第15話

 この私は船橋ふなはしさとるがバイクで高速道へと復帰する姿をしかと見届けてから、再びトイレへと向かった。


 そしていちばん奥の個室へ飛び込み、鍵をかけ、耳をました。


 水の流れる音がする。

 その後、勢いよく水の出る音がする。

 さらにその後、激しいエアーブローの音がする。

 そして、靴とタイルの摩擦音まさつおんを最後に、辺りはしんと静まり返った。


 この私は手ににぎっていた携帯端末を操作した。

 この私の携帯端末に登録されたアドレスの中で、唯一カタカナで入力されているものを探す。

 あった。その名は――。



 カノン!



 それが奴の本当の名前だ。

 いやもちろん、本名などではなかろう。奴は日本語をしゃべるのだから。この私が本当の名前と言ったのは、奴の名が世間では別の名で知られているからだ。

 


 サム。



 近ごろのニュースでたびたび名前を耳にする殺人鬼である。

 殺した人間の親指を切り取って持ち去ることから、親指を意味するサムという呼び名がつけられた。


 それはつまり、世間の凡夫ぼんぷどもは彼のことを何も知らないということにほかならない。

 世間から見れば彼は殺人鬼なのかもしれぬが、彼を知っている者からすれば彼は殺人鬼ではなく殺し屋なのだ。


 あれはこの私が気まぐれにバーで飲んでいたときだった。

 隣に黒ずくめの厚着をした男が座って話しかけてきた。そのときはバーに行ったのが初めてで、ここでは普通のことなのかもしれぬと思ったが、奴の存在が一般的には普通でないことは、新参者のこの私でもすぐに分かった。


 彼はまず名を名乗り、次に生業なりわいを告げた。

 口止めはその後だった。


「俺の存在を警察に通報すれば、あんたは警察の取り調べを受け、そのストレスに見合わない程度の報酬ほうしゅう、つまりは感謝状と金一封をもらうことになるだろう。だが、通報せずにこれ(携帯端末)と、ここ(胸)に秘めておけば、あんたは他では決して得ることのできない切り札を有することになる。あえて『誰かに俺のことを喋れば殺す』などという無粋な脅迫はしない。どうすることがあんたにとって有益かくらい分かるだろう? あんたは常識にとらわれず、期待値の計算ができるくらいに聡明そうめいな人間だ。そう見込んだからこそ、俺はあんたに話しかけた」


 そして彼は、この私の目をじっと見て、この私の意思を確認した。

 きっと彼には嘘は通じないのだろう。そう思わせる眼力があった。

 もちろん、この私は彼が見込んだとおりの聡明な男だと即答した。


 この私が見込みどおりであることを確認した彼は、次に、連絡の取り方と、依頼料の支払い方法について説明した。

 依頼料は依頼者の全財産の五割を前金とし、成功報酬として、さらに三割と、それから依頼者の小指を支払わなければならない。

 ちなみに小指は根元から切断しなければならず、これはカノン本人が切断しにくるとのことだ。

 金銭的な依頼料のほうは、一見して貧乏のほうがお得に思えるが、もちろん、最低水準値が設けられており、それが五百万円である。


 回想もほどほどに、この私は携帯端末の発信ボタンを押した。


「はい。もしもし」


「……あんた、誰だ?」


「……カノンですが」


 奴はカノンと名乗った。

 カノンという名を知っているのは、本人か、あるいは彼が殺しの営業をかけた者くらいだ。つまり、彼はカノンに相違そういなかろう。


 しかし、この私はそう安易に人を信用しない。奴はカノンなどではない。以前彼と話したときと声が違う。

 ただ、この私が彼を偽物だとだんじた理由はそんな些末さまつな差異によるものではない。この私には確信があるのだ。

 こういう事態を、カノン当人も危惧きぐして周到に対策を用意していたのだ。依頼者がカノンに電話したとき、カノンはすぐには電話を取らない。依頼者はそのまま五分半ほど待たなければならない。その五分半というのは、カノンの携帯端末に着信音として登録されているパッフェルベルのカノンが最後まで流れる時間なのである。

 だが、いま電話に出てカノンと名乗っている男は、十秒も待たずに電話に出た。

 間違いなく偽物だ。


「カノン……カノウさん? 申し訳ない。どうやら間違えたらしい。失礼する」


 何者だ! 

 相手がカノンと名乗ったからには、これは断じて間違い電話などではない。カノンに成りすました何者かがこの私をはめようとしている。

 しかしなぜカノンの番号で偽物が出るのだ? 

 もしかしたらカノンはすでに御用となっており、警察が殺人依頼者を殺人教唆未遂犯さつじんきょうさみすいはんとしてあぶり出す算段で、カノンの携帯端末を手に待機しているのかもしれぬ。

 だとしたら、この私はたったいま、警察に目をつけられたかもしれぬ。あまり目立った行動は取れそうにない。


 さて、どうするか。

 おまえさんたちならどうするね? おまえたちならどうする? 

 おとなしくしていたいところだが、船橋理を放っておくわけにはいかぬ。もはやカノンは頼れぬ。自らの手で、秘密裏ひみつりに、船橋理を抹殺まっさつするしかあるまい。そんなこと、わざわざくまでもないことだ。


 だが、いまはそれどころではない。

 時間をかけすぎてしまった。船橋理の抹殺について具体的に計画を立てるのは後回しだ。

 きっとみさき美咲みさきは待ちぼうけをくらっているに相違そういない。これくらいのことでこの私を嫌いになるような薄情はくじょうな女ではないはずだが、積み重ねれば事情は変わるかもしれぬ。仏の顔も三度までというやつだ。純粋に申し訳ないという気持ちもある。


 この私が車に戻ったとき、岬美咲はふくれっつらで「ずいぶん遅かったわね」と言った。

 こんなこともあろうかと、この私はあらかじめ用意しておいた言い訳を口にした。


「すまない。車の鍵を落としてしまって、あちこち探しまわっていたのだ」


「それならそうと言ってくれれば、私だって一緒に探したのに。私、あなたが追っ手に見つかって襲われたんじゃないかと心配したのよ」


 美咲は胸に手を当てて深い息を吐いた。

 この私の身を案じてくれていたとは、やはり恋人というのはよいものだ。これほど美しい女性がかように殊勝しゅしょうであれば、この私の伴侶はんりょとしても申し分ない。

 そのような女性には永久に巡り会えぬと思っていたが、万男ばんなんの理想たる彼女と親密なるこの私は、上格者じょうかくしゃの中でも格別なる人生の勝利をつかんでいると言って間違いない。


ただしさん? 大丈夫?」


「あ、ああ、すまない。君に迷惑をかけないためにも、今後はこのようなミスをせぬようきもめいじていたところだ。さあ、行こうか」


 この私は美咲とともに車に乗り込み、港を目指して発進した。

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