第25話

 栗田君から連絡があった翌日の日曜日。

 昨日に引き続き、日暮宅ひぐらしたくの近場の空家あきやから張り込みを続けている。とはいっても、夜はぐっすりと眠らせてもらった。本番は今日なのだ。すでに栗田君とも合流している。


「車は軽自動車なのに一軒家住まいとは、実に奇妙だ。あの家が借家だとしても、何かいわくのある物件に違いない」


「家賃が安いのは、立地の問題ではないかしら? あるいは、車が家賃の犠牲になっているのかも。なんにせよ、その物件に住んでいる人間は実際にいわくのある人間だから、そんなに不思議でもないわ」


 いまどき、自動車にこだわる若者はそう多くない。

 軽自動車は維持費が安く小回りも利いて便利だ。普通自動車でなければ格好がつかないという考えは、もはや古い時代の発想になりつつある。

 もっとも、日暮ひぐらしただしの世代が現代の若者という層に含まれるかといえば微妙なところだが。


 私と栗田君は張り込みを続けた。

 日暮匡の性質はある程度、調査済みである。

 彼は自炊をしない。保存食を買い溜めして少しずつ消費していくタイプだが、そのわりに外食や買い出しの頻度は多いほうだ。

 だから今日も一回くらいは家から出てくるはずだ。


 案の定、昼時になると日暮匡が家から出てきた。

 青を基調としたタータンチェックのシャツに、青いジーパンを履いている。

 きっと青が好きなのだろう。


「車は使わないようだ。最寄もよりの店はスーパーマケット《M》で、歩くとしたらそこしかないだろう。先回りするぞ」


 私たちはすぐに空家を出て、遠回りの道を走ってスーパーマケット《M》へと向かった。

 店の入り口付近で物陰に隠れ、栗田君に私の財布を持たせてから二人で待機した。

 栗田君が黒いキャップ、黒いサングラス、白いマスクを着用してスタンバイを完了する。


「来たぞ」


「それじゃ、打ち合わせどおりに」


 栗田君が私の財布を手にして猛然とダッシュする。

 一直線に日暮匡のいる方へと向かう。


「泥棒ーッ! その人を捕まえて!」


 私は日暮匡の耳を狙いすますような意識で、渾身こんしんの一声を放った。

 それを受けた日暮匡は、私の予想に反して引き締まった表情を浮かべていた。てっきり狼狽ろうばいするものと思っていたのだ。

 とは言っても、私たちにとっては想定内のことだ。プランAがBへシフトすることすらない。

 栗田君が私の財布を天高く放り投げ、日暮匡がそれに気を取られている隙に、素早く彼の脇を通り抜ける。そしてその刹那せつな仮初かりそめのひったくり犯は、上半身裸の騎士みたいに無防備な姿で日暮匡の尻ポケットから顔を出している真打を引き抜くと、そのまま背後にひかえていた船橋ふなはしさとるというあみへ飛び込んでいく。


「そいつは泥棒だ! 捕まえたまえ!」


 言われるまでもなく、理は栗田君の手首を取りに行く。

 栗田君は手品師のごとき早業はやわざで日暮匡の財布をダミーとすり替えて――私の位置からはその様子は見えないが――、それを理の頭上に狙いを定めた高い放物線軌道へと乗せた。

 理は不自然さを消すために視線を上空の財布へ向けるという念入れの所作しょさを挟み、栗田君を取り押さえて無力化した。

 そして、ストッと黒革の長財布が理の手の横に落下した。


「おい、取りたまえよ!」


 日暮匡が理の方へ駆け寄っていく。

 私も彼らの所へ駆け寄る。


「すみません。はい、これ、お返しします」


 理が日暮匡にダミーの財布を渡し、日暮匡が私に私の財布を返却する。


「あの、ありがとうございました」


 私はまず日暮匡に一礼し、理にも愛想よく一礼した。


 いまのところ、私たちの計画は順調だ。

 理とは別々に行動すると決めたが、私が栗田君の力を借りると聞いた理は、自分も一枚かませろと言ってきた。

 理は日暮匡の財布を一時的に入手することで、免許証や各種カード、入っていればレシートなどにも目を通し、日暮匡に関する情報を取れるだけ取る算段である。

 私たちには情報共有の義務がある以上、その情報は私にも回ってくるはずであり、理の提案に乗らないのは愚かな選択だ。

 それに、第三者の役者が一人でも多いほうが、私も自然と日暮匡に近づける。さらには、日暮匡が会計時にお金がないことに気づいて困ったところに手を差し伸べることで、彼の私に対する好感度を引き上げることもできる。

 私の得る利益のほうが大きいことを見越した上で、理は提案してきたのだ。


 まったく、船橋理という男は……。


 彼は探偵としての才能よりも、探偵の敵としての才能のほうに恵まれているのではないか、と私はたびたび思う。

 彼は理詰め型の探偵ではない。犯人を追い詰める手法の突飛とっぴさで勝負をするタイプだ。

 ふわふわした雲のようでいて、触ると氷のように鋭く尖っていたりする。だけどやっぱり実体は掴ませない。

 さっきダミーの黒革長財布を受けとめ損ねたのだって、お茶目を演出して警戒をやわらげるための演技なのか、本当に取るつもりで取りこぼしたのか、私には見分けがつかなかった。


「あ、いえ、どういたしまして」


 日暮匡のうつろな視線を受けながら、私は彼から少し遅れた返事を受け取った。

 自分で言うのもなんだけれど、多少なりとも容姿に恵まれて幸運だった。女性にとって容姿というのは、プライベートだけでなく仕事でも武器、もしくはツールとなる。男性に比べ、女性はその割合が多いのが現実だ。


 私は再度、日暮匡に一礼して身を引いた。

 私に気を持った男性ならここで私を引きとめるところだろうが、日暮匡はそんな肉食漢ではない。

 もう一押し必要だ。

 偶然に再会する、くらいの一押しが必要だ。

 そこまですれば、手をこまねいて見送るほどのチキンではないというのが、私の日暮匡に対する傾向分析である。

 そしてそのシナリオは、レールとなってすでに私たちの前に敷かれている。


 私は常に日暮匡の死角となる位置から、商品を選んでいるフリをして彼を観察した。

 日暮匡はカップラーメンを一つ入れただけの買い物カゴを手にレジに並んだ。なんと計画性のない男だ、とあきれてしまう。

 引き続き私は日暮匡の死角で待機する。

 会計が日暮匡の一つ前に並ぶ親子に移った。

 カゴいっぱいの商品がようやく移しおわり、いよいよ日暮匡の順番が迫ってきた。


「大きいほうのお返しが――」


「大きいほうってウンコォ?」


 うっく……、なんてこと! 不意を突かれたわ。

 危うく吹き出すところだった。これだから小さい子供は油断ならない。

 それにしてもあんな幼稚で下品な言葉に反応してしまうなんて、自分が情けない。日暮匡ですら無反応だというのに。


 ……あれ? 笑ってない? 日暮匡、笑ってない? なんだかほおがヒクヒク動いている気がするのだけれど。

 まあ、いいわ。それは重要なことではないものね。


 そしてついに日暮匡の会計順が回ってきて、財布に手をかけた。


「百四十二円になります」


 タイミングを慎重に見計らう。

 早すぎてはいぶかしまれてしまう。

 私が出ていくタイミングは、日暮匡がダミーの財布に気づいてから、さらに店員と少し言葉を交わした後だ。


「お客様?」


 日暮匡は返事をしない。明らかに狼狽している。


「あの、お客様?」


 そろそろ頃合ね。

 私はそう判断し、早足でレジの外側から回って日暮匡へと近づく。


「あ、ああ、あああ……」


 日暮匡、焦りすぎ……。

 ターゲットがあまりにも滑稽こっけいだが、私は彼にひったくりから財布を取り返してもらって恩を感じているという設定を忘れてはならない。


「あの、これでお願いします」


 私は会計トレイに百五十円を置いた。


「あ、君は……」


「先ほどはどうも」


 私は日暮匡に微笑ほほえんで見せた。

 先ほど助けてもらったので、私は彼に感謝しているはずであり、それを表情で示したのだ。


「八円のお返しになります」


「どうも」


 私は店員から釣りせんを受け取り、財布の中に流し込んだ。


「あの……」


「ひとまず、ここを出ましょう」


 私は日暮匡の言葉をさえぎり、店の外に場所を改めた。日暮匡が私に話しやすくするために、人の少ない所へ場所を移したのだ。

 人混みの中ではお礼の一言で会話が終わってしまうかもしれないが、わざわざ改まって向き合うことで、一言では会話を終わらせにくい雰囲気を作ることができる。


「先ほどは大変助かりました。あの、もしかして財布の中身を抜かれていたのですか?」


「いや、財布自体をすり換えられていたのだ。君はそんなことはなかったかね?」


 日暮匡は私が知っている事実を説明し、私のことを心配するそぶりを見せた。

 しかし、彼の言葉遣いもにはムッとさせられる。もちろん、それを表には出さないが。


「私は大丈夫でした」


「そうか、それはよかった。その財布、ブランドものでしょう? いくらこの私をやり過ごすためとはいえ、それを手放すのはおかしいと思ったのだ。だがあのひったくり野郎は用意していたダミーとこの私の財布が似ていたためにターゲットを切り替えたのだ。いつの間にチェックしたのかは知らぬが。とにかく、収穫より安全策を取ったというわけだ。船橋がこの私の財布を取り返したために、警察に引き渡された後には犯行の事実だけを取り調べられるに違いない。それが済めば、この私の財産がまんまと奴のものになってしまう。刑罰で支払う罰金もこの私の金から支払われるに決まっている」


 そんなに頭の回る人間がスリなんかするわけないでしょ、と私は心内で毒づく。日暮匡は自分が滅茶苦茶を言っていることに気づいていないのだろうか。

 もっとも、財布のすり替え作戦を考えた理も大概たいがいだと思うけれど。


「その船橋さんというのは、先ほどひったくりを取り押さえてくださった方ですか?」


 私は現時点では理とは知り合いではないことになっている。会話には細心の注意を払わなければならない。


「ああ、そうだ。まったくスカした野郎だよ、彼は。君はあまり関わらないほうがいい」


「お知り合いなんですね。でしたら、その方に連絡を取れば、まだ間に合うかもしれません」


「いや、連絡先を知らないのだ。彼とは親しいわけではない。彼と会った回数は君より一度しか多くないのだ」


 言い回しが周りくどい。普通に二回しか会っていないと言えばいいのに。

 実際にはあなたが私より多く彼と会っているわけがないのに。……いけない。気が立ってしまうけれど、抑えなくては。

 こんなことでは「おまえが仕事でイライラするなんて珍しいな」と理に笑われてしまう。


「そうですか。では警察に連絡して事情を話せば、なんとかしてくれるかもしれません」


「うむ、そうしよう。あとで電話しておく」


 日暮匡は一瞬、視線を地面に落としてから、再び私を見てそう言った。

 もしかしたらこれが彼の嘘をつくときのくせかもしれない。

 殺人犯の彼には警察に電話などできるわけがないのだ。つまり、彼が確実に嘘をついた瞬間なのだ。

 これが彼の嘘をつくときの癖かどうかは、今後も様子を見て確かめる必要がある。


「はい、それがいいでしょう。クレジットカードなど入っていたなら、できるだけ早めのほうがいいと思います」


「うむ」


「では、私はこれで」


 私は自ら日暮匡との距離を縮めるアクションを起こしたい気持ちを抑え、彼からのアプローチがあることを期待して身を引いてみせた。


「あ、ちょっと待った」


 日暮匡は私を引きとめた。その理由を、私は辛抱強く待つ。


「はい、何でしょう?」


「ぜひともお礼がしたい。食事でもご馳走ちそうさせてほしい」


 成功!

 正直に言うと、彼が私を誘う確率は高くはなかった。

 学生風に言えば、彼は思い焦がれる女子を見守りつづけ、告白どころか、ろくに会話もすることができずに卒業を迎えてしまうような男子。

 ただ、日暮匡はもういい年をしている。無駄に歳を重ねてはいないらしい。


「いえ、お気になさらないでください。私も財布を取り返していただきましたから」


「いいや、さっきは本当に助かったのだ。些細ささいなことではあるが、この私は極度の混乱を強いられた。あ、その些細というのは君の優しさのことではなく、この私が混乱した原因のことであって、誤解のなきよう頼む。そういうわけだ。この私は君に非常に感謝している。礼をしなければ気が治まらぬ。紳士のさがというものだ。どうか礼を受けてはくれぬだろうか?」


 私は思わず笑ってしまった。

 あまり人と話し慣れていないながらに、一生懸命にしゃべっている。それでも一段上の立場から話すようなその口調はブレない。

 話す側も聞く側も、話しているだけで肩がこりそうだ。


「分かりました。それじゃあ私も財布を取り返していただいたお礼に、こんど食事でも作りにうかがわせてください」


 私はカップ麺の入ったビニール袋を一瞥いちべつして、日暮匡に視線を戻してから微笑ほほえんだ。

 ここまで言えば、私が彼に気があるというアピールをしていることに、さすがの彼も気づくだろう。


「そ、それはよい。よろしく頼もう」


 計画は順風満帆じゅんぷうまんぱん

 日暮匡を誘導して名前や連絡先をくように仕向け、いつ食事に行くかの約束まで取りつけることに成功した。

 日暮匡を相手としたハニートラップ作戦は、普段の探偵業務に比べれば楽な部類ではあるが、思いのほか大きな疲労に見舞われた。

 これがカノンとの駆け引きに有利に働くことになれば、私の努力もむくわれるというものだ。

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