第3話

 我々は捕虜となった。木の柱と枯草がかけられただけの粗末な収容所。地面に寝転ぶよりはまし、日差しを避けられるだけまし、といったところだ。それでも周囲に設置された有刺鉄線だけはしっかりしている。もう逃げる気力なんて無いというのに。日本が戦争に負けたと知ったのは、終戦から2週間を過ぎたころだった。今はもう悔しさよりも、命がけで戦ってきた日々が無駄だったという虚無感しか感じない。せめて終戦がもう少し早ければ、佐山上等兵も死なずに済んだかもしれない。彼は私たちに命をつないで逝ってしまった。出島上等兵も我らの盾となって散っていった。多くの若者が意味もなく何の所縁もない南国の地で散っていった。

 復員、つまり日本に帰るまで一年半の時間がかかった。その間我々は戦勝国の奴隷として労働力を捧げた。来る日も来る日も朝から晩まで土木作業に駆り出され、考えることも出来なくなった無気力な日々。時折、色白で鼻が高い連中に意味もなく殴られても、敗者は拳を握ることも許されなかった。握ろうともおもわなかった。衛生状態も戦時中からさして変わらず、疫病によって命を落とす者も少なくなかった。そんな日々の繰り返しでも、戦争で死んでいった者たちのためにも無駄死にだけは避けようという義務感だけが私を支えていた。それだけが生きる意味だった。

 慣れてくれば駅のガード下でも人は眠れるものだ。上野には同じ境遇の者は何十人もいて、名前も知らぬ関係のまま一つの集合体となる。生まれた場所も時間もバラバラだが、共通点を持つ、貧しさから誰も抜け出すことが出来ない。昨日まで隣で横になっていた男は今朝、荷物のように麻袋に入れられ運ばれていった。ここでは珍しい光景ではない。餓死者は次から次へと出る。昨日は七人、今日は五人、明日はどうなるか、考えるだけ無駄だ。

 捕虜収容所から解放され、やっと帰ってきた日本はその姿を変えていた。戦地で思い描いていたほど、日本は温かくも優しくも素晴らしくもなかった。かつて国を守る英雄として送り出された我々軍人は戻ってきた途端、食糧難を加速させる厄介者でしかなかった。人々は口を揃える。『戦争に負けたのになぜお前たちは生きて帰ってきたんだ。お前たちが玉砕覚悟で戦えば、こんな苦労はしなかった。』心無い言葉を数多くかけられた。お国のためと言って一致団結して国難を乗り越えようと、自分自身を犠牲にした気高い精神性はもうここにはない。いや、もともと無かったのかもしれない。ただ大声で怒鳴る軍人が、周囲が、世間が怖くて従っていただけなのだろう。今や軍人に注がれていた敬意は消え、羨望のまなざしは、敵国のアメリカに移った。進駐軍として我が物顔でアメリカ兵たちは町を歩き、そのおこぼれにあずかろうと後ろから媚びへつらった顔でついていくのが、かつて我々が命を懸けて守ろうとした日本人だ。

 身一つで引き揚げてきた俺には仕事も住む場所もなかった。赤紙が来る前に働いていた戦闘機の部品工場は米軍の攻撃目標となり瓦礫の山へと変わっていた。住んでいた家も空襲で失い、家族もその時に亡くなったという。結果、流れ着いたのは駅のガード下だ。

 配給は頼りにならない。遅配、欠配は当たり前。どうにかその日を生き抜くことは出来ても明日の保証はない。ガード下のお隣さんと同じ末路を辿るのは目に見えていた。上野公園で残飯を探して彷徨っても収穫はない。蛙や蛇を捕まえられるジャングルのほうがよっぽどましだ。陽も傾き、長くなる影を携え、赤く染まった地面を見つめる。グアムの光線は身を焼き尽くすような厳しさだったが、日本の柔らかな夕焼けの方が他人行儀で冷たく感じる。もうここで終わりなのか、戦争が終われば平和がやってくるという幻想は儚く消えて、徒労感ばかりが強くなる。目を閉じると戦火の中走り回った日々が浮かんでくる。同じ命の危機でもあの頃はまだ仲間がいた。それだけで幸福だったと思えてくる。バカバカしいとは思わんか。ほら、友の声も聞こえてきた。迎えが近いようだ。いや、違う。幻聴ではない。そんなに遠くない距離から声が聞こえる。助けを求めるような叫び声だ。手を差し伸べる者はいないようだ。そんな世の中だ。

「お前ら何をしている!」

 足が勝手に声の方へ向かってき、怒鳴り声を上げた。声を張り上げる体力が残っていたことに、他人を助けようとする自分に驚いた。空っぽの胃袋は正しい思考を奪っていたようだ。俺の視線の先には、横たわる子供の周りを十六七くらいの若い男たちが囲んで足蹴にする光景があった。不意に声をかけられた男たちは動きを止めた。相手は四人、興奮の矛先をこちらに向けてきた。そこから先は覚えていない。気が付いたとき俺は布団の中にいた。


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