第7話
おいでと呼ぶ声がして、その花が咲いているのに気づいたのは、ほんの一時前のこと。シェレネは森の中にいた。
ジンの幕屋を飛び出そうとして、シェレネが待ち受けていた兵士たちに捕らえられたとたん、花の雨が始まった。
初めは、風に運ばれてやってきた一片の綿毛から。
見る間に根付いた株は、陣中のそこかしこで蔓を延べ、白い花を咲かせては、新しい種を吹いた。
花々は、音のない声で口々に叫んだ。森へ、森へ、シェレネ!
シェレネを殺めようとした兵士たちは、皆、蔓にとりつかれて悲鳴をあげた。
やはり自分は、悪霊の娘だったのだと、シェレネは大木の根に腰をおろし、疲れ切った脚を投げ出して、めそめそと泣き続けていた。
呼び声に誘われるまま、森まで走り通して、裸足のままの足は傷だらけ、やっとの思いで着込んだ夜着も、泥に汚れて白さを失っている。
あたりには、月明かりの届かぬ森の闇がたれ込め、それを仄かな燐光で照らす、白い蔓草の群生が生い茂っていた。
あたかも、そこで待ち受けていた者がシェレネのために用意した、白い絨毯のように。
長い衣を引いて、花の中に立っている金の髪の男は、まるで美しい夢の中の、幻のように見えた。
「なぜ泣くのだね、シェレネ」
シェレネが今まで見たことのない模様の刺繍が入った、長い上着の裾を引いて、異民族の男は、シェレネのそばに静かに歩み寄り、手に持っていた大輪の白い花を、娘の髪に挿した。
シェレネ、シェレネ、愛しいお前、と、花が耳元で囁いたような気がした。それも、空耳だったのかもしれないが。
「あなたは、森の悪霊?」
見上げたシェレネの目にうつったのは、陣中に死体で転がされている敵の兵たちと同じように、華やかに着飾って、長い金の髪を背に垂らしてはいたが、死んではいない、壮年の男の優雅な立ち姿だった。
「私は、かつてお前の母を愛した者だ」
微笑みながら、森の男はシェレネと同じ言葉で話した。
長い白い指が、そっと自分の頬に触れるまで、シェレネは泣きながら、金色の睫のある緑の瞳を見上げて、じっとしていた。
「あのひとを探したが、どこにもいない」
「母さんは死にました」
噛みつくように、シェレネは答えた。
「もう七日も前よ。どうしてもっと早く、会いに来てくれなかったの」
今まで口に出したこともない恨み言のせいで、シェレネは胸がつまり、激しく嗚咽した。
「母さんは、あなたを待ってたのに。ずっとずっと……ずっと待ってたのに!」
耐えて待ち続けて、あとたった七日やそこら、どうして母さんは生きていられなかったの。どうしてもっと早く。どうして……?
そんなことを言ったところで、悲しさが募るだけだ。シェレネは全部の言葉をのみこんで、ただ涙だけを流した。
しゃくりあげる息に震える、シェレネの顔をじっと見つめて、森から母さんを迎えに来た男も、シェレネの心からあふれ出た涙を肩代わりするように、大粒の涙を流した。
「なぜ泣くの……父さん。泣くぐらいなら、どうして、母さんを一緒に連れていってあげなかったの……」
「私の
森の男が瞼を伏せると、きらめく水晶のような大粒の涙がこぼれ、森の地面へと落ちていく。
男の人が泣くなんて。シェレネの体の芯が驚きで動揺した。
彼は涙に抗わず、まるで泉からひとしずくの水がわき出るように、それは自然に頬を伝い落ちるばかりだ。
「森の同族にしか聞こえぬはずの、私の声を聞き、あのひとは私と出会った。なぜ、ともに生きられぬはずがあろう。私はあのひとを、無理強いにでも連れ去るべきだったろうか? シェレネ、私の娘よ、私はあのひとを、不幸にしたのだろうか?」
娘と呼ばれて、シェレネは思わず立ち上がろうとし、力が入らずに地面にへたりこんだ。
この人が、母さんがずっと待っていた父さん。
母さんは捨てられたのじゃない、この人はちゃんと、約束を果たしに来てくれた。
腰を抜かしているシェレネを心配したふうに、森の男は膝を折り、シェレネの肩を静かに抱き寄せた。不思議な異国の
「母さんはずっと、あなたのことを待ってました。不幸じゃなかったわ、父さんのこと愛してたもの」
シェレネには、ただ黙って抱き留められているだけで、この人が、恋人を喪った深い悲しみに沈んでおり、シェレネのことを、愛してくれていることがわかった。
「あのひとの代わりに、お前を連れて帰ろう。
シェレネを抱きしめてくれる、温かな体の背後で、なにかとても巨大なものが、ゆっくりと身じろぎした。
闇の中でも光る、銀色の瞳と見つめ合って、シェレネは全身を凍り付かせた。
昼間、背後を追ってきた悪夢の中の怪物が、ほんのすぐ目の前で、シェレネを見つめている。
発作的に逃げようとするシェレネの体を、森の男が抱き留め、なだめる仕草で、頬を撫でてくる。
森の闇にひそんでいた
月明かりに輝く、銀色の樹の根本に、この世のものとは思えない美しい男の人がいて……と、母さんは夢見るように話していた。
銀色の木。
母さんは恋に目がくらんで、この恐ろしいものを見逃した。同じ世界に棲む相手ではないと、ひと目見れば分かるのに、それでも、母さんはこの男の人と愛し合いたかったのだ。
だけど、母さんはこの人と一緒には行けなかった。森が恐ろしくて。そして、そういう自分を悔いて、残りの一生を過ごした。狂おしく森を見つめて。
その日々の、思い詰めた母の哀れさを想って、シェレネは涙をこらえる息をもらした。
もしも、母さんがまだ生きていたら、今度こそは、この人について行ったろうか。
遠く森を見つめる母の顔を、シェレネは思い出していた。
きっとそうしたに違いないわ。
私なら、ついていく。ついておいでと、たった一言、そう言ってくれたら。どんなに遠い、悪霊の森へでも。
「……私、一緒に行けません。好きな人がいるの。その人の、敵にはなれない。ここに残ります」
「やつらは野蛮で、凶暴だ。シェレネ、お前を殺そうとした。それでも残るというのか」
シェレネを抱きしめて、父さんは静かにそう言った。
「お前には、森の部族の持つ感応力がある。その力があれば、
「いやです。そんな力で、悪霊の仲間になって、あの人を殺したり、殺されたりするくらいなら、今ここで死んだ方がましだわ」
抱きしめる腕を振りほどいて、シェレネはよろめきながら数歩後ずさった。
どすんと何かに背中を押されて、シェレネはふりかえり、夜の森から見つめ返してきた巨大な銀の目に射られ、再びその場にへたりこんだ。
くるり、と大きな瞳を瞬かせ、一つ目の蛇が間近にシェレネを見下ろしている。
「お前の娘は恋におちたのだよ、シャントリオン」
胸を打つ不思議な声で、蛇が口をきいた。悪霊の声にふさわしく、その言葉は音によってでなく、シェレネの心に直接響いてくる別の何かだった。
「無理に連れ帰っても、この娘は涙にくれて、あたりに嘆きをふりまくだろうよ。シェレネ、シェレネよ、愛しいお前は、いま私のことを悪霊と呼んだが、私はお前の心の切ない涙を知っているよ」
蛇は瞼を伏せると、地に吸い込まれるように首を垂れ、森の土を割ってその中に根を張った。
銀色だった蛇の鱗が、見る間に深い茶の木目を帯び、枝葉を萌えさせる。枝からは蔓草に似た花の枝が延び、辺り一面に咲くのと同じ、白く儚い花を次々に開かせた。
シェレネはただ呆然と、それを見守った。
花たちが、ため息をつくようにほのかな燐光を放つと、そこから幽かな声が聞こえた。
シェレネ、と愛しいものの声が、名を呼んだ。
「ジン様」
驚いて、シェレネは花を見つめた。確かに、ジンの声のような気がした。
花を押しのけて、その合間から、
「私がまいた種が、芽をふいて、お前の求めるものを見つけた。シェレネ、お前が欲しいのは、この男。連れにいこうか? 私は、お前の
「連れ去るって……」
動揺して、シェレネは口ごもった。
「別れがつらいのなら、連れてゆけばよい。森へ。離れたくないのだろう、シェレネ」
大きな目を何度も瞬かせ、
「私はお前の心を、この男に伝えた。それに応えて、やってくる」
「ジン様になにをしたの」
「なにも。ただ、シェレネが離れたくない願っている心を、教えてやっただけ。──ジン様。離れたくない。離れたくない。愛を、もっと抱き合って愛を」
つるりと濡れた
「ユースフシープ」
重く響く声で、シェレネの背後にいた
そちらへ目をやり、
「どうしてお前はそんな勝手なことを?」
穏やかだが、断固として叱りつける口調で、父さんは巨大な
「なぜ怒るのだ、シャントリオン。怖い、怒らないで、シェレネがそう望んだからだよ、お前の愛しい娘が望んだことだよ」
性急な、言い訳する言葉と焦りの気持ちが、見上げるような
「シェレネ」
父さんの手が、座り込んだままのシェレネの肩に触れた。
「自覚はなくとも、お前には感応力がある。
「名前がついているのですか……人殺しの悪霊なのに」
しゅんとしょげたように黙り込んでいる巨大な
「呼んでやってくれないか。ユースフシープは海の者たちを殺さない。私が愛した女の血族だから」
「……ユースフシープ」
シェレネが慣れない響きのある名前で呼びかけると、目の高さから少し逃れた上の枝の奥に、ちろりと銀色の目が開いた。様子をうかがうように、じっと
「ユースフシープ。ジン様を呼ぶのはやめて。森へは一緒にいけないの」
「なぜ」
「シェレネが一緒に行かないと、シャントリオンは哀しむ。だからシェレネを連れて行く。でもシェレネはあの男がいないと、森へは行かない。だから、あの男を連れて行く。それが、なぜいけないのだ?」
「ユースフシープ、お前が誘いだした男は、海の者たちの族長の子息だよ。連れ去れば大変なことになる。私たちの使命も果たせなくなる。お前はそれでよいのか」
「それは困る」
主人に
シェレネは、ほっとした。その裏の心で寂しくもあった。
どんなところか分からない恐ろしい森の中でも、ジンと二人で過ごせるなら楽園だと思えたからだ。しかし、そんな心を、無邪気なユースフシープに叶えられては困る。
シェレネは、つとめて何も考えないようにした。
「使命って、なにかお役目があって、ここへ?」
「ああ、そう。私は
振り返って見上げたシェレネは、頷く父さんの強ばった表情と出会った。
「わぼく」
シェレネが初めて聞く言葉だった。
「戦いをやめるのだ」
説明された意味は、しばらく噛みしめないと、シェレネには理解ができなかった。
戦いをやめる。千年も昔から戦っているという、この戦が、終わる。
「うそ」
シェレネの口を最初に突いて出たのは、否定の言葉だった。
「本当になるかどうかは、まだ分からない。長年殺し合ってきた者どうしが、そう易々とお互いへの憎悪を捨てられるものかどうか。しかし私は族長よりの命をうけて、
シェレネを立たせて、父さんは自分が身につけていた上着を羽織らせてくれた。裾を引きずる刺繍入りの布地は繊細で、美しいものだった。
「シェレネ、私はお前を、戦いによって愛する者と引き裂かれる運命にはしない」
「父さん……」
「涙を拭いて、お前の血にふさわしい勇気を持ちなさい。私の名を、お前に教えよう。お前の母と出会った時には、私は、あの人に、真の名を名乗ることができなかった。だからその代わりに」
白い花を飾った耳元に唇を寄せ、森からやってきた男はひそかな囁く声で、シェレネに名乗った。
私の名は、シャントリオン・ヴィラ・エントゥリオ。
森の族長シャンタル・メイヨウの息子。
東の森の精霊樹ユースフシープの契約者で、かの地の支配者だ。
言われた事の意味を、シェレネはぽかんと虚ろな表情のまま考えた。
最初に感じたのは、ああ、もし母さんがそれを知っていたら、どんなに自慢だったろうかということだった。
母さんが愛し合った、銀の木の根本で待っていた相手は、森の王族だったのだ。
「お前は、我々が愛し合うこともできるという証」
緑色の瞳で、父さんはどこか遠く、別の時の中にいる人を見ている目をした。
「愚かしく憎しみ合う時代を終わらせなければ……」
自らに言い聞かせるように呟くシャントリオンの気をひこうと、守護生物ユースフシープが大きな目玉を三つも並べて、枝の合間から突きだしてきた。
「大変だ、シャントリオン」
「なんなのだ、騒々しい。私は娘と大切な話をしているのだよ」
きらめく蛇の躯で、守護生物は這いだしてきた。
「和睦の相談をする相手が、いなくなってはまずいだろうか」
鎌首をもたげる頭のひとつひとつが、声を合わせて問いかけてくる。
「当然だ」
顔をしかめて、シャントリオンは答えた。蛇たちはお互いと顔を見交わした。その滑稽な様子に、シェレネは自分の涙顔に笑みが浮かぶのを感じた。
「シェレネが好きな男が、森に入るのを、メラフブー達に見つかった。メラフブーの心は殺意でいっぱいだ、和睦を好まず、一戦挑まんと息巻いている」
「メラフブー?」
シェレネが訊ねると、シャントリオンは重いため息をもらしてから、振り向いて答えた。
「この一帯の森を支配する精霊樹だよ。あれの
「シャントリオン、私はメラフブーとは戦いたくない。私より強いかもしれないもの」
「でも、あなたのせいでジン様は森へ入ったのよ!」
「そう。シェレネの言うとおりだ。でもメラフブーは私より長生きで、私より賢い。戦って、負けた
素直に恐怖を告白するユースフシープの話を聞いていると、シェレネには、この巨大な生き物が可哀想に思えた。悪霊などではない。乗り手を失えば森へ逃げ帰るというのも、戦いを好む性質が、この巨体の中に無いせいなのかもしれない。
「でも、シャントリオンが戦うのなら、私も戦う」
主人に目を向けて、守護生物ユースフシープは従順そうに告げた。父さんは、ほんの少しの間、考え込む様子を見せてから、ユースフシープに歩み寄り、蛇の躯を静かに撫でた。
「とにかく行って、従姉殿を説得せねば。私を乗せていっておくれユースフシープ」
父さんは言って、両腕を
銀の蛇が、それに応えるように父さんの体を巻き取り、木々の梢を揺らす高みまで連れ去ってしまった。
シェレネは花の中に立ち上がって、心細くそれを見上げた。
「父さん……待って父さん、私はどうすればいいの?」
ユースフシープの中に紛れて、父さんの姿はもう見えなかった。地響きを立てて、
舞い散る花のロマンス (カルテット) 椎堂かおる @zero
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