第25話

 やはり、ナジュはわたしのことを恨んでいたのだと思います。いや、恨むとか大層なことではなく、嫌っていたために、思わず間接的に嫌がらせのようなことを口走っただけなのかも。わたし自身には攻撃材料がなかったために、ヒューを的に見せかけて母を、ひいてはわたしに嫌な思いをさせてやろうとしたのでしょう。

 その当時は、すぐにそういうことだとわかったわけではありません。わたしは混乱しました。ナジュが言ったことが、なにかとんでもないことだということはわかりましたが、母の顔に現れた怒りと屈辱がどれほどのものでどんな意味を持つのか、わかっていませんでした。

 その場に父がいなかったのが、よかったのか悪かったのか。もし、そこに父がいたとしたら、暴れ出して周りに取り押さえられ、それがむしろマシな結果になっていたかもしれません。それとも、父は観衆の面前では黙ったままで、結局同じことになっていたのか。

 結局同じことだったと信じたいです。ちょっとしたことで運命が変わったかもしれないといつまでも引きずって嘆くよりは、変えようがなかったと諦めるほうが、まだ心が楽ですから。

 その翌日、表向きはなにも変わったことはありませんでした。父は崖に発掘作業へ行き、母は結婚式の残りの後片づけに参加したあと、老人の世話をしに行ったと思います。

 わたしは淡々といつもの畑作業をこなし、なにも考えませんでした。帰ってきて母が用意してくれた夕食は、川の小魚と根菜の蒸し焼きでした。父は帰ってこず、二人で夕食を食べました。母はいつも通りの様子でしたが、わたしはあのことには触れてはいけないような気がして、黙って野菜と魚を口に運びました。

 食事をしているうちに雨が降り出し、すぐに土砂降りになりました。

 雨水を滴らせながら父が帰ってきたのは、そろそろ床につこうとしていた時でした。父は家に入ってくるなり、無言で母を殴りました。

 床に倒れた母を見て、わたしは「やめろ!」と叫び、父につかみかかりましたが、頭を殴られて一瞬ですが意識が飛び、なにがなんだかわからなくなりました。

 気がついた時には、父がわたしに馬乗りになり、ポカポカとリズミカルに顔を殴っていました。たいした力ではなかったと思いますが、手で防ごうとすると別の角度からこぶしが飛んできて、わたしは翻弄されました。はねのけようにも、力も技術もないわたしには不可能でした。その頃、わたしの身長は父に近づいてはいましたが、体格は到底及ばず、なによりも、抵抗しようとする心が足りませんでした。父の髪の先端から振りかかる水が冷たかったのを憶えています。

「やめて!」

 母の叫びで、意外にも父は動きをとめ、背後の母を振り返りました。

「もうお前のことは殴らない」

 父は言いました。

「殴ると話せないからな」

「どういうこと?」

 これもまた意外にも、母の声には恐れは感じられず、怒りがにじんでいました。わたしの目は上を向いていて、痛みや現実感は天井の木目に吸い込まれそうでしたが、耳だけは覚醒していました。

「俺に言いたいことがあるんじゃないのか」

「なんのこと?」

「裏切者なんだろう」

「え?」

「裏切者なんだろう」

「はっきり言ってください」

「お前は裏切者なんだろう」

「違います」

「俺を捨てるのか?」

「捨てるなんて、そんな」

「ほかのやつのほうがいいのか?」

「ごめんなさい、ちゃんと説明します。ヒューさんとわたしが二人で会っているという噂を聞いたんでしょう。でもね、一度、二人で話しただけなの。みんなが面白おかしく話してるだけなんだよ。ヒューさんはやっぱりよそ者だから、みんな彼に興味があって注目してるから、なんでもないことでもなにか大変なことみたいに伝わるの」

「お前はみんなに好かれてるはずだ。根も葉もないのに悪い噂を流されるはずがない」

「だからそれは、わたしが彼の家から出てきたところを誰かが見ていて……」

「馬鹿にしているんだろう、俺のことを」

 父の声は、哀れみを誘っているようでした。

「俺はお前のことを愛しているから、絶対に離れないと思っているんだろう。だから平気で勝手なことをするんだろう」

「どういう意味?」

「本当のことを話せ」

 平坦な口調から、いきなりわたしの横っ面に硬いこぶしが飛びました。始まるとひとつでは終わらず、リズムが早くなっていきます。

「お前の、大切な、息子が死んでしまうぞ」

「あなたの息子だよ。やめて。なんなの。どうしてなの」

 母が後ずさっているのか、それとも耳にダメージを受けているからか、母の声が徐々に小さくなっていくように感じました。

 父は、わたしに一言も話しかけませんでした。わたしを殴りながらも、父はわたしのことなど眼中になかったのです。きっと、父の頭の中は、母のことでいっぱいだったのでしょう。父にとってわたしは母のおまけか、それ以下の、ただの肉人形だったのでしょうか。

 これが、わたしがやり過ごしてきた「平穏」なのか、と思いました。母はこんな地獄に耐えてきたのか、いや、こんなに顔を殴ったことはあっただろうか、なかったとしても、見過ごしてきたことの言いわけはできない、ごめんなさい母さん、自分は今罰を受けているのかもしれない、そう思うと、さらに抵抗する力が抜けていきました。父がわたしに暴力を振るったのは、それが最初でした。そして、最後でもあります。

 突然、父の動きがとまりました。「あ?」みたいな声を出したあと、振り向こうとした父は、びくりと体を震わせ、わたしの上に覆いかぶさりました。母が「大丈夫?」とわたしを父の体の下から引っ張り出しました。

 父の背中からは、包丁の柄が生えていました。床の上で手足を動かす父を、母とわたしは黙って見下しました。すぐに父は目を開いたまま、動かなくなりました。あんなに強そうに見えた父が、殺しても死にそうになかった父が、床を汚しながらあっさりと死にました。

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