにニコニコしている。もしかしてこいつにとってはこれも悪くないんじゃないか、なんて思う。


「お前的にどうなの。このままなら手繋ぎ放題だぞ」

「そうですね。かなり役得だと思います。でも、やはり解決しましょう。僕個人としてもその方がいい」

「意図は」

「このままではあなたの照れてる顔が見られませんから。ああ、これも説得に使えそうですね」


 見えないことをいいことに俺は背伸びをして古泉の頭をひっぱたいた。だから別に照れてないですし、おすし。

 そのまま踵を返して速足で部室棟に向かう。きっとそこには長門もいるだろう。情報統合思念体がまだ完全に俺に見切りをつけていないことを祈りながら、俺は部室の扉を開く。とにかく時間が惜しい。駆け足の勝負になる。


「長門」


 そこにはやはり長門がいた。本から顔をあげないまま、パイプ椅子に座っている彼女のつむじがよく見える。


「長門」


 二度呼ぶと、ゆっくりと長門がこちらを見た。


「頼みたいことがいくつか。指定の時間になったら古泉に電話してくれ。あと、詳細は言わず朝比奈さんに、キョンにメールするように伝えて欲しい」

「わかった」

「うまく解決するよ。待っていてくれ。長門には俺を観察しつづけてもらわないと困るんだ。落ち着かないからな」

「そう」


 無感動にビー玉のような瞳で俺を見ている長門は、出会ったあの日に戻ったみたいだった。

 なにも覚えていないキョンも、朝比奈さんからの連絡は無視できないはずだ。古泉のやつは、長門から電話がくればなにか気づくだろう。采配はこれで大丈夫だ。


「長門、俺はこれからもお前にちゃんと頼る。お前も、俺に預けられる時は遠慮なく言ってくれていい。自分で対処できるとしても、俺に手伝えることがあるなら言うんだ。学ばないのかって思うかもしれない。でも、一人でやるよりみんなでやる方がきっといい。それこそ、俺が今回学んだことなんだ」

「そう」

「昨日はありがとうな。助かったよ。あんなところにいてくれてさ」

「お礼ならいい」

「そう」


 俺は小さな声で長門の物まねをした。反応はない。


「ちなみに、こういう時には真似しないでって言うんだ」


 長門は返事をしなかった。首を傾げることもなく、俺をじっと見返している。ただ、一度だけ床に視線を逸らした。それがまるでいじけた子供みたいに、俺には見えた。俺にそう見えただけだから、その行動に意図なんてないのかもしれない。でも、俺は長門と俺だけのコミュニケーションを、これからもずっとしていたいんだ。


「じゃあ、行ってくるよ。これ、持っていくな」

「気を付けて」


 俺が部屋を出る前に、長門は視線を膝の本に戻しながらそう言った。月の石のガラスケースを持ち上げて、俺は教室まで慎重に歩く。iPhoneといい、これといい、壊れたら困るようなものの扱いは得意じゃないのにな。俺は何日か分の記録を再生しながら、もう一度作戦を確認する。今日の夜には別の案件も待ってる。まったく、忙しすぎて鬱になりそうだ。

 そう、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱世界に召喚されたらこっちが鬱になりそうな件」なんてタイトルの小説が、二次創作で書かれていたっておかしくないくらいには。

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