芦川ヒカリの憂鬱Ⅲ 12


 俺の手は震えていた。

 長門がいいって言ったからには、きっと通話することになにも問題はないんだろう。だというのに、たったの六日で声も忘れてしまった俺があの人とまともに話せるのか不安になって受話できない。向こうでの俺の扱いはどうなっているんだろう。こっちと違って俺が一人いなくなっても神様がヘソを曲げない世界は、俺無しで順調に回っているのだと知るのが怖い。

 それどころか、俺は幽霊に忠告された「兄貴に聞きたいこと」というのがまだピンと来ていないでいる。長門は、向こうとこちらが繋がるのはそう頻繁にあっていいことではないと言った。機会は逃せない。


「……も、もしもし」


 掠れて、小さくなってしまった俺の声。向こうから聞こえる、息を呑む音。


「おお、おお……本当に繋がるとは思わなんだ。妹者よ、息災か?」


 電話の声が本当の声色でないことくらい、俺だって知っている。似た音を出しているだけだなんて、とっくの昔に知っている。そんな合成音声なんて今どき簡単に作れるのだと、冷静になれば疑いもある。

 それでも、あまりに懐かしくて。もう二度と聞くことはないかもしれないと思っていた、一番聞き慣れた落ち着く声に涙が出そうになった。

 相変わらず芝居がかっていて、回りくどくて古臭い。小さい頃からいつも守ってくれた、すごく変わっている俺の兄貴。間違いなく彼の話し方だ。じわじわと、安心感が広がっていく。


「う、うん……兄こそ……大丈夫なのか?」

「ああ、兄くんは大丈夫だとも。お前の周囲の人物は皆無事だ。おや、なんだか泣きそうな声をしているな。あ、今の無しにしてFFXジェクトの名台詞で言い直しても構わんか?」


 久しぶりに話すことがそれかよ。思わずため息が出る。一人暮らししている今となっては、六日くらい家族と話さないなんて普通のことなのかもしれないけど。


「現状でそれをやられると変な勘繰りしちゃうからやめろよ。究極召喚すな」

「ああ、そういえばこう言うのだったな。今日は2020年の9月2日。この電話は8月31日の涼宮ハルヒ新刊告知に興奮冷めやらぬ世界からお届けする。お前の予言通りに」


 ──は?

 俺は間の抜けた声が出た。俺がそっちの世界を出たのは、詳細な記憶は思い出せないがそれでも2月頭くらいだったはずだ。たったの六日でそれだけの時間が向こうでは進んでいるというのか?

 それに、涼宮ハルヒの直感が発売するだのと騒いだのは兄貴の方だ。そうだ、俺はこっちに来る前からそれを知っていた。だからすっかり兄貴はもう買ったものだと思っていたのに。

 いや、待て。固定観念を捨てろ。そうじゃない。きっと、そういうことじゃないんだ。


「……えと、兄は……過去にも、一度俺を名乗る人間から電話を受けたことがあるんだな……?」


 そこで涼宮ハルヒの新刊が出ることを知らされた。そんな電話をかけられるのは俺くらいだろう。きっと、その時にバイト先から鞄を回収することを頼んだはずだ。


「ふむ。意外にも冷静だな。一度ではないとだけ言っておこう。詳細を語らないからと兄を嫌いになるなよ。お前の未来を書き換えることを俺は良しとしない。未来だって創れるはずだって信じてるんだよ」

「それに賛成だ! ついノッてしまったが、なんでさっきからゲームのラスト付近ばっかり言うんだよ。えーと、未来を書き換えるって発言が出るなら、俺が朝比奈さんに協力していることも知っているのか?」

「やれやれ。お前が消息を絶ったのは2020年2月9日。半年以上も妹に会えなかったお兄ちゃんに少しは付き合ってやろうという気が起きんのか? なるほどな、それもまたツンデレというわけか。これだからお前は期待を裏切らない。まったく、妹は最高だぜ!!」


 くっ、相変わらず話が進まない人だ。いつまでも電話が繋がっているとは思えないのに。もしくは、俺の質問を躱すために話を逸らしているのだろうか。俺の言動で朝倉や古泉が未来を予測しているように、俺が兄の発言から予測してしまってはまずいってことなのかもしれない。

 つまり、俺がそれを知れば事態が起きないよう画策する出来事でも、状況に流されて当事者にならないといけない場合もあるんだろうか。逸脱事項を修正するタイミングをワンテンポずらす、というような場面が。 言えない、ということだけでヒントになる、俺にも覚えがないわけじゃない。古泉もそんなようなことを言っていた。あいつもあいつで、先読みの結果で俺に言えないなにかを掴んだのかもしれない。


「誰が小学生だ、誰が。頼むから真面目な話をさせてくれ。それで、要するに兄は俺が今どこにいるのかを知っているんだな。そして、そちらから電話が出来るタイミングも知っている。俺の指示を受けて鞄を寄こしたこともあるくらいだ。つか、なんだよあの羊羹。食えないらしいぞ。長門にやったんだからな」


 画面の向こうで満足そうな男のため息が聞こえる。最初から長門に食べさせてやりたくて送ったな、さては。


「じゃなくて。この世界とそっちの世界は同時進行的に未来に進んでいる中で電話が繋がるわけではないんだな? 未来の俺が今より過去のあんたに電話をすることもあるってことだ。だから日付を伝えた。俺がこっちでどんな役割なのかも大抵はわかっている。そして、多分聞いても答えてくれないこともある。きっと兄が俺を予知能力だなんだと言っていたのはこれらのことが関係するはずだ」

「うむ。偉いぞ。相も変わらずハルヒ関連ではピカッと光ってシャキッと貫通。動き出したらとまらない。冴えわたるな、鈍妹よ」

「兄、今の会話に答えられない質問があるんだな? あとドンマイって言うな」


 都合が悪いとオタク用語ではぐらかすってわけか。


「いや、久しぶりにお前と話せて嬉しいのだよ。しかし、ずいぶんとセリフが長いのだな。古泉一樹の影響か? 妹にそんな属性がつくのはちょっとした恐怖ですよ」

「べ、別に古泉の影響なんて受けてないんだからね! いやテンプレ的に答えただけでマジで受けてない」

「こ~れ~は恋だ! 月より~青い! 花より~あ~か~る~い!」


 オーバーブロットしそうなんだが。兄貴はやけに陽気な声で話している。この後に何かいい予定でもあるんだろうか。俺はふと横にいる長門を見る。この部屋に長門がいるから電話ができるってことなんだろうか。でも、長門は異世界をどうこうみたいなのは出来ないんだよな。


「それで兄、こっちとそっちで電話が出来る条件はなんなんだ? 答えられないなら歌い続けてもいいけど」

「ああ、そのことか。──月だ。そちらとこちらが共に満月の日は繋がりやすくなる。お前も今俺の電話を受けたその場所に、なにか思い当たる節があるんじゃないか? アイデアでどうぞ。目星でもいいぞ」


 言われて部室を見渡す。目星なんて振る必要はない。月、と言われて目ぼしいものなんて一つだけだ。

 市内探索で発見した月の石。ウニっぽいやつの土台部分の平たい石が、ガラスケースの中で淡く発光している。なるほど、やはり重要なアイテムだったわけだ。


「ほー。こっちにタイミングを計る方法があるのはわかった。でも、そっちにはそんなもんないだろ」

「いや、あるぞ。お前が机に大事にしまっていたシーグラスがあっただろう。このすばのアクアの頭に着いているような、球体のあれだ。あれが今ちょうど光っている」

「あれってなんか変なものだったの!?」


 新事実を怒涛のように浴びせないでくれ。この月の石には、俺の世界に渡航したら生態系をめちゃくちゃにする生物が付着していたんだぞ。俺が海で拾ったと思っていたシーグラスがそんなおかしなものだったとしたら堪らない。マジで、俺が知らなかっただけで元の世界は狂っていたんだろうか。しかも、兄貴はそのことに気づいていながら今まで平然と暮らしていたっていうのか? こいつやっぱおかしいぞ。

 ん? そういえば、じゃあどうして兄貴はさっき本当に繋がった、みたいなことを言っていたんだ? もしかしなくても、過去の兄貴にはこちらから電話したのか?


「ふふ、おかしな話だな。シーグラスのことを教えたのはお前だというのに。さて、そう長く通話もできまい。約束を守ってもらうぞ、妹者よ」


 そうか。今話してる内容って、将来的に過去の兄貴に電話するときに言わないといけない内容なんだよな。ちゃんと覚えておかないといけない。俺が兄貴に言ったんだ。この先の未来にいる俺が、もしもあの時知っていたら回避してしまったかもしれないから伝えないでくれ、というようなことも。

 そうなると、俺はそれまでこっちにいるのが確定ってことだ。逆に言えば、まだ兄に電話していないうちに変なことに巻き込まれて死んだら終わりって話にもなる。頭がこんがらがりそうだ。

 兄貴の体感では半年以上連絡が取れなかったらしい。満月の日なら当たり前に毎月一回あるが、時間の流れが違うなら本当に頻繁なやり取りはできないんだろう。


「約束ってなんだ?」

「忘れたとは言わせない、と言いたいところだが今のお前は知らないのだろうしな。ともかくスピーカーにして、ビデオ通話に切り替えろ。長門有希がそこにいるのはわかっている」


 俺は頭にハテナマークを浮かべながら許可を取ると、ビデオ通話のマークをタップして、長門に持たせてやる。長門は俺の説明を聞きながらiPhoneを受け取ると、両手で顔の前に持ちあげた。

 やっぱり長門と話せる権利で兄貴を釣っていたんだな、俺は。本当に申し訳ない、長門。キショいオタクと喋るなんてさぞかし苦痛だろう。すぐ切っていいからな。諸刃の剣だこれ。


「長門、いいか? ここで通話が切れる。あまりに不快だと思ったら切っていいぞ。付き合ってやることはないから」

「そう」

「告。俺×長門アンチを検知しました」


 ビデオ通話が開始される。画面の向こうに映し出された眼鏡の男の、なんと幸せそうなことか。だらしなく緩み切った笑顔にやれやれ、とため息が出る。

 久しぶりに見た兄貴のツラがこんなにふにゃふにゃとしているとは。俺の前ではいつもキリッみたいな顔してるくせに。まあ推しとビデオ通話なんて、まともでいられるわけがないのはわかるけどね。俺の顔も見たいとは思わないんですかね、妹不幸者め。


「おお……長門有希……! 長門有希ではないか……!」

「そう。長門有希」


 長門はおもむろに片手を挙げる。そうすると、真っ赤な顔をして兄貴もおずおずと手を挙げる。何を見せられてるんだとお思いのことだろう。俺もまったく同じことを思っている。推しと会話してテンパっている兄貴なんて見たくなかったな。大丈夫だろうかこの人、変なこと言わないと良いけど。


「お、オゥフ……長門……っく、何も言葉が出て来ん……! ただ愛しさしかここにはない……っ、全知すぎる……」

「全知ではない。有機生命体にとってそう見えるだけ」

「かわいさ権限全譲渡……え? 天使? 尊い……無理……つらい……推せる……いつも応援してます……」


 長門は俺を見て首を傾げた。兄はさめざめと泣いている。通話切っていいぞ。俺もきつくなってきたところだ。


「面白い人」

「谷口と同レベルか……あまり俺を失望させるなよ、兄」

「妹がキョンとだけはうまく話せない噂があるので調べてみました。距離間は? 会話の回数は? 声の大きさは? 調べてみたけどよくわかりませんでした。キョンとだけはうまく話せない可能性があることがわかりました。いかがでしたか?」

「ばっ、は!? 余裕だし! 舐めんなよ? 超フツーに話してるし! ズッ友だし! BFだかんね!」

「お前つまんない嘘つくね」


 遊んでる場合じゃない。兄貴に聞きたいことを考えないと。こっちでこれから起きる事件について聞けないなら、やっぱり聞くのは向こうの世界のことだ。勝手に脳みそが捨ててしまうから、覚えていないことも多いしな。気になっていたのは周囲の安否確認だ。

 兄貴や俺が元の世界で普通の人間であることの証明──はもう必要ないかな。兄貴が俺を特別視していた理由は、俺が別の世界から電話をかけてくることを知っていたから。そんなとんちきな話をどうやって未来の俺は兄貴に信じさせたかはわからないが、さっきの会話からするにハルヒの新刊発表を予告したんだろうとは思う。

 それから、兄貴が異世界電話を受けられる特別な存在なわけではなくて、あっちのシーグラスとこっちの石が送受信機となって、iPhoneを使って世界をくっつけたりしていることは理解できた。要するに、満月の日という条件下でシーグラスが光っているタイミングでそこにいる人間と電話ができるってわけなのだろう。

 いや、その受信機については聞いておくべきか。いくらハルヒでも向こうの世界のシーグラスにまで情報操作を及ぼせるかは微妙だ。それと、ああ、そうだ。三年前。三年前の出来事について聞かないと。


「はぁ……長門有希……シャンプー……何使ってる……?」

「フェニックス。ハーブリンスインシャンプー」

「はい調べた。存在しました。買いました。ありがとうございます。解釈一致」

「そう」

「気持ち悪いなあんた本当に! てか、そのままでもいいけど質問に答えてくれる? まず、そのシーグラスは俺がどうやって持ってきたものか覚えてるか? どこの海に遊びに行った時に拾ったとか、何年前とか。俺、こっちにきてからはそっちの記憶が消え気味でさ」

「ほう、敏いな我が妹よ。それに関しては禁則事項だ」

「言えないってことはなにかあるな……わかったよ。じゃあ次だ。俺がいなくなる三年前、なにかあったか? 俺が思い当たらない以上、一番身近な兄に三年前のことを聞くのが妥当なはずだ」


 あの時長門は「二分四十一秒前」「あなたがこちらに干渉してきた。これは三年前と同じ時間。一秒の誤差もない」と言っていた。俺の世界では2020年の2月だったが、こっちは2006年の5月だった。つまりこちらの2003年の5月に、俺からこっちに干渉していたんだ。こちらに来て六日であちらに半年以上の経過があるなら、同じように時間が進んでいないのは明白だ。だから誤差の計算をしても意味はなく、元の世界の2017年2月にあったことってわけでもないんだろう。俺も二、三か月なんて誤差だと思うしな。


「涼宮ハルヒが英語の教科書に載ったのは2017年の4月のことか」


 本当に二カ月の誤差か。


「あんなに興味がなかったのに今更聞きたがるとはな。いや、あの頃はほとんど家から出られないほどに体調を崩していたから無理もあるまい。あの日のお前は……いや、この話は今はいいか。教科書ならばきちんと手元に用意してあるぞ。見せてやろう、兄のこの尊顔よりも気になると言うのならばな」

「はよしろ」


 兄貴が肩を竦めて広げた教科書は、俺は初めて目にしたものだ。英語の教科書には挿絵と共に、一巻冒頭部分が収録されているらしい。初期のいじ絵のキョンくんって前髪が長くてかわいいよな。いや、そこじゃなくて、俺は文字列の並びに強引に割り込んだような文言が気にかかった。


「気づいたか」

「なんだ? 誤植にしても酷いな。大文字の単語が入り込んでる。誰でも目に付くよ」


 それはハルヒの自己紹介のセリフ部分だ。I’m Haruhi Suzumiya, from East junior high. First off, I’m not interested in ordinary people. But if any of you are aliens, time-travelers or espers, please come see me. ESTOYAQUI.That is all. な? 目に付くだろ?


「これ何語?」

「正しくはEstoy Aquí、と区切る。スペイン語だ。意味はそうだな……こう訳すのが良かろう。“私はここにいる”とな。これが誤植か粋な計らいかはわからん。何故ならこの単語が印刷されているのは世界中に俺の持つこの一冊だけだからだ。どこを調べてもそんな噂はヒットしなかった。この俺がだぞ?」


 どの俺がだよ。まあ、兄貴の検索スキルは俺より高いんだけどさ。それにしても、スペイン語か。それと月の石。たしかに、向こうにも条件は揃っていると言えるのかもしれない。しかし、教科書に。向こうの本にか。そんなことが可能なんだろうか。


「だから俺は、驚いてはいないのだ。きっとお前はそちら側に行ってしまう日がくるのだろうと思っていた。まるでかぐや姫のように」

「なぜ、異世界召喚されるのが自分じゃなく俺だと思った? 三年より前に電話がかかってきたのか?」

「はは。そこは疑う余地がない。この挿絵、黒板のところを見てみろ」


 ハルヒがあのとんでもない自己紹介をする場面。その挿絵。黒板には日直の名前が書かれている。始業式に日直の名前があることはたしかに不思議だ、が……いや、いやいやこんなあからさまなことがあるわけ。いくらなんでも、向こうの世界にまで影響を……、及ぼしたのか。本当に、本当に三年前に俺のいた世界に干渉したっていうのか。

 めちゃくちゃだぞ、涼宮ハルヒ……!

 そこに書かれた日直の名前は「涼宮ハルヒ」「芦川ヒカリ」。こんなもんが出回るわけはない。いや、兄貴の用意したコラ画像にしか思えない。


「三年前のハルヒが俺の名前を知ってるわけがない」

「だろう? こんなに露骨な呼び出しもないではないか。日直に自分とお前の名前を書いてあるのだぞ? 涼宮ハルヒはお前に言ったのだ。自分はここにいると。なぜスペイン語なのかは知らんがな。案外お前の考えた造語に合わせてくれたのではないか? 昔、家の庭や秘密基地に書いていたろう」

「どうでもいいことまで覚えているよな、あんた」


 ──ああ、届いていた。届いていたんだ。

 俺の作ったダサイ造語のメッセージが、月を通って、たしかにハルヒに届いていた。会いに行くよ、なんて言葉に待ち合わせ場所を確認するみたいに、あいつは俺の世界にこんなめちゃくちゃなことをしてまで、返事をくれていた。

 俺は三年も前に、ハルヒに呼んでもらっていたんだ。教科書のように、入学式の日には間に合わなかった。でも、お前も一カ月くらい誤差だと思ったのかもな。

 実感が湧く度に思う。涼宮ハルヒが俺を選んでくれたんだという事実が、こんなにも幸福だと。何者にもなれないと思っていた俺を、ハルヒはこの世界に強引に呼びつけてくれた。


「記憶したか?」


 兄は側頭部を指でとんとん、と叩く。


「ああ……間違いなく。俄然やる気が出てくる」


 元より規定を守る気はあった。けれど、やっぱりハルヒが俺にしてくれたことを考えると、より一層気が引き締まる。


「なんだ? 血気盛んだな。お前がそんなに燃えているのを、俺は初めて見るような気がするよ」

「今日、朝倉とキョンの間に割り込む予定なんだ」

「そうか……無理はするなよ、とお前に言っても無駄だろうが。それから、これは独り言なのだが……あの時は、行くなと言って悪かった。そっちの誰かにも謝っておいてくれ。怒鳴りつけてしまったからな。きっとお前は行くべくしてそちらにいるのだ」


 あの時、とはなんのことだろうか。


「周囲には一人暮らしだなんだと話をつけてある。みんな、心配はしているようだが深くは聞いてこない。俺も……ひどく寂しいがまあ、お前も兄離れを経験するのも悪くなかろうよ。SOS団とうまくやるのだぞ。世界を楽しめ、たくさん笑って、幸せになるといい……っと、点滅している。切れるぞ。長門よ、妹を頼んだ」

「わかった」


 長門は手を挙げる。


「はは、ずいぶんフランクな長門有希だな。それがお前の編み上げていくハルヒの世界なのだろうよ」

「え? もう終わり? あ、兄貴、またな……!」

「……ああ、きっとお前が話すのは過去の俺だが。それでも……達者でな。ヒカリ。すべてはシュタインズ・ゲートの選択のままに。エル・プサイ・コングルゥ」


 大口を開けて笑う兄貴が一瞬寂しそうに眉を下げて、そうして通話は終了した。少しだけ胸が痛くて、もしかして兄貴はこれが最後の会話だと思っているのかもしれなかった。でも、俺はいつかあのオブジェを持って帰るんだよ。だから、心配しないで待っていてくれ。土産話も用意しておくからさ。

 ああ。だからこそ、とにかく今日を無事に終えないとな。この先にやらなきゃいけないことがあるのもよくわかった。俺は、朝倉に負けるわけにはいかない。


 俺は長門に親指を立てて、無人の保健室で時間を潰して二限目に合わせてクラスに戻った。長門の言う通り朝倉の結界は長くは持たないのか、既に教室は普通の場所だった。朝のトラウマレベルのトラップなんて俺の妄想かと思ってしまうくらいに。そんじょそこらの体験型ホラーなんかじゃ、俺はもうぴくりともしないかもな。


「芦川くん、大丈夫だった?」


 帰ってすぐ、朝倉が心配そうな顔で俺を見上げた。まったく、しらじらしい。お前のせいでこっちは、朝のキョンとハルヒの会話を見そびれた。しかも、そこには朝倉も参入したはずなのだ。俺が来たことによってその会話に変化が生じていなかったか、俺には確認できなかった。おかげで兄貴と電話はできたけどさ。


「いやー、もう大丈夫。ほんと、懲りたよ」

「そう。なんともなくて良かったわ」


 ほっと溜息を吐くなんていかにも女子らしい。まったく面の皮が分厚いな。朝倉は相変わらずの無臭で、いや、あれ? 俺は思わず朝倉の手を掴んで彼女の頭に顔を近づける。


「なんかいい匂いするな」

「……もう、びっくりした。シャンプーのこと?」

「これ、マシェリ?」

「そうよ。よくわかったわね。あなたも同じのを使ってた?」


 そんな情報まで取ってやがったか。たしかに元の世界で使ってたこともあった。長門はわざわざシャンプーを買っていたが、こいつはどうなんだろう。ボウリングの時に盗んでいた情報なら、昨日も一昨日も無臭ってことはないだろう。大舞台だからお洒落したみたいな感情が朝倉にあるとは思えないけど、キョンを呼び出すのに人間らしさを演出したいんだろうか。


「ああ。前ね。いいよな、俺も好きだよ。それ」

「そっか。そう言ってもらえると嬉しい」


 二人して愛想笑いを張り付けて会話を終える。俺は彼女の手を離して自分の席に向かい、なにか言いたげな谷口を無視した。だから違うっつの。

 斜め後ろの席、机から生えてきた新種の生命体みたいにぐでんと見上げてくるハルヒにしゃがんで目線を合わせる。


「保健室行く? ちょっと寝たらすっきりしたよ」

「あんたも寝不足? あたしもなのよね。蒸し暑いし、なんにも面白いことないし」

「涼宮にはオブジェじゃ足りなかったか」

「ぜんっぜん足りないわよ。どっちかって言うと物よりは事件なのよね。なにかパーッと起きてくんないかしら」

「冷えピタならあるから、熱いのはどうにかできるけど」

「いいもの持ってるじゃない。貼って」


 俺はハルヒの前髪を捲っておでこに冷えピタを一枚張る。襟足の髪を避けて、首の後ろにも貼った。ハルヒは瞼を閉じて長い溜息を吐く。絶不調には見えないが、いつも元気な彼女がちょっとでも弱っていると、ものすごく具合が悪そうに見えてしまう。


「食欲も出ないのよね~」

「フルーツだけでも食べたら? 今日お弁当にパイナップルを冷やして持ってきたんだけど、食べる?」

「ん」


 ハルヒは口を開けてそのまま目を閉じている。なんだかかわいいな。俺は保冷剤バッグに入れていたタッパを取り出して、ピックでパイナップルを一かけら刺すと、いそいそと彼女の口に運ぶ。

 もぐもぐ、ごっくん。また一つ運ぶ。俺の手から果物を食べるハルヒは、なんだか小鳥かなにかのようで愛らしい。


「うー、冷たくておいしい」

「それは良かった」

「古泉くんにもいつもこうやって食べさせてあげてるの?」

「するわけないだろ……やべ、ガチで引いてしまった。ほら、ハルヒどんどん食べな」

「古泉くんにもしてあげたら喜ぶのに」


 おいおい、今度はまた古泉と俺の固定カプ厨に逆戻りかよ。まったく忙しないやつだ。昨日の騒ぎに懲りて考えを改めたんだろうか。それとも俺の態度から何か感じ取ったか? いずれにせよ古泉のファンサが加速しそうで厄介だな。


「いや、困ると思うけど。はい、あーんして、あーん」

「そんなにいらない。あたしにばっか食べさせるんじゃないわよ。キョンも貰ったら? 一個だけならいいわよ」

「なぜ涼宮がこいつの食い物の管理をしているんだ」

「は、ひ……?」


 振り向いたキョンを見て、俺はパイナップルを持つ手を空中に上げたまま硬直してしまった。そ、それは……それは早いんじゃないでしょうか、ハルヒさん。いくら腹を割って話せるようになってきたとはいえ、友人としてのランクがやや上がったとはいえ、あーんはさすがに早くないですか!? キョンくんはド天然だから平気でホットドッグ食べなとかしてくるけど、こっちからというのはハードルが違うんですよ。

 キョンはじっと俺を見た後、目を逸らして口をもごつかせると、手をあげて断るように体を反らした。


「い、いらん。もうすぐ二限も始まるしな」


 ハルヒは露骨に嫌そうに溜息を吐いた。単純に高校生であーんなんて恥ずかしいんだろうし俺も恥ずかしいが、はて、彼にとってはツチノコを道端で探すのとどっちが恥ずかしいんだろうな。俺はツチノコ探しの方が気楽だが。

 うーむ。ハルヒがこんなに面白くなさそうなのも、キョンと距離があくのも問題だな。もっとぐいぐい行って仲良しアピールをすべきだろうか。俺もあからさまに嫌がられてちょっと傷ついたし、意趣返しだ。

 パイナップルの下に手を添えて、ピックを持つ手を彼の方に寄せる。


「まあまあそう言わず。はいキョンくん。あーん。ほら口開けて」

「おい、だから俺はいらねえって。なんなんだお前は。今日はやたらにテンションが高いな」


 両肩を掴まれて拒絶された。照れてるキョンもかわいいけど、これ以上やって嫌われたくはないのでやめよう。渋々。ちぇ。


「はー……あんたほんとノリ悪いわよね。谷口だったら口開けてたわよ」

「アホの谷口と一緒にするな。大体これに一体なんの意味があるって言うんだよ」

「意味なんて自分で考えなさいよ」

「面倒なやつだな。それを食えば満足なのか?」


 キョンが嫌々と口を開ける。彼こそ妙に素直だ。もしかして、ハルヒの機嫌を取って俺の負担を減らしてくれているのか? もしくは、キョンもそろそろハルヒのお願いを聞く良さに目覚めたんだろうか。それは喜ばしいが、なんで目を閉じているんだ、キョンくんのひとたらし! くうう、かわいいな。悶えているその隙に、ハルヒが俺の腕を引っ張ってパイナップルを食べてしまう。


「ん? どうした? 早くしろ」


 痺れを切らした彼が瞼を開くと、そこにはパイナップルはない。なんだっつーんだ、という顔のキョン。そりゃそうだ。わかるよ、わかる。あーん待ちのキョン、心の推しブロマイドフォルダに入れさせて頂きました。ごちそうさまです。

 ハルヒは自分とキョンで同じ体験をしたかったのだろうか。はたまた、俺とキョンとの三人でトライアングル仲良しタイムを過ごしたかったのか。それはわからない。とにかく間に合わなかったのだ。ハルヒ火山の大噴火には。


「アホはあんたよ。アホキョン。いいわよ、一生ヒカリの作ったもの食うな」

「パイナップルは作ってないだろ」

「うっさい!」


 一言余計だね。ハルヒは机につっ伏して話しかけるなオーラを教室中に振りまくと、そのまま眠り始めてしまう。肩を竦めるキョン。俺はと言うと「あーん」なんて一大イベントを回避出来て良かったのか、残念だったのか、ドキドキしすぎて全然わからない。


 結局、ハルヒのやつはかったるいことを理由に、三限の最中に人のスポドリを奪い取って早退してしまった。俺は帰ろうとするハルヒを勿論必死に止めた。放課後には、部室で朝比奈さんの写真を消すか消さないかのイベントがハルヒとキョンにはあるはずだった。その規定がすっ飛んで、修正しようにもあれ以上引き留めることもできず、俺はいよいよ冷や汗どころの騒ぎじゃなくなってきた。

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