第23話

 確か、その次の日には、雲が割れて少しだけ日が差したと思います。だからというわけではありませんが、わたしはその時も、誰にもあの人やタリアのことを話しませんでした。そもそも、わたしには相談できる人などいませんでした。村長のことは尊敬していましたが、見た目ではなく、言動から来る威厳が強すぎて、いくら会っても近い存在とは感じられませんでしたし、母のことは好きでしたが、なんでも言い合えるような関係ではなかったのです。母は、なにかのきっかけで恐ろしいことを言いだすのではないかと、得体の知れない不安を与えるようなところがありました。いつも、大きななにかを心に抱えているように思えたからです。それを取り除いてやるなんてことはわたしにはできなくて、わたしはただひたすら、なんでもないふりを、この「平穏」が続くと信じているふりをするしかありませんでした。

 父の暴力はやんでいませんでしたが、わたしにとってはそれが日常で、望める限りの最上の平穏だったのです。

 考えてみれば、わたしはタリアに、結婚なんてできるわけがないと言われてショックを受けましたが、そもそも、母を父のもとに残して結婚なんて、できるわけがありませんでした。しかし、さらに前にタリアが言った、母にとってはわたしが邪魔なのだという言葉も正しいのだろうか、とも考えました。もしそうだとするなら、結婚しようがしまいが、家を出たほうが逆にいいのだろうか、と。

 そんなことを考えても、思い切って実行してみる勇気は、わたしにはありませんでした。ただ、それとなく母に話してみることはしました。

「タリアに、僕は結婚できないって言われちゃったよ」

 裏庭に桶を出し、二人で夕食に使う野菜を洗っている時、わたしは母に言いました。本当に問いたいことは言えないくせに、わたしは嘘がつけない性分でもありました。

「どうして?」

 母は忙しく芋をたわしでこすりながら穏やかに問いました。

「えっと……女の子たちの間で、僕の悪い噂が流れてるみたいで」

「噂なんて、気にする必要ないよ。結婚したかったら、たった一人の人に好かれればいいだけなんだから」

「でも、みんなに嫌われちゃったら、誰も好きになってくれない気がする」

「そんなことないよ。諦めちゃだめ」

「母さんは、僕に結婚してほしいと思ってる?」

「あなたが望む通りになってほしいと思うよ。なにをしてほしいとか、どうなってほしいとか、そういうことは思わない」

「……母さんは、どうして父さんと結婚したの?」

「嫌だねえ、そんな女の子みたいな質問して」

 照れたような母の反応は意外でした。「女の子みたいかな?」と言うわたしに、母は「そうでもないかな。ごめんね」と言って、わたしの質問ははぐらかされてしまいました。

 ただ、母はわたしの目を見て言いました。

「悩んでいるのかもしれないけど、母さんが助けてやれることはほんの少ししかないだろうね。でも覚えておいてね。母さんも父さんも、あなたのことを愛してるってこと」

「父さんも?」

「そうだよ。父さんは、ちょっと壊れてしまっただけなの」

 その時、タリアが言った、わたしの母は、わたしがいなければさっさと父と別れて幸せになる、という言葉が本当ではないことがやっとわかりました。わたしは母も含めて、誰のこともほとんど理解できていませんでした。

 理解できなかったのは、理解しようとしていなかったからでしょう。思えば、父のこともそうです。父の荒れ方が変わってきて、表情に怒りと悲しみが見えるようになったこと、母の晴れ着を引き裂いたり、持ち物を壊したりしたことも、どうしてなのか、わたしはわかろうともしませんでした。変化していることには気づいていたのに、そのことについて考える気力がなかったのです。

 ある日、母は一着だけ持っている華やかな色のドレスをバラして、縫い直していました。父はそれを見て、「なにをしてる?」と問い、母は、「普段着につくり変えようと思って」と言いました。すると、なぜか父は突然怒りだし、母の手からドレスを取り上げてビリビリに破き、そのあと、母の化粧道具や小物入れをいくつも割ってしまいました。

 母はそのことを責めることもせず、黙っていました。父を恐れているというよりは、諦めているようでした。

 母は普段、家で服をつくっていましたが、食料の分配や老人の世話などの作業をしたり、友達とおしゃべりをしたりしに出かけることもありました。そういう時も、夕方には帰ってくるのが常でしたが、何回か、父よりも帰りが遅くなったことがありました。母は、ある老婆が体調を崩していて交代の人が来るまで帰れなかった、遅れたお詫びに交代の人が焼き菓子をくれた、と包みをテーブルに置きましたが、父は見向きもせず、その時はなぜか自分の部屋にこもって、夕食ができても出てきませんでした。

 その老婆はなかなか回復せず、そして亡くなりもせず、身寄りもないので、善意の人たちの手を煩わせていました。そうやって村の人たちは、善意と道徳だけで支え合っていたんです。それは、父や伯父など、一部の人たちをのぞいて、上手く機能していました。

 今となっても、わたしは見識が広いわけではなく、ほかの土地のことはよくわからないので断言はできませんが、もしかすると、わたしの村で人々が上手く支え合っていたのは、あの守護者がいたためではないかと思うのです。どこか、村人たちは心の中で、あの人に見られている、あの人に邪悪な行いや魂を見咎められたら、大変なことになる、と無意識のうちに恐れていたのかもしれません。

 しかし、恐れだけではどうにも抑えられないものもあります。

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