第1話 出会いと日々


     1


 初めて世界を見た時、世界は汚れて見えた。


     ・・・・・


 目が覚めた。いつもと違う冷たい床にいるようなきもするが、周りは何も見えない。布が目にあたっている感覚がするから、それで目を塞がれているのだろう。

 そんな中、最初に反応したのが聴覚だ。喧しいほどの声と音に耳を塞ぎたくなったが、残念ながら手と足が錠で繋がれているためできなかった。

 よく分からない場所で目を塞がれ、手足の自由もない。正直、怖くないといえば嘘になるけど、なぜかその時の僕は冷静だった。

 周りの声が煩いせいか、あまり良く聞き取れなかったけど何とかここがどういう場所なのかは分かった。どうやら、ここは店らしい。ただし、獣だけを売る人身売買の店らしいが。店自体をあまりよく知らない僕から見ても、ここが最低の場所なのがよく分かる。

 それでも、何もできずにただボーっとしていると、いきなり首が前にいった。首につけられた錠を、誰かが引っ張っているようだ。

(痛い)

 こちらの意志など関係ないみたいに、引っ張る人はどんどん前に進んでいく。まるで、獣は獣らしくいろ、とでも言わんばかりで気持ち悪かった。

(さすがは、人間様だね)

 人には人の、獣には獣の特有の匂いがする。だからだろう、僕を引っ張っている人がどんな姿なのかはなんとなく予想ができる。

 そうやって見えないのに考え事としながら歩いていたからだろう。何かにぶつかってしまった。そのまま、重力に逆らわず僕は転がる。

「ッ!」

 手足が繋がれているせいか、まともな受け身が取れずに顔面から床にぶつかってしまった。転んだにも関わらず、人間はどんどん前に進んでいく。くい込んだ首輪が痛くてしょうがない。

 うまく息ができないから、立ち上がろうにもうまく力が入らないのだからどうしようもなかった。

(・・・・・・どうせ、買われたらこれより酷いことされるんだし、別にいいや)

 慣れるしかないのだ。

 それが、この腐りきった世界で生きれる唯一の方法なのだから。

 段々と、人の声が近くなる。この時の僕は、まるで他人事のように「ああ、売られるんだな」、としか思わなかった。

「立て」

 前の方から、男の人の声が聞こえてきた。どうやら、それは今まで引っ張っていた人間の声らしい。まあ、それが何だという話だが。

 僕は無言で立ち上がる。その際、やっぱりうまく力が入らなくてゆっくりになってしまった。そのせいで男の舌打ちが耳に響いたが、それすらもどうでもよかった。

「お前は、今から人間のために生きることになる。良かったな。底辺な耳付きが、高貴な人間様のお手つきになるんだから。死にたくなかったら、せいぜいご主人様に尻尾でも振って媚びでも売って生きろよ。・・・・・・恨むなら、自分が耳付きで生まれてきたのと、その種族で生まれたさせた両親を恨むんだな」

「・・・・・・・・・」

 男の嘲笑らしき声が聞こえてくる。

 人間が獣を侮蔑するのは珍しくない。それこそ、日常的にあってもおかしくないレベルで当たり前のことだ。だけど、今この場で人間が獣・・・・・・もとい商品に話しかけるのは珍しい。

 何も答えられない僕はしばらくボーッとしていると、周りからは色々な声が聞こえてきた。獣たちの泣き叫ぶ声、人間たちの歓喜の声。対照的なその声以外に人の声なんて聞こえなかったから、本来ならこの仕事についている人たちは[[rb:商品 > 獣]]に話しかけることなんてしないのだろう。

(じゃあ、なんでこの男の人は僕に話しかけたんだろ?ただ単にイラつきをぶつけたかったような声じゃなかったし・・・・・・同情でもして話しかけたのかな?)

 僕は、どうやら人の心情を読み取るのが苦手らしい。相手がどう思って今の言葉を言ったのか、全く予想すらできない。しかも、今の僕は相手の顔が見えないから声だけで判断しないといけない。読み取るのが苦手な僕には、どうしようもなかった。

「いいか。俺が目隠しを外したら光の中央まで行け。そこで、お前の人生が決まる。良かったな、耳付き」

 また、男の人の声。でも、なぜだろう。その声は、どこか苦しそうだ。

 目隠しが外される。いきなり光が目に刺さったせいか、気持ち悪いぐらい眩しかった。・・・・・・そう、眩しいはずなのだ。なのに、僕の目にはモノクロに見えた。

 僕は言われた通り、光のある方へと足を進める。気まぐれで男の人の顔を見ようと思った。けど、やめた。どうせ、すぐ忘れる相手だ。見たって意味がない。


「――生きろよ」


 ほんの一瞬。誰にも気づかれない程度に、自分の動きが止まったのが分かった。男は小さな声で、けどけして僕には届かないぐらいの声量でそう言ったのだ。どういう意味で言ったのかは知らない。だけど、確かに聞こえたその言葉は、決して人間が獣にかけるべき言葉ではないのは分かった。

 後ろを振り向こうかと思った。振り向いて、なぜその言葉を言ったのか尋ねたかった。けど、僕自身はもう光の中央に立っていて、そんな行動が許されるはずがなかった。

「皆様!大変お待たせしました‼今日一番の目玉商品である獣――変異種で生まれた絶滅危惧種の肉食獣である狼の子供でございます‼見た目も申し分ない子の獣。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ!さあ、誰がこの獣を買い取るのでしょうか。最低金額は一千万から!さあさあ、どうぞ‼」

「三千万!」

「いや、こっちは五千万だ!」

「なら、私は八千万だすわ!」

 どんどん膨れ上がっていく金額の価値は僕には分からないが、人間たちがこぞって僕を買い取ろうとしているのが分かった。それが何だが気持ち悪くて、なにもないはずの胃の中から何かが込み上がっていくような気がした。

「五億!」

 一人の女性が、そう言った。その瞬間、騒がしかったはずの空間が静になる。

「五億!五億以上の方はいませんか⁉」

 司会者の愉快そうな声とは裏腹に、周りは残念そうにざわつき始める。

「・・・・・・またあの人か」

「一番いい商品を買い取っていくもんな」

「どんだけ金持ってんだよ」

 その声を聞いているうちに、自分の置かれてきた立場が明確になったのが分かってきた。

(ああ、決まった)

 僕の生きる道が。全て、あの女性に委ねられることになった。

「では、買い取った方はこちらにどう、ぞ・・・・・・」

 ドサッ、っと人が倒れる音が聞こえてきた。それと同時に、軽快な声で楽しそうな一人の男性の声がマイク越しに聞こえてくる。

「あーあー。これ、聞こえてるよね?ま、いいか。初めまして、俺の名前はラク。こっからは俺が司会を務めてあげるよ」

 まるで、人の全てを喰らうかのような雰囲気が、見えないはずのこちらにまで伝わってくる。――威圧感。その言葉が脳裏をかすめる。そうだ。これは、威圧なのだ。あまりの強さに、頭がうまく働かない。

 けど、まだ僕の方がマシだったらしい。周りが固唾を飲んで黙っていると、一人の女声の金切り声が辺りを染め上げる。それは、先程僕を買おうとした女だった。女は耐えきれなかったみたいで、ドアの方へと駆け出していく。そのまま、外へ逃げ出すのかと思った瞬間――

「・・・・・・へ?」

 女の頭にナニカが貫き、倒れていった。

 誰もが、唖然としている。それは、僕も含まれていた。

(・・・・・・もしかして、あの人間――死んだ?)

 僕の目が間違っていなければ、あの女を貫いたのは『ナイフ』だったはずだ。

 心臓がバクバクして煩い。血が熱くて、立っているのも辛かった。

「あ〜あ。うるさかったから、つい殺しちゃったじゃん。バカな女・・・・・・って言いたいところだけど、どうせここにいる全員死んじゃったんだから、関係ないよね」

 それは、まるで異国の歌を聞いたかのように理解するのに時間がかかってしまった。男は、未だに楽しそうに声を震わせている。

「じゃあ、最後に一言。全員、外に逃げられると思うなよ。お前らは、今から俺のおもちゃなんだから」

 その声を最後に、人の叫び声と肉を切り裂く音が耳につく。気持ち悪すぎて、思わず耳を塞ぎしゃがみ込んでしまった。いつ自分が死ぬのかも分からないのに、その場にしゃがみ込むのは自殺行為に等しい。分かっているのだ。けど、全てを諦めてしまっている僕や他の獣たちにとって、それはある意味救済のようなものだったから。

 耳を塞いでも聞こえる阿鼻叫喚に、思わず悪態をつく。

(うるさいな)

 人間の甲高い声なんて、騒音となんの変わりもない。一人一人が死にたくないと喚くそれは、先程まで獣を買うなんて非道な行為をしていた当然の報いだと思った。

(なんで、そんなにうるさく騒げるんだよ)

「――い」

(さっきまで、自分たちも蹂躙じゅうりん する側だったくせに)

「おい!」

(いざ、自分たちが狩られる側になると命乞いするとか、虫の良すぎる話だろ。なんで、それが分からな――)

「いい加減にしろ‼」

「!」

「何してんだ!さっさと逃げるぞ‼」

「・・・・・・へ?」

 耳を塞いでいた手が急に離れたかと思うと、知らない男の人がものすごい剣幕で怒鳴ってきた。

(・・・・・・ううん。違う。この人、知ってる)

 だって、さっきまで僕を引きずっていた男の人の声と匂いだったから。

 でも、なんでここまで来たのだろうか。必死になって、僕を怒鳴って。意味が分からなすぎて混乱してきた。

(僕に、そんな価値ないのに)

「な、なんで・・・・・・」

「あ?・・・・・・今はそんなことどうでもいいだろ。早く逃げねぇと、俺もお前も仲良く死んでいくんだからな」

 有無を言わさえないその言葉は、まさしく人間特有の言葉遣いだ。けど、この男の人が汗をにじませ、息を切らしてこちらを見ている。この血まみれの中、それでも僕のところに来てくれた男の目には、ある感情――心配の色が渦巻いていた。

(この人は、獣である僕を心配してここまで来た・・・・・・?)

 そう思うと、胸の奥が温かくなるのを感じた。こんな状況の中、僕はまさしく『嬉しい』と、そう感じたのだ。

「ほら、行くぞ!」

 手を差し出した男の手は、僕を生かすためにあった。

 僕は、その手を震えながらも――

「は、はい!」

 力強く握ったのだ。

 引き上げられた手を離さないよう、力加減に気をつけながら必死になってついていく。向かった先は、ステージの裏の方。そこには、人間だろうが獣だろうが関係なく死体が横倒れていた。

 その中で、男は近くにあった布を持ってこちらに来る。

「わっ!」

 色々な人の血の匂いが染みついているその布は、僕の鋭すぎ嗅覚では結構きつく、何とかその布をはぎ取ろうとするが、男の手に邪魔される。

「被ってろ。それがあれば、多少は逃げれる可能性が高くなる。・・・・・・裏にいた奴等は全員殺られていた。俺は、お前について行っていたから運よく免れたみてぇだけどな。今の所、ざっと見てたら表から逃げているお偉いさん方は生きちゃいねえ。・・・・・・予想以上にあのラクっていう奴は殺しにたけている。このご世代、珍しい奴だが、あいつは裏社会では有名な男だ。いいか。あいつに会ったら何があっても逃げろ。後ろを一切振り向かずに、前だけ見てな。でないと、――死ぬぞ」

 僕を見る目は、真剣な目のそのもので。この現状がどれだけ大変で危険なものか、僕はようやく実感したのだった。

「で、では、僕たちはどうやって逃げるん、ですか・・・・・・?」

「前も後ろもダメなら、残るは上か下だ。けど、ここにいたバカたちは分かりやすく下の抜け道を相手に教えた。なら、残りは上しかねえ。・・・・・・安心しろ。お前だけは、何があっても逃がしてやる。お前は人間と違って獣、しかも狼なんだから逃げれる可能性は高いだろ」

「・・・・・・・・・」

「ん?どうした?」

 僕は今、どんな顔をしているだろうか。助けられて情けなくも感じているし、この男を怪しんでもいて、でも、どこかで信じたいとも思っている。

(いや、そもそもの話、この男がおかしいんだよ。よくよく考えれば、なんで獣である僕を助ける?人間が獣を助けるなんて、聞いた事のない話だ。そんなの、天地がひっくり返ってもあり得ない話だと思っていたから・・・・・・)


 ――助かりたい


 そう望んだのは自分のはずなのに、やっぱり『人間』という肩書事態で怪しんでしまう。

「・・・・・・なんでもありません」

 男は、僕の疑惑に気付いているのだろうか。多分、気付いていない振りをしているんだと思う。そうじゃなきゃ、あからさまに肉食獣に背中を見せないだろうし、上から脱出するのに抱き上げる意味もないはずだから。

 男の言う、上から逃げるというのは屋根裏から逃げるという意味だった。少し埃っぽかったが、人の出入りはあったらしい。一部分だけ、まったく埃が積もっていないところがあったところから見て、この人は何回か抜けていたのだろう。

「ここは、俺がいざという時のために用意しておいた脱出経路だ。だから、責任者すらも知らない。ラクという奴も、ここまで予想していないはずだから、時間は稼げるはずだ。見つかる前に、さっさと進むぞ」

「は、はい」

 嫌な匂いがする布を頭に被り直し、男の後ろをついていく。歩いている間も、この良すぎる耳は下から肉を切り裂く音が聞こえてくる。こういう時、自分の耳が嫌になった。

(捕まった時も、獣の泣き叫ぶ声がよく響いていた・・・・・・)

「もうすぐ外に出られる。それでも、安全とは言えないから油断すんなよ。何があるのか分からないからな」

「は、はい」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

(・・・・・・き、気まずい)

 人間と獣。いくら脱出するという目的が一致しているからと言って、過去の関係は変わらない。人間は獣を物として扱い、僕たち獣はそれを深く憎んでいる。

「・・・・・・おかしいだろ」

「え?」

 少ししてから、男はそう言って僕に話しかけた。急な事で何を言っているのか分からなかったが、きっと僕の疑問の事だろうと推測した。

「疑問に思わないはずがないだろ。俺は人間、お前は獣。所詮、主従関係のようなもんだ。それなのに、リスクを冒してまでお前を助けようとしている。・・・・・・けどな、俺だって人の良心ってもんがあるんだよ。ずっと前から、こんなのはおかしいと思っていた。お前ら獣は、たた動物の耳としっぽがついているだけで、中身は人間と一緒なんだって。こんな仕事をしていくうちに気付いたよ。・・・・・・皮肉なもんだよな。最初は物としか思っていなかったのに、獣たちが泣いて、俺を見て助けてって叫ぶのを見ていると途方もない罪悪感に押しつぶされる。だからなんだろうな。生気のこもっていなかったお前を見ていて、助けたくなった。でもさ、こんなことをしても今まで見捨ててきた奴らは浮かばれない。だって、自分が可愛くてあいつらを見捨てたんだ。そんな自分を俺は――」

「あれ~?こんな所にも獲物がいたんだ。気付かなったよ」

「⁉」

 後ろから、ラクの声がした。いつの間に近づいていたのだろうか。全く気付かなかった。足音も聞こえなかったし、匂いも嗅ぎ取れなかった。

「もう来やがったのか!」

「え~。そんなこと言わないでよ。だってさ、あいつら人間くそ弱くてさ~。もうちょっと粘ってほしかったけど、あっさり殺られるからつまんなかったよ。で、お前たちが最後だけど、――どうやって俺を楽しませてくれるの?」

「ッ!」

 怖い。

 そう。これは恐怖だ。僕は、あの男に恐怖を抱いている。全身が震えているのは、そのせいなのだ。そう、思っているはずなのに・・・・・・

(これは、歓喜?)

 僕の、いや、獣の本能が彼の存在を喜んでいる。

 彼が、僕のボスなのだと、そう認めているのだ。

「ちっ!」


 “パァン!”


(!)

 鋭い音が、頭を貫いた気がした。でも、そのおかげで思考が現実の方へと戻っていく。

「走れ!」

「え?で、でも・・・・・・」

「いいから、走れ!このまままっすぐ行けば、外へと繋がる道がある。後ろを振り向かずに、何があってもそこまで走っていけ。いいか!お前は、お前だけでも、俺の分まで何があっても生き続けろ‼」


 ――生きろ


 そんな言葉を言われるなんて思っても見なかった。

 獣には、人としての生き方ができない。それが、社会の在り方だからだ。なのに。なのに、この男の人は生きろと言う。

 気付けば、僕は駆け出していた。

「あれ?逃げるのか~。めんどくさいな~、っと」

「お前の相手は俺だ」

「ふーん。ま、別にいいか。・・・・・・俺を楽しませろよ」

 苦しい。辛い。肺が痛い。それでも、僕の足は止まる事を知らなくて。必死になって走っている。

(もし、外に出られれば助けを呼べるはず・・・・・・!あの人が助かるためにも、急が、ない、と・・・・・・?)

 助ける

 誰が?

 僕は獣だ。そんな社会から見たら物でしかない人種が、誰かに助けを求めたって行動してくれるはずがない。逆に、また別の誰かに捕まえられるのがオチだ。

(そうだよ。あの日、訳も分からず捕まえられて、今までの自分の生き方も分からない混乱のまま、それを利用して洗脳みたいに毎日毎日人間の好き勝手にされて。それなのに、助ける?・・・・・・バカみたいじゃないか)

 目が覚めてこのかた、よかった事なんて一度もない。同じ人として生きようとしても、人が、社会が、世界がそれを許してくれなかったから。初めて『生きろ』と言われたって、この汚れ切った世界で、どうやって生き延びろというんだ。

 ――自由。それは、人間にあって獣にないもの。その言葉以外何も知らない僕に、一体どうやって・・・・・・

「みーつけた」

「!」

 後ろから、ラクの声が聞こえてきた。とっさに振り向いてしまう。

(・・・・・・あっ)

 見なきゃよかった。

 ラクは、左手にナイフ。右手に、あの男の人の首を持って立っていた。

「?あれ?逃げないの?せーっかく鬼ごっごでもできると思ったんだけどなー。ま、いいか。この男のおかげで、結構楽しめたしね。今は気分がいいから、楽に殺してあげ・・・・・・ん?お前、なんか変な匂いだね。その変な布のせいで分からなかったけど、お前もしかして――」

 段々こちらに近づいてくるのを感じる。だけど、僕の目にはラクが持っている男の人しか映っていない。

(生きろと、あの人は言った。何があっても生き続けろ、と。でも、この腐り切った世界でどうやって生きればいいの?獣人が、獣人らしく生きる事なんて不可能なのに。あの人は、それを教えてくれないで、いなくなった)

 不意に、視界が広くなる。布がとられたのだとすぐに分かったが、どうでもよかった。僕の中にあるのは、今から死ぬのだと他人事のように感じるだけ。

「・・・・・・泣いてんの?」

「え?」

 呆れたように、ラクが話しかけてくる。

 違う。そう言いたかったが、自分の目元が今更ながら濡れているのが分かった。その水が滴り落ち、自分の手元を光らせる。

(泣いてる?誰が?僕が?何で?だって、死んだのは人間だぞ。今まで、僕たちを蔑ろにしてきた人間たちの一人が死んだだけなのに……なんで、泣かなくちゃいけないの?)

 心に穴が開いたかのような喪失感が、なぜか懐かしいと感じてしまった。それに耐えきれなくて、涙が溢れる。なんとなくだけど、人間が死んだから泣いているわけではないと思う。でも、それが分からないから、更に虚しさを感じる。

「ハア・・・・・・。泣くなよ。お前も狼ならさ」

(・・・・・・お前?)

 それは。その言い方は、まるで、あなたも――

「おお、かみ・・・・・・?」

 その瞬間、強い風が吹いてきた。その拍子にラクのフードが取れて姿が晒される。いくら空が暗かろうと、少しでも月の光があれば狼である僕の・・・・・・いや、僕の目には相手の姿がはっきりと映る。

 ラクという男は、非常に整った容姿だった。獣の特徴である物がなければ、それはそれは人間によくモテた事だろう。

 でも、なによりも、僕が目を引いたのはその目だ、それは、まるで人の血をそのまま映し出しているようで。――まさに、獣。その言葉が、しっくりくるほどラクという男は本能のまま動いているのを感じだ。

 だって、ほら。今だって。

「なあ。お前、俺のところ来る?」

 彼は、自分の本能のままに僕に語り掛けてくれたのだから。

 気付けば、僕はあの男には目もくれていなかった。まるで靄がかかったみたいに、どんどん認識が消えていく。今の僕の頭の中には、ラクしかいなかった。

「・・・・・・僕があなたについていくのはメリットがありすぎます。でも、あなたにはデメリットしかない。僕があなたに何かを恩返しするのも少ないかもしれない。それでも、そんな事を言うのですか?」

(嘘つき)

 心の中で、自分を罵倒する。

 これは、いわゆる確認のようなものだ。僕がラクをボスだと認めているように、ラクもまた、僕を己の一部群れの仲間 にしたいのだと言ってほしいから。

(僕は、自分も、相手の気持ちも読み取るのが苦手だ。だから、教えてほしい)

 この答えが間違っていないのか。

 これが、本能というやつなのか。

 そして、この黒い感情の正体を、この狼から聞きたかった。

「言わないと分からないのか?」

 そう言った彼の顔は、先ほどの呆れからなのも変わっていない。だけど、それだけで分かるのだ。そして、僕はその問いに答えを見つけられていた。

(これが、この感覚が、『本能』)

 人間には決して分からない、獣としてのさが が、僕の心を覆う。その時、僕の何かが変わった。諦めていた閉ざされた道に、一粒の光が差し込んだのだ。きっと、この光は正真正銘獣の道だろう。決して戻れない道へ行くのだ。でも、僕は、それでも生きたいと思った。この腐り切った世界に、今までの全てをぶつけてやりたかったし、なによりもラクが望んでいる世界を隣で見たい。そう願ったのだ。

(ああ。やっと、分かった)

 ラクに出会って。この人の本能を知って。やっと、自分の思いに気が付いたのだ。僕は、この世界を、人間を――憎んでいたのだ。それこそ、殺してやりたかったぐらいに。

「いい目するじゃん」

「ありがとうございます」

 僕たちは獣だ。獣の世界では、弱い奴が死んでいく。所詮、この世界は弱肉強食。たまたま統括するのが人間だっただけで、本来なら僕たちの方が何もかも強者なのに。権力だけにあぐらをかいて、本当の強さを知らないやつらは、いっそ殺してやればいいのだ。ラクが快楽のために殺すというのなら、僕は罰を与えるために殺してあげよう。

 痛がるように。

 苦しむように。

 悔いを改めるように。

 『生きろ』と、ある人間は言った。なら、生きてやろう。惨めに、終わりを待つばかりの諦観な人生じゃない。ラクという狼についていくオオカミらしく。

 黒い狼が、灰色のオオカミを捕まえた。

 捕まえられたオオカミは、生きることを望み、人を殺していく。

 赤い月が、よく輝いていた日だった。


     ・・・・・


「・・・・・・ん」

 朝の五時。九月なのに雲もない良く晴れた空に照らされて、僕は起きた。

「・・・・・・泣いてる?」

 目元をぬぐってみると、生暖かい水が流れているのに気付く。だけど、それが悲しみから流れてきている訳ではない。

「なんだか、長い夢を見ていた気分」

 夢の内容は覚えていない。けど、どこか懐かしさもあって、不思議な気分だった。しばらく放心状態でいると、そんな不思議な気分も次第になくなっていって。僕は、昨夜の高揚感を思い出すのだ。

(昨日のラクさんは凄かったな。自分が死んだのも分からない鈍い奴だったけど、あの殺し方は間違いなく人を苦しめる殺し方だ。僕も、あんな動きができればいいけど・・・・・・まだまだだからなあ。あ、そういえば、この前作った薬試してみたいなー。後でラクさんに相談しないと)

 どれだけ努力しようと、僕の体では無理がある。それでも、努力自体をやめるつもりはないが。

「ハア・・・・・・。早く、一人前の狼になりたいな」

 ラクと出会って、僕の人生は大きく変わった。名前も分からなかった僕に『グレイ』という名もくれたのはラクだし、その他にも食事や生きる術すらもあの人は教えてくれた。

 でも、その中でなにより大きかったのは知識だった。どうやら、僕は物覚えが良いらしく、様々なことを吸収していった。まだ幼い僕にはラクのように素早く、力強い殺し方 狩りは無理だ。だからこそ、知識で補った。最近は毒物を作るのにはまっていて、その性能は、あのラクさんですら満足させれるほどの物だ。ラクの役に立てる。その事実が嬉しくて、褒めてもらいたいから今日中に渡すことに決めた。

「あ、もうこんな時間」

 ラクの生活は予想通りというか、とにかく堕落していた。以外にも家は大きかったが、それでもその家は汚すぎた。ゴミはそこら中に転がっているし、足場なんて見えない。これなら、まだ牢屋の方がマシだと思うレベルだ。食事も睡眠も適当だし、よくこれで生きてこれたと考えるぐらいヤバい。そこで気付いた。まず、僕が最初にすべきことはラクの世話だ。そのためにすることは、ゴミ屋敷と言われても否定できない中を一日で掃除して、料理の仕方も最初は何が何だか分からなかったのを勉強して、今まではレシピを見ないでも大抵の料理は作れるようになった。

 ラクは大きなお世話だと言っているが、それ以上の文句は言わない。多分、今まで以上に動きが良くなっているのを知っているからだ。結局、基本的な生活が一番なのだ。

 僕は、白いシャツに水色の短パン、それから少し大きいパーカーを着る。

 その時、隅にある鏡に目が止まった。僕の容姿はある意味異端だ。顔も体格だって平凡なのに、『目』だけが普通とは違った。俗にいう、オッドアイと言うやつだ。左右の色が違うのが珍しいからという理由で、売られた可能性があると僕は思っている。

(気持ち、入れ替えないとな)

 首を振って、無理矢理思考を変える。

 少しわだかまりは残っているが、そのまま部屋を後にした。

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飼われたオオカミ。人殺し狼。 雲咄 @kumobanashi

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