第21話

 この私は福岡県警察署の取調室にいた。

 色彩のない部屋でこの私に相対していたのは、刑事ではなく探偵の女、すなわち佐藤優子ただ一人であった。


「君が取調べをおこなうのかね?」


「いいえ。取調べは警察の方がおこないます。取調べの準備が整うまで、この場を預からせていただいているだけです」


 佐藤優子の落ち着き払った態度には時間の制約を感じさせなかった。警察に対して影響力があるのかもしれぬ。警察の準備が整うのはこの女のさじ加減だという気がしてならない。


「君一人でよいのかね? この私が君に襲いかかる可能性を見落としてはおらんかね?」


「素手なら私はさとるより強いですから。それに、警察の人間が窓の外から私たちの様子を見聞けんぶんしていると思います」


「そうなのか……」


 マジックミラーというやつか。鏡ではなく窓と言うあたり、この女はよく勝手を知っているらしい。

 こちらからは外の様子はうかがい知れない。


「まさか君が探偵だったとはな。この私ですら、ついぞ最後まで見抜けなかった。本来の目的はこの私ではなく、カノンをおびき出すことだったのだろうね?」


「ええ、そうです。もちろん、殺人犯を見過ごすつもりもありませんけれど」


 これが本来の彼女の姿であろうか。礼儀はわきまえておりながら、その眼差しは実に冷ややかなものだった。

 船橋ふなはしさとる、すなわち彼女の旦那と口喧嘩をしているときにも似たような態度を示していた。

 機械のように冷徹で、鬼のように容赦ようしゃがない。握手をしたら「痛い」と言ってもそのまま握りつぶされてしまいそうだ。


「船橋理とはグルだったと考えるのが妥当だとうだが、しかしそれではに落ちないことが多い。君はこの私以上に船橋理を敵として警戒していたように思えるし、実際、この私は君の指摘に何度も助けられたと思うのだが」


「そうですね……。彼と私は同じ探偵事務所の探偵で、当初、同じ依頼に対して協力して動いていました。ですが、方針を決める際に意見が分かれ、個別に行動するに至りました。そうなるともう、互いに邪魔し合って泥沼化する一方です。まあ、いつものことですけれど」


 佐藤優子がフッと笑った。

 どこか楽しそうに見える。とんだ性悪女しょうわるおんなではないか。旦那と敵対することをたのしんでいる。おそらく、船橋理が唯一張り合いのある敵になり得るのだろう。

 佐藤優子の最愛の人であることと、その要件を満たす才能があることに関して、この私は船橋理に嫉妬しっとせざるを得ない。

 ただ、そんな疲れそうな立場になりたくないのも事実だ。

 かつて船橋理が言ったように、この私は保守的である。日々の生活に安寧あんねいを求めている。

 この私は基本的に平和――世界の調和ではなく自分の人生における平穏へいおん――を求める人間であるが、つまりそれは、できる限り楽をして生きたいということだ。

 この私の平穏をおびやかす者が現れれば、この私は容赦なく地獄の底にそやつを叩きつけ、踏みつける。


 そういう思考の後に、御用となって落胆していたこの私は、ようやく本来の自分を取り戻してきた。

 この私は決してあきらめず、この無礼者たちを出し抜いてみせる。


「ところで、カノンは捕まったのかね?」


「……いいえ、いまだ逃亡中です」


 佐藤優子は心中を表情に出さず、そう正直に告げた。

 きっと彼女は落胆しているはずなのだが、やはり機械じみていて、事実をありのままに受け入れ、るぎなく冷静に対策を講じている様子であった。


「さっき君は『同じ依頼』と言ったが、誰かがカノンを捕まえてほしいと君たちに依頼したのかね? 依頼者は警察かね? 守秘義務とやらで話せないかね?」


「いいえ、話しましょう。依頼者についてはむしろあなたに知ってもらう必要があります。あなたが謝罪すべき相手であり、相手もあなたの謝罪を望んでいます。時間はたっぷりありますから、あなたが本当に知りたいと思っていることをすべて聞かせて差し上げましょう。その前に、一つだけ教えてほしいことがあります」


「何だね?」


「カノンと連絡をつける方法です」


 この私が厭味いやみったらしく笑って見せても、佐藤優子の表情は動かなかった。

 彼女がみさき美咲みさきを名乗っていたときは、太陽のようにまぶしく温かい笑顔を見ることができたし、満月のようにうるわしいうれい顔を見ることができた。

 彼女が岬美咲のときにそうしていたように、このポーカーフェイスも演じているだけなのだろうか。

 旦那にだけは岬美咲の表情を佐藤優子として見せているのかもしれぬ。

 憎らしい。

 ねたましい。

 この私が裏切り者にいっさいの恩情を与えないことを思い知らせなければ。


「ふん。カノンのほうが上手うわてだったようだな。おまえたちがついぞつかめなかったその情報を特別に教えてやろう。感謝せよ」


「はい、お願いします」


「そうではない。感謝だ。感謝は前払いだ。感謝の辞を述べよ」


「ありがとうございます」


 佐藤優子はくやしがることもせず、淡々と返してくる。

 役所で事務手続きをしている気分だ。あるいは、独り言をつぶやきながら機械に数値を入力している気分だ。

 舌打ちしたつもりが不発に終わり、せめて私が不機嫌であることが分かるように粗暴そぼうな物言いで告げた。


「伝書鳩だよ」


「伝書鳩?」


「そうだとも。伝書鳩だ。カノンの飼っている伝書鳩が顧客を巡回しているのだ。ふと家のベランダに目をやると、奴が物干し竿に留まってジッとこちらを見つめてくるのだ。この私の所にも週に一度は来ていたと思うがね」


「嘘ですね」


 佐藤優子は相変わらずのポーカーフェイス……いや、これは違う。冷徹な視線。まるで私を見下しているような、軽蔑しているような、そんな目だ。

 機械にテキトーに数値を入力していたら、静電気という思わぬ反撃を食らった気分だ。


「いやいや、本当だとも」


「いいえ、嘘です。無駄なので、しゃべる気がないのなら、そう言ってもらえます?」


 絶句しかけたが、ひるまずにこの私は返す。


「ああ、そうだとも。貴様らなんぞにいっさいの情報をくれてやるものか。カノンとの連絡手段は極秘事項だ。たとえカノンとの契約がなかろうとも教えてやらぬ。仮にカノンが死んでいようとも、絶対に教えてはやらぬ」


「そうですか……」


 それでも悔しそうな表情を見せない佐藤優子を見て、口に出しかけていた「ざまあみろ」という言葉を飲み込んだ。

 暴言を吐きかけてやったのはこの私のほうだというのに、まるでこの私が嘲笑ちょうしょう、冷笑の的にされている気分だ。


「ふん。さっきこの私が知りたいことをすべて聞かせると言っていたが、あれはこの私からカノンの情報を引き出すための嘘なのだろう? あるいは交換材料か? だが残念だったな。この私はもはや知るべきことはすべて知った。貴様の語りなど不要だとも」


 この私は佐藤優子に対し、でき得る限りの嘲笑を顔に浮かべてそう言ってのけた。

 それでもポーカーフェイスを貫くのだろうと思ったが、そうではなかった。


 佐藤優子はフフッと吹き出すように笑った。

 何がおかしいというのか。

 不覚にも見惚みとれてしまったでは……いいや、だまされんぞ。

 それは演出だろう。

 違うのか?


「何がおかしいのかね?」


「日暮さん、私を何だと思っているんですか? お話ししますよ。あなたは自分が何を知らないのかも御存知ないようですから、本当にすべてを知れるように、順を追って全部お話しします」


「ふん。聞いてもカノンとの連絡方法は教えんぞ」


「構いませんよ」


 この私が正面にのぞむ佐藤優子は、そう言うと柔らかく微笑ほほえんだ。

 そしてその笑顔を残照ざんしょうのごとく残したまま、この私が知らぬであろう事実を、うるわしく涼しげな声で語りはじめた。


 この私は腹の底から怒涛どとうのように込み上げてくる感情があるのを感じた。

 憎しみを押しのけて沸々ふつふつと、遠慮を知らぬ山奥の湧水のごとく湧き上がる。


 惜しい。

 これだけは実に惜しい。


 悔しい。

 なすすべなく悔しい。


 なぜだ。なぜなのだ。

 麗しく、美しく、素敵で、愛らしいこの笑顔が、なぜこの私のものではないのだ。

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