ある雪の日の記憶

すずき

手紙

 さて、何から書き始めて良いものか。


 ペンを手に便箋と向き合い、既に二時間も経とうとしています。

 恥ずかしながら、僕はこれまで、手紙というものをちゃんと書いたことがありませんでした。


 だから物知りなあなたからすれば、読みにくい文章になってしまうかもしれません。


 それでも、今の自分の気持ちを、一度こんな風に形にしてみたかったのです。普段面倒臭がりな僕の、一世一代の熱意に免じて、どうかお許しください。


 はじめに、出会った頃の話をしましょう。

 覚えておいででしょうか?

 当時の僕は、極度の人見知りでした。


 あなたと初めて顔を合わせたときも、僕は正直に言って、上手くコミュニケーションを取ろうなどとは思っていませんでした。


「人と話をするときには、相手の目を見なさい」。

 幼い頃から何度も言われてきましたが、僕にはどうしても、それができませんでした。


 詳しい理由は分からないけれども、目が合うと一切の思考が停止して、頭の中が真っ白になってしまう。

 それを説明しても、納得してくれる人はいませんでした。

 無理もありません。周りの人にとってはきっと、呼吸みたいに無意識にできていることなのです。


 あの時点で僕は既に、二十代の後半へ差しかかっていました。

 この歳になっても、女性と目を合わせることすらままならなかった僕は、あなたにも「どこ向いてるの?」と不思議がられることを覚悟していたのです。


 あなたは、「家事代行サービス エヴリィ」から派遣された一社員。

 淡々と仕事をしてもらえればそれで充分、と割り切ることで、会話下手について説明する手間は省きたいと考えていました。


 ところが、それは杞憂に終わりました。

 僕はなぜかあなたとなら、難なく会話することができたからです。

 それも、ちゃんと目を合わせながら。


 あなたの瞳の奥ではいつも、何かがきらきらと揺れ動いて見えました。

 たとえば、海の底できらめく砂や貝殻。または、遠い冬空で瞬く星々。

 その生き生きとした美しさに、僕は出会った瞬間から見惚みとれてしまったのです。


 下手な比喩ですみません。僕の貧相な語彙力では、これが限界でした。


 とにかく人見知りの僕でも、楽しく話せる相手ができたという事実は、平凡な毎日をあなたの思う以上に豊かにしてくれました。


 大した話などしていないのに、とお思いですか。


「味噌汁の味噌、変わりましたか?」

「お気づきですか!麹味噌を使ってみたんです。お口に合えば良いのですが——」

「美味しいです!もう、びっくりするくらい——」


 確かにこんなものは、取るに足らない会話かもしれませんね。

 でも内容などは、どうでも良いのです。


 他愛もない日々の会話はいつの間にか、人見知りの仕事人間にとって初めての、仕事以外の楽しみとなっていました。

 家に帰るのが、日に日に待ち遠しくなっていきました。


 そのうち、休日にも二人で、買い物に行ったり出かけたりするようになりました。

 僕の中で、「もっとお話しできたら」という気持ちがますます大きく育って行ったのも、自然な成り行きだったと思います。

 

 けれども、こちらの事情を知らなかったあなたはあの時、随分驚いたのではないでしょうか。

 あなたが来て初めて迎えた冬のある日、今思い返しても、我ながら急な行動だったと思います。


 あの日は、正午辺りから深夜にかけて、雪が降っていました。

 基本的に温暖なこの地域では、十年に一度あるかないかの積雪量です。

 夕方、仕事から帰る時には、歩道やガードレール、信号機にまで雪が積もって、いつもの道が見慣れない顔をしていました。


 玄関のドアを開けると、目の前にあなたが立っていました。

「おかえりなさい」

 そして、重そうに両手に持っていたものを胸の前に掲げ、「行きましょう」と微笑みました。


 それは、古びたギターケースでした。

 前日に、あなたが倉庫の整理中に見つけてきたものです。


「一ノ瀬さん、これは何でしょう?」

「高校時代のギターです。よく見つけましたね、懐かしいなあ」

「ギター、弾けるんですか?」

「いや——昔やっていただけですから——」

「聴きたいです。一ノ瀬さんのギター、聴いてみたいです!」


 あの勢いと前のめりな姿勢に面食らい、まあ明日なら金曜だし、と承諾してしまいました。

 高校時代、部活で三年間演奏して以来、指一本触れていなかったクラシックギター。弦はかなり錆びつき、使い物にならなくなっていたので、仕事帰りに新しい弦を買って帰ったのでした。


 倉庫の隅を漁ると、これもまた懐かしい楽譜や譜面台が出てきました。

 ちゃんと演奏できるだろうか?

 僕の不安をよそに、あなたはワクワクした様子で、足台やら音叉やらの捜索を手伝ってくれました。


 住宅街の真ん中で弾くのは近所迷惑になるかもしれないと考え、僕たちは歩いて十分程度の公園を目指しました。


 いよいよ家から出る頃には、日が暮れかけていました。

 記録によればあの日の最低気温はマイナス三度、玄関を出た瞬間の寒さといったらありません。そこで断念しようかと思ったくらいでした。


 でも、あなたはお構いなしにギターが聴きたいと言い続けていましたし、そんなことは珍しかったので、僕は頑張って脚を動かし続けたのです。


 公園といっても、住宅街の一角にある、滑り台とちょっとした植え込み、その近くにベンチが二つ程度のものでした。

 でもあのときは、ありふれた小さな空間も雪化粧の効果で、僕たちが初めて見つけた特別な箱庭のように思えました。


 幸いベンチの上には屋根があり、積もった雪で濡れる心配はせずに済みました。

 並んで座ると、あなたは用意周到で、あらかじめ封を開けておいたカイロや温かい紅茶をくれました。

 

 準備が整い、僕は早速チューニングをし、楽譜を開き、試しにいくつかコードを鳴らしてみました。

 「ギターの音...!」

 あなたはもう、それだけで子供みたいに目を輝かせていましたね。

 

 次に、昔よく弾いたソロギターの曲を、さわりだけ弾いてみました。

 記憶というのは、不思議なものです。

 それまでおよそ十年もの間、楽譜を一度も目にしていないのに、弾き始めるとスラスラ指が動くのです。


 確かに高校で毎日練習していたとはいえ、この体は未だに、こんなにも正確にメロディを覚えていたのか。

 滅多に降らない雪も手伝ったのでしょう、僕はあっという間に演奏に熱中し、楽譜にある曲を全部再現したくなってきました。


 あなたは次々繰り出されるつたないギターの音色に、楽しそうに耳を傾けてくれました。

 一曲弾き終わってもいないのに、演奏が途切れると、勘違いで拍手して、慌てて謝ったりもしていました。


 僕はいつしか、久々に演奏できる高揚感と興奮のせいで、寒さのことなど忘れてしまいました。

 あなたもそれを、感じ取っていたのではないでしょうか。

 五、六曲目だったと思いますが、楽譜の中に弾き語り用のものを見つけ、試しにリズムをつけて鳴らしてみました。

 

 あなたの反応は、驚くべきものでした。

 ハミングで歌い出したのです。


 「この歌、知ってるんです」

 目を丸くして静止する僕に、あなたはいたずらっぽく笑いかけました。

 「もっと!弾いてください」

 「あ...はい」


 あなたの歌声があんなにも綺麗なものだと、その時初めて知りました。

 温かな、楽器のような声でした。フルートのように繊細で、豊かで、ギターとのハーモニーは絶妙でした。

 

 あなたは、伴奏に体を揺らしながらメロディを口ずさみ、不意にこっちを見て、ニコッと微笑みました。

 

 はっ、と息が止まりそうになったのを、今も鮮明に覚えています。


 理屈など、どうでもいい。

 僕はその瞬間、どうしてもあなたのことが好きだ、と思ったのです。

 

「あの——」

「何でしょう?」

「僕と、付き合っていただけませんか」


 あなたは目を見開いてしばらく停止し、その後小首を傾げました。

「——どこへ、ですか?」

「あ、いや、そうじゃなくて——」


 前を向く僕の肩に、とん、と優しい感触がありました。

 横を見るとあの、吸い込まれるような瞳が、ほんの十数センチのところで揺れていました。

 「冗談です。もちろんです」

 踊り出しそうな声で、あなたは言いました。

 

 夢のような時間でした。

 あの日の夕飯、あの後の会話、正直に言って、これまでの長い年月の中で忘れてしまったことはいくつもあります。

 けれども、あなたの歌声と目の奥の光、その美しさを忘れたことはありません。


 僕でも、人を笑顔にすることができる。

 一緒にいて、楽しいと言ってくれる人がいる。

 あなたのおかげで、そう信じられるようになったのです。


 結局、思い出話ばかりになってしまいました。

 このように書いていると、きりがありませんね。最初はあんなに筆が進まなかったのに。


 無意味に過去を振り返っていたわけではありません。

 つまるところ、言いたいことは一つなのです。


 いつかあなたは、僕のことを忘れるでしょう。

 でも僕は、あなたのことを忘れません。

 今この人生があるのは、他ならぬあなたのおかげだからです。


 感謝したいこと、謝りたいこと、色々あるけれど、最後にはそれだけが残ります。

 仮に思い出が消えたとしても、二人で過ごした事実は決して消えません。

 だから、悲しまないでください。

 

 僕はあなたが、あの雪の日に初めて見せてくれたような笑顔を何度も浮かべられる、そんな未来を何よりも望んでいます。

 

 言いたいことが上手く伝わったかは分かりません。

 でもあなたならきっと、書き切れていない部分も汲み取ってくれるだろう、などと甘えたことを考えています。

 

 だから、だらだらと駄文を重ね続けるよりむしろ、手紙はこの辺りで終わりにしようと思います。

 

 あなたとの日々は、本当に楽しかった。

 僕の人生に少しの間でも付き合ってくれて、ありがとうございました。

 

 あなたの幸せをいつも、誰よりも願っています。




 一ノ瀬 直哉

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