第16話

 フェリー港に着いた。


 道中で聞いていたラジオでは、サムの新たな被害者が出たというニュースが流れていた。

 つまりカノンは警察に捕まったりなどしていない。しかと裏社会に顕在けんざいしている。

 そして馬氷なる豚女の死については、もはやニュースで話題に上るようなこともない。社会は完全に彼女の死を自殺と認定しているのだ。


「あら、ただしさん、何か面白いことでもあったの?」


 美咲の大きくてしっとりとした瞳が、この私の顔を覗き込む。小首こくびかしげる様は、子リスさながらに無垢むくな魅力を備えていた。


「ん? いや、べつに。何も……」


 危ない。何か表情に出ていたか? 

 いや、この私は一人のときであろうと、めったに表情を変えない。ポーカーフェイスのお面を装着しているようなものだと、会社の同僚に言わしめたことさえある。

 いまだってこの私は顔色一つ変えていないはずなのだ。


 みさき美咲みさき。彼女はやけに鋭い。

 この私が自分でも気づかぬ変化を読み取ったり、この私よりも先に尾行に気づいたりする。

 観察力が優れているのだろうか。女性は鋭いものだというが、美咲は飛び抜けている。用心せねば。

 しかしいまは完全にこの私の味方なのだ。もしかしたら彼女は、船橋理に対抗するにあたり強力な味方となるかもしれぬ。


「美咲、この私は乗船手続きをしてくる。君はここで待っていてくれ」


「分かったわ」


 この私は手続きに必要な車検証をたずさえ、車を出た。

 美咲が車内から笑顔で手を振ってくれる。無視する形になってはならぬと、この私はガラにもなく手を振り返し、車と彼女に背を向けた。


 予想以上に大きな出費に閉口へいこうしつつも乗船手続きを終えたこの私は、すぐに車に戻ろうとしていた。

 そんなとき、その電話はかかってきた。


 携帯端末を確認する。


 覚えのない番号だった。


 こんなものにいちいち出たくはないのだが、あとでまたかかってきても面倒なので、しぶしぶ出ることにした。

 美咲との時間を邪魔されたくないという思いが、この私の口調を強めた。


「もしもし、どちら様?」


「カノンだ」


 この私は言葉を失った。

 一瞬、先ほどの偽物かとも思ったが、声は先ほどとは異なり、バーで聞いた本物のカノンの声だった。そのときの記憶は薄れかけているものの、カノンのバリトンボイスはこの私が学生時代に唯一親しくしていた友の声に似ていたためによく覚えている。


「電話番号を変えたのか? 今日、あんたに電話したら別の奴が出たぞ」


「どうやら、あんたから漏洩ろうえいしていたようだな。番号は変えていない。変えられたのはおまえの登録していた番号ではないのか? 今日、仕事用の電話が四度も鳴った。いずれも一分も待たずに切れた。番号が漏洩している可能性がある」


 ただの間違い電話ではなさそうだ。

 この私がかけた電話がカノンではない別の誰かにつながり、カノンには依頼のルールを知らない何者かが電話をかけた。

 偶然とは考えがたい。


「この私の携帯に登録されている番号が書き換えられるなんてことはありえない。携帯は誰にも触らせていないし、指紋と暗証番号の二重ロックもかけている。あんたがこの私の携帯に番号を登録したときに、自分の番号を間違えたのではないのか?」


 そう言いながらも、そんなはずはないと考えている自分がいる。

 当時、この私とカノンは互いの電話番号を登録しあった。奴が口頭で述べる番号をこの私が自分で入力し、奴がその目で番号が正しいことを確認した。

 試しに電話をかけてみて、そのときは確かにつながった。


「それこそありえない。可能性はあんたにしかない。最近、怪しい人物が接触してこなかったか?」


 怪しい人物が……接触……。

 あった。

 確かにあった。

 間違いなくこの私の敵であり、そしてカノンの敵にもなり得る人物。


 船橋ふなはしさとる


 奴だ。奴しかいない。

 しかし、どうやってこの私の携帯端末に登録された番号を書き換えたというのだ。

 奴はこの私に一度も触れていない。

 いや、一度だけこの私が奴の背中を蹴り飛ばしたが、それ以外にこの私と奴が触れ合う機会はなかった。

 最初から最後まで奴を警戒していたこの私は、奴に荷物を預けることも背を向けることもしなかった。

 ん? ああ、たしかにそちらのおまえさんの言うとおり、この私の財布を奴から受け取ったことがあったが、あれは携帯端末とはまったく関係のないものだ。

 奴がこの私の携帯端末を手にするチャンスなど、一度たりともなかった。


 それに、携帯端末には二重のロックがかかっている。

 暗証番号を記録したメモを作って財布に入れるなどという愚行ぐこうももちろん、この私はやっていない。暗証番号はこの私の頭の中にしかないし、当然ながらこの私の指紋はこの私の指にしかついていない。

 決してこの私以外に携帯端末のロックを解除できる者などいない。

 そのはずなのだ。


「もしもし」


「ああ、すまぬ。怪しい人物に心当たりはあるが、番号の書き換えは不可能だ。だが、ちょうどよかった。正しい番号は履歴りれきから登録しなおすとして、この私はちょうどあんたに依頼をしたいと思っていたところなのだ。ここは人がいるから場所を移す」


 この私は電話を頬に当てたまま、建物の外へと移動した。

 車の待機場とは逆方向の出入り口から出ると、周囲に人は一人もいなかった。


「待たせた」


「こちらも問題ない。依頼とは殺人依頼か? 依頼料に納得した上での依頼だろうな?」


「もちろんだ。人生と小指一本とでは重みが違いすぎる。金への執着もない。依頼料を踏み倒したりはしないから、確実に仕事をしてくれ」


「無論だ。それで、ターゲットは?」


「船橋理。探偵だ。ネットで調べれば名前が出てくる。この私は奴に――」


「待て。船橋理だと? なんてことだ……」


 いままでこの私以上に起伏のない平らなしゃべり方をしていたカノンが、そのバリトンボイスで演劇役者のごとき抑揚よくようらした。


「どうした?」


「船橋理は知っている。我々裏社会の人間が最も関わりたくない男だ。あんたの口からその名が出たということは、奴はすでに俺のことをぎつけているかもしれん。そうでなかったとしても、確実に辿りつくだろう」


 あいつ、そんなにすごい奴だったのか。

 実際の歳に似合わず内面外面ともに餓鬼がきにしか見えないような奴だったが、この私が殺し屋を頼るくらいに追い詰められていることも事実だ。


「……まさか、引き受けられないとでも言うつもりか?」


「いや、逆だ。もはや引き受けざるを得ない。確実に始末しておかなければならん。だが、この相手にはかなり手を焼くことになる。俺は単独でこの稼業かぎょうをやっているが、今回ばかりは人の手がいる。あんたの協力も必要だ」


「協力? ああ、奴を消してくれるなら、いくらでも協力する。何をすればいい?」


「まずは説明してくれ。おまえが船橋理との関わりを持った経緯と、現在の状況を。できるだけ詳細に」


 この私は説明した。

 この私が馬氷まこおり鷹子たかこを殺したことについては話そうか迷ったが、船橋理を確実に仕留めるためには、カノンが正確な情報をつかむことと、カノンとの信頼関係が必要と考え、いちおうの口止めをしておいて話すことにした。

 カノンはこの私が人を殺したことにはなんの驚きも示さず、ときどき「それで?」とうながしつつも、黙々とこの私の説明を聞いていた。


 この私は馬氷鷹子を殺したこと、船橋理が接触してきたこと、あと岬美咲についてもすべて話した。

 美咲のことはカノンに知っておいてもらわねば、依頼者と無縁の者として巻き添えにされては困るからだ。

 ニュースを見る限り、ターゲット以外には手を出さぬようではあるが、それはこれまでに目撃者がいなかったからにすぎないのかもしれぬ。

 この私はカノンに間違っても岬を殺すなと念を押しておいた。


 現状についてはすべて話し終え、これからの予定についても話した。

 フェリーで北九州まで行って、その後、福岡空港から空路で北海道まで飛ぶ。


「船橋理はいまはついてきていない。この私の協力が必要ならば、このプランは変更する必要があるだろうね?」


「ああ、そうだな。船橋理はおそらくおまえの近くにいる。おまえの乗るフェリーは徳島を経由するはずだ。フェリーは徳島で降りて、船橋理を完全にまいた後、愛媛から大分までのフェリーに乗れ。愛媛の港は八幡浜にある。行先は別府でも臼杵でもかまわん。大分からは元の予定どおり福岡空港へ向かえ。俺も福岡空港へ向かう。そこで合流し、作戦を立てる」


「分かった。ただ、岬美咲は巻き込みたくない」


「それはあんたがなんとかしろ。俺としても、情報を得て性格と能力に十分な信用が置けると判断できた人間しか使えない」


 カノンの命令口調に少しムッとなったが、渋いバリトンボイスのおかげか、この私が気持ちを抑えることに苦労はなかった。

 カノンは殺し屋にしては態度が謙虚けんきょなほうだと思う。もっとも、そちらの世界の普通というものを、この私は知らないのではあるが。


「ああ、美咲のことはこの私がなんとかしよう。合流地点にはこの私が一人で向かう」


「いや、不自然な行動は起こすな。俺があんたを見つけだす」


「分かった。この私と美咲は自然な流れに任せて福岡から北海道まで飛ぶから、接触のタイミングと方法は任せる。よろしく頼むぞ」

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