蒼穹の彼方に輝く星

那月 結音

蒼穹の彼方に輝く星

「よろしいですね。けっして民と言葉を交えてはなりませんよ。触れ合うことなどもってのほか。貴女は神子——〈神の子〉なのですから。そのことを、ゆめゆめお忘れなきよう」

 今日も昨日と同じ。

 幼い少女を前に、女性神官は、同じ表情で同じ言葉を繰り返す。

「はい、わかっています」

 少女もまた、昨日と同じように頷いた。

 首を振った際、金冠の両端から垂れ下がった飾りが、しゃらりと揺れる。薄紅を差したあどけない唇が、慣れたように笑みを象った。

 目が灼けそうなほどの赤地に、金色の刺繍がふんだんに施された装束。両の手首や指には、豪奢な腕輪や指輪が光っている。

 年不相応にも見える風采だが、これが少女の——ターリアの正装なのだ。

「では、ターリア様。支度が整いましたら、礼拝の間へ」

 抑揚のない女性神官の声が、無機質な空間に再度反響した。

 ここは、神殿内部に設けられたターリアの自室。彼女は一日に二回、自室と礼拝の間との往復を強いられる。

 白い髪に赤い瞳。白磁を彷彿とさせる薄色の肌。

 民の多くが褐色の肌と黒い瞳を有するこの国では、彼女はまさに異色の存在だった。

 いわば、この小さな国において、彼女のこの特異な容姿こそ、彼女が〈神の子〉たる所以なのである。

「ターリア様、お願いです! 娘の病気を治してください!」

「穀物が不作で……雨を……どうか雨を……!」

 今日もまた、ターリアに救いを求めた人々が神殿に押し寄せる。冷たい床に擦りつけるように頭を下げる。

 彼女に祈りを捧げるそのために、彼らはこの場所にやってくるのだ。けっして安くはない対価までも支払って。

「……」

 彼女は言葉を発しない。祝詞をあげることもなく、黙々と自身の前に跪いた者の頭上に手を翳す。

 神子として初めてここに座した日からずっと、彼女は一日も欠かすことなく自身の務めを果たしてきた。

「ありがとうございました……!」

 祈り終えた人々は、皆一様に安堵した様子でターリアの前を去ってゆく。

 祈りが届けばターリアのおかげ、届かなければ、それは信心が足りなかったせいだと自責する。

「……」

 今日も昨日と同じ。

 毎日が、同じことの繰り返し。


 ターリアが〈神の子〉として、この神殿に生を受けたのは十四年前のこと。物心ついたときには、彼女はすでに神子として祀られていた。

 ——貴女には、貴女をお産みになった神の力が備わっているのです。

 そう、教えられた。

 ——貴女の存在が、民に希望を与えているのですよ。

 そう、告げられた。

 ターリア自身、神官たちの言葉が嘘だとは思っていない。外界から完全に隔離された彼女にとっては、この神殿で起こる事象だけが真実なのだ。

 自分は〈神の子〉。自分には、民を救う力がある。……けれど、実のところ、彼女の心は揺れていた。

 今から遡ること三年前。

 彼との出会いが、彼女の運命に、大きなうねりをもたらした。



 ◆



「アステル!」

 陽だまりの散りばめられた庭園に、少女の声がこだまする。まるで翠緑の樹々のように瑞々しく、咲きほころぶ花のように可憐な声。

 少女の視線の先には、ひとりの壮年男性の姿があった。

「おっ、着替え終わったのか?」

 名前を呼ばれた彼——アステルは、自身のもとへと駆け寄ってくる少女に笑顔を向けた。

 少女の名前とともに労いの言葉をかけてやる。すると、さらに彼女は人懐こく破顔した。

「お勤めご苦労さん。ターリア」

「ありがとう」

 アステルの言葉に、ターリアは照れた様子ではにかんだ。あどけないその姿は、十四歳の少女そのもの。化粧を落としてもなお血色のいい薄桃色の頬が、緩やかに上がる。

 礼拝の間での務めを終えた彼女は、派手な着飾りをすべて解き、白く清楚な平時の装いへと戻っていた。紅蓮の正装を纏っているときに比し、その足取りは心なしか軽やかである。

 ……服装のせいだけではない。

 アステルと話すこの時間が、ターリアにとって、唯一自分を解放できる貴重な時間なのだ。

 アステルは、ターリアの身辺警護を司る元傭兵。礼拝の間においては、腰に長剣をび、常に彼女の傍らに控えている。

 異国人ゆえにその肌は白く、翠色すいしょくとも碧色へきしょくともとれる双眸は、さながら輝く宝石のよう。

 少々癖のある髪は、星月夜を思わせるような深い深い藍色。そして、形のいい顎に生えた無精な鬚が、彼の印象をより強いものにしていた。

 ともするとターリアよりも目立つ外見のアステル。よって、表に出る際には、黒紅のローブを頭から被っているのだ。

「体調はどうだ? 良くなったのか?」

「うん。昨夜に比べたら、ずいぶん良くなったよ」

 昨夜、ターリアは国王より直々に宮廷へと招かれていた。国教の神子である彼女は、国王でさえもこうべを垂れる存在だ。

 司教はじめ数名の上位神官、それからアステルとともに国王主催の宴に出席したのだが、体が不調をきたしたため、大事をとって早々に退廷したのである。

「陛下に悪いことしちゃった」

「体調不良なんだから仕方ないだろ。お前は悪くない。気にすんな」

 眉をひそめて笑みをこぼすターリアに、アステルはきっぱりとした態度でこう告げた。ぶっきらぼうな物言いだが、そこに多分な優しさが込められていることをターリアは知っている。彼の人となりは、彼とともに過ごした年月が教えてくれた。

 アステルがこの国にやってきたのは、今からおよそ三年前。前任の警護が病の床に伏した翌日のことだった。

 それまで警護にはすべて国内の人物を充てていたのだが、今回初めて国外出身の彼を起用することとなった。彼を雇うに至るまでの詳細な経緯は不明だが、習わしを重んじる神殿——ことさら司教——がそれを覆すなど、腕っぷし以外に何かよほどの理由があるらしい。

 だが、そんな大人の事情など、ターリアには関係のないことだ。

 今まで自分を守ってくれた人たちのことを悪く言うつもりはない。もちろん感謝しているし、敬意だって抱いている。

 けれど、「気にするな」などという、なんとも直情的で、なんとも優渥な言葉をかけてくれたのは、アステルが初めてだったのだ。

「ねえ、アステル」

「ん?」

「……ありがとう」

「どうした? 改まったりなんかして」

「どうもしないよ。……言いたかっただけ」

 ターリアの唐突な謝辞に一瞬目を丸くするも、アステルはまたすぐに微笑んで見せた。自分に向けられた純粋な謝意が、この上なく心地いい。

 もどかしさすら、感じるほどに。

「あんまり長い時間話してると、また司教に怒られちゃうかな。この前の話の続き、聞きたかったんだけど」

 ターリアの言う〝この前の話〟とは、いわゆる〝外の世界の話〟。

 神殿と宮廷という限定されたふたつの場所しか、ターリアはらない。国外はおろか、国内の事情でさえも、識らないことのほうが圧倒的に多いのだ。でも、それでいいと思っていた。識る必要性すら感じていなかった。自分は、この国の神子だから。

 しかし、異国人であるアステルと出会い、彼の人柄やその深い知見に触れれば触れるほど、識りたいという欲求はうずたかく積もっていく。

「俺は別に司教にどやされるくらい構わないけどな」

 アステルを警護に据えたのは、ほかの誰でもない司教だ。神殿の最高責任者である司教の決定は絶対。司教の言は、時として〈神の子〉であるターリアのそれよりも重い。

 そんな司教。どうやら、アステルがターリアと必要以上に睦まじくなることを良しとは思っていないようで、以前ふたりを咎めたことがあったのだ。

 以来、ふたりは司教の目を盗み、こうして建物の外で会うようにしている。

「……でも、昨日のこともあるし、今日は部屋に戻って早いとこ休んだほうがいいな。話の続きは、また今度だ」

「……うん」

 残念そうに苦笑を漏らしたターリアは、「また明日ね」と言い残すと、踵を返し、小走りで戻っていった。

 その背中は、心なしか翳りを帯びていた。

「……」

 彼女の部屋へ赴くことは禁じられている。そのため、遠くなる背中を見送ることしか、アステルにはできない。

 手を伸ばせば届く距離にいた。頭を撫で、背中を押せる距離にいた。けれども、どれも行動には移せなかった。

 彼女には——神子には、触れること叶わない。

「……必ず助けてやるからな」

 陽だまりに落とされたアステルの決意。彼女を前にし、空を切らざるを得なかった手にグッと力を込める。

 気持ちを入れ替え、何かを真っ直ぐに見据えると、静かに一歩を踏み出した。



 ◆



「準備は整っておるか?」

「はい、着々と」

「次の〈白うさぎ〉の目星は? 今回はずいぶんと時間を要しておるようだが」

「申し訳ございません。ようやく見つかりましたので、ご安心を。月を跨ぐ前に、司教のもとへ連れて参ります」

「やっとか。……今の〈白うさぎ〉は、思いがけぬ形ではあったが、もうすでに飼い主が決まっておる。これでまたしばらくは安泰だな」

「ええ。……ですが、なぜあのような傭兵風情が、あのような大金を?」

「知るか。金の出処なぞどうでもいい。小娘に大枚をはたくどころか、無償で警護を引き受けるなど、こちらとしては願ってもいないことだ」

「いろいろと外の話を吹き込んでいるようですが……」

「一度は釘を刺したのだがな。……まあ、大勢に影響はないだろう。それに、あとひと月だ。せいぜい仲良くすればいい。お前たちは、次の〈白うさぎ〉を私のもとまで確実に連れてくることだけを考えていろ」

「……仰せのままに」

「この国の王も民も……すべては私の意のままだ」



 ◆



 夜の近づく空と山の稜線。その境界が曖昧になるころ。

 ターリアは、ひとり自室で過ごしていた。ベッドに腰かけたまま、とくに何をするでもなく、窓越しに景色をぼうと眺めている。

「もっと、話したかったな……」

 先ほどのアステルとのやり取りを想起し、短く溜息をついた。置物の少ないこの部屋では、小さな吐息でさえもよく響く。

 何かをしたいという欲求は、神官たちの前では口に出さない。なんとなく出してはいけないような、そんな空気が漂っているからだ。事実、「どうしたいですか?」などという問いかけも、いまだかつてなされたことはない。

 神子が何かを欲するという気持ちは、悪なのだろうか。民の祈りを神に届けることだけが、神子にとっての善なのだろうか。

 ……わからない。

「こんなこと考えちゃだめだよね。ごめんなさい、神様」

 自分は〈神の子〉。神と民とを繋ぐ目的でこの世に産み落とされた存在。

 神のために、生きる存在。

 神子は、十五歳の誕生日を迎えると同時に、神のもとへと還るらしい。肉体が現世から切り離されることで、また新たな神子が生まれるのだそうだ。

 肉体が現世から切り離される——それは、すなわち〝消滅〟を意味する。

 建国して以来ずっと、この崇高なサイクルを繰り返しているのだと、幼い時分に教育された。

 自身の体が消えてなくなることに対し、彼女が恐怖をおぼえたことはない。それが神の思し召しなら、神子である自分はそれに従うだけの話。

 抗うことなど許されないし、そもそもそんな観念すら彼女の頭には存在しない。

「……もっと、一緒にいたかったな……」

 心残りがあるとすれば、ただひとつだけ。

 彼と一緒にいたい。ただ、それだけ。


 神子ターリアの誕生日は、来月の今日。

 ひと月後。彼女は、十五歳を迎える。





 ◆ ◆ ◆





 清爽な風が、白くて長い睫毛を揺らす。くすぐったいという知覚はあるが、なんとなくもったいない気がして、目を開けられずにいた。

 このまま微睡んでしまいたい。そんなふうに思案していた矢先。

「ったく。……こんなとこで無防備に寝るな」

 影と同時に落とされた、聞き馴染みのある声。その色は、お世辞にも明るいとは言えなかった。

「起きてるよ」

「そういうことは目を開けて立ち上がってから言え」

 木の根元に腰を下ろし、瞑目したままのターリア。そんな彼女の屁理屈に対し、アステルは呆れ顔ですぱっと切り返した。……差し出そうとして力を込めた腕を、そっと引っ込めながら。

「はーい」

 口元に悪戯そうな笑みを浮かべ、ターリアは言われたとおり立ち上がる。そして、空を仰ぐように首の角度を変えると、静かに両目を開いた。

 赤く透き通った瞳。瞼に少しだけ掛かった白い前髪が、さらりと微風に流された。

 その様相はまるで、故郷の雪原を駆ける——

「——〈白うさぎ〉」

「……え?」

 アステルの口から発せられた耳馴染みのない言葉に、ターリアは思わず聞き返してしまった。一瞬にして下がった口角。ただでさえ大きな目が、さらに大きくなっている。

 きらきらと陽光を浴びた彼女の紅玉は、いまにも零れ落ちてしまいそうだ。

「いや、なんでもない。……そんなことより大丈夫か? 毎晩ちゃんと眠れてるのか?」

 それ以上話が膨らむことを回避しようとしたのだろうか。アステルが話題を逸らしたことは自明であった。

「大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」

 だが、彼の真意は、どうやらターリアには伝わっていなかったようだ。

 ほっと胸を撫でおろし、会話を続ける。

「昨日の夕飯あんま食べてないんだって? 御付おつきの神官がぼやいてたぞ」

「だって食べられなかったんだもん。悪いことしたって、思ってるけど」

 俯き、眉をひそめる。きゅっと結んだ唇には、悔悟と謝罪の色が滲んでいた。

 ターリアの食欲が落ちていることは、アステルも知っている。睡眠が不十分なことも、気分が落ち込んでいることも。

 もちろん、それらの理由も。

「あっ、そうだ。夕飯で思い出した。この前の話の続き、聞かせてほしいな」

「え?」

「ほら。アステルの国では、牛とか鹿のお肉食べるっていう話。……美味しいの?」

 首を傾げながらも、ターリアはずいっと顔を突き出した。

 興味津々。身長差が甚だしいため、アステルとの距離が縮まることはほぼないが、期待感だけは余すことなく彼に迫っている。

「あー、まあ好みはあるだろうけどな。俺は美味いと思って食べてたけど」

 前回話した内容を想起しながら言葉を探る。

 彼女の質問は、その純真さゆえにいつもストレートだ。そこに駆け引きなどは存在しないし、はかりごとが潜んでいるわけでもない。

 すべては、無垢な知識欲という、ある種矛盾から成されたものばかりである。

「可哀想とか思わない? 神様は、怒ったりしないの?」

「なに。お前らの神って、肉食ったら怒るわけ?」

「そう教えられた。生き物を殺して肉を食べることは、神様に対する冒涜なんだって」

「んなこと言ったら、植物だって生き物だけどな」

「そう、だよね」

 この国で肉が食されることはほとんどない。たまに魚肉を頬張ることはあれど、それも年に数回程度。神職に従事する者に至っては、肉という肉をまったく食さない。いわゆる、菜食主義なのだ。

「……アステルの国の神様は、怒らないんだ」

「どうだろうな。実際会ったことも話したこともないから何とも言えないけど……少なくとも肉食べて咎められたことはないな」

「神様、優しいんだね」

「……優しいとか優しくないっていう話じゃないと思うぞ。それに、俺の国では、神はひとりだけじゃないしな」

「えっ!! 神様ひとりじゃないの!? ……何人いるの?」

「いっぱい」

「!?」

 しれっと言ってのけるアステルとは対照的に、ターリアの脳内では雷鳴が轟いていた。一神教で生きてきたターリアにとって、多神教という概念は、天変地異に匹敵するくらい強い衝撃だったようだ。

 いまだ頭がぐらついている彼女に、アステルはゆっくりと諭すように話を繋げる。

「俺の国では、大地には大地の神、海には海の神、星には星の神……ってなふうに、ありとあらゆるところに神が宿ると言われている。実際に神と会ったとか、神と話をしたなんてヤツはいないと思うが、皆それぞれその場所に神がいると信じてるんだ」

 豊作ならば、その土地の神に感謝し、大漁ならば、その海や水の神に感謝する。

 神との共存共栄。そうして国が栄えてきたのだと、彼の国の人々は信じているらしい。

「さっきの肉の話に戻るけど、可哀想だっていう気持ちはもちろん皆無じゃない。でも、生き物を屠り食べることは、けっして命を軽んじてるわけじゃなくて、そこに感謝の気持ちや尊ぶ想いがあれば、戒められることでも咎められることでもないと思う」

 文化や宗教は種々多様。土地や人が変われば、世界はがらりと変わる。それは当然であり必然。辿るべくして辿ってきた、人類の軌跡だ。

 しかし、すべての場所に共通して言えることは、その土地で生きる人々は皆、懸命に日々を生きているということ。

 さまざまな土を踏んできたアステルだが、初めてこの国を訪れたときは、肌にあたる風でさえも何か違うもののように感じられた。

 前知識として装備していた雨期と乾期を実際に体感し、雪の降らない冬を経験した。それから、この場所で懸命に生きる人々を——この子を、見つけた。

「……なんかいいね。そういう考え方」

「まあ、これは俺個人の意見だから、押しつけるつもりは毛頭ないけどな」

「うん、わかってる。ありがとう、話してくれて」

 ほころび、咲き誇るような、ターリアの笑顔。にせものでもつくりものでもない、ほんものの笑顔だ。

 つられて、アステルも破顔した。

 外の世界を識ることが、今の彼女にとって良いことか否か判断することは難しい。けれど、こんな顔を見せられてしまっては、彼に後悔する余地などなかった。

 乾期特有の清涼な風が、ふたりのあいだを吹き抜ける。小鳥たちが囀り、樹々の梢が音を立ててしなる。

 謳い、煌めく。

 手を伸ばしたい。これが、今のふたりの共通の願いだった。

 小さな小さな、儚い——。


「ターリア様!」

 突如、雷火のごとき怒声が、場の空気を震撼させた。

 ふたりが声の主に目を遣ると、そこにはターリアの付き人である女性神官が立っていた。建物の二階からふたりを見下ろし、睥睨している。

 彼女はターリアの名前を呼んだだけで、それ以上は何も口にしなかったが、明らかに「今すぐ部屋に戻れ」と催促していた。

「ごめん。わたし、戻らなきゃ」

「ああ。悪かったな、長いこと付き合わせて。……あの様子じゃ、司教以上にどやされるかもな」

「ううん。もとはと言えば、わたしがせがんだんだもん。それに、怒られるのは慣れてるから。平気だよ」

 明るく平然と振る舞って、いつものように「また明日ね」と言い残すと、ターリアは建物のほうへと踵を返した。

 それとほぼ同時に、ふたりを見下ろしていた女性神官が、急ぎ足でその場を離れた。まるで、何かに放逐されたかのように。

 ターリアの視界には入らなかったが、彼女の形相は、明らかに畏怖で歪んでいた。

 そして、ターリアが建物に一歩を踏み込もうとした、次の瞬間。

「ターリア!」

 不意に、アステルに呼び止められた。

 名前を呼ばれた彼女は、不思議そうな面持ちで振り返る。

 彼女の双眸に映った彼の表情。それは、普段の彼からは想像できないほどに、鋭く、真剣なものだった。

「これから先、何が起こっても……俺を信じろ」

 そうして彼の口から放たれたのは、なんとも意味深長で、なんとも力強い言葉。

 ターリアは、思わず息を呑んだ。

 いったいどういうことかと訊きたい気持ちが込み上げてきたが、彼女には時間がない。それに、今の彼の内側には触れられないような——触れてはいけないような、そんな気がした。

 でも、

「……わかった」

 迷わず、首を縦に振った。

 このときの彼女は、間違いなく神子としての敬虔さを欠いていた。彼の真意を窺い知ることはできないが、彼が自分を信じろというのなら、それに従うまで。躊躇いや罪悪感などはいっさいなかった。


 刻一刻と、〝そのとき〟が近づく。

 もうすぐ。ターリアは、神子としての終焉を迎える。





 ◆ ◆ ◆





「先刻、ようやく〈白うさぎ〉がこちらに届きました。此度も見事な容姿でございます」

「そうか。では、あとは神子の誕辰を待つのみだな」

「……本当にあの男を信用してもよろしいのでしょうか」

「お前はそればかりだな。あの男の何がそんなに引っかかるのだ」

「……」

「いいから申してみよ」

「……あの男の立ち居振る舞いを見ていると、ただの傭兵とは思えぬほどに整っています。わたくしどもを欺き、韜晦とうかいしているのやもしれません」

「はっ。考え過ぎではないか? 仮にそうであったとしても、我々の歴史に瑕がつくわけではない。我々の邪魔は誰にもできん。国王でさえもな」

「……」

「準備は整った。また、新たな時代が始まるのだ」





 ◆ ◆ ◆





 朝日に霞んだ稜線。連嶺に重なる雲が、東へゆっくりと動いている。

 赤い正装に身を包んだターリアは、自室でそのときが来るのを静かに待っていた。窓越しに広がる景色も、これで見納めだ。

 今日は、神子の誕生日。

 これから、彼女は神のもとへと還される。

「支度は整いましたか?」

 扉をノックすると同時に聞こえてきたのは、御付の神官の声。毎朝聞いていた声だが、これもまた聞き納めである。

 とげとげした緊張を抑えるように深呼吸をひとつ。「はい」と短く返事をすると、扉が開かれた。廊下に向かって、おもむろに一歩を進める。

 カチャンと音を立てて閉扉する瞬間、ターリアは、十五年過ごした自室に別れを告げた。

「儀式については、先日お伝えしたとおりです。もう一度お聞きになりたいですか?」

「いえ、大丈夫です」

 並んで歩く道すがら、初めて意思を尋ねられた。これが最初で最後の問いかけかと思うと、もはや笑うしかない。

 心の中で小さく苦笑する。ふと、隣を歩く神官との過去を想起してみた。

 彼女とは長い付き合いだが、いくら記憶を呼び起こしてみても、笑った顔を思い浮かべることはできなかった。自分のような出来の悪い神子のせいで、苦労が絶えなかったのかもしれない……なんて、うっすらと申し訳なさすら覚えてしまう。

 しかし、よくよく考えてみれば、自分も笑ったことなどなかったのだ。笑いたいと思える要素がなかったし、そもそも笑う必要がなかった。

 三年前、アステルに出会うまでは。

「……」

 消えてなくなることは怖くない。けれど、彼と二度と会えなくなることが何よりもつらかった。

 おそらく、彼は儀式には参列しない。もう、神子を護衛する必要はなくなったから。

「あ、あの……っ」

「なんでしょう?」

「彼には……アステルには、もう会えないんですか?」

「……儀式の前には、お目にかかれると思いますが」

「そう、ですか」

 ほっとしたような、苦しいような、なんとも言えない胸の内。鼻の奥がつんと痛み、目頭が熱くなった。

 ターリアは、生まれて初めて、泣きそうになった。


「こちらです」

 ターリアが案内されたのは、神殿の最深部だった。

 十五年間神殿で生活してきた彼女だが、いまだかつてこの場所に足を踏み入れたことはない。

 仄暗い水底のような、不気味な空間。一歩床を踏みしめるたびに、冷たく尖った音が反響した。

 儀式が行われるのだろう部屋の前には、数名の上位神官たちが佇んでいる。なにやら物々しい雰囲気だが、そこに司教の姿は見当たらなかった。

 それに、アステルの姿も。

 この部屋に入ってしまえば、自身を迎えにきた神とふたりきりになる。そう、神官に教わったのに。

「では、ターリア様。わたくしとは、ここでお別れです」

「!?」

 突として神官から浴びせられた言葉と視線に、ターリアの背筋はぞくりと凍りついた。

 これまでにも、彼女に温かい印象など持ったことは一度としてない。だが、これまでの態度が比にならないほどに、今の彼女からは刺すような冷たさしか感じられなかった。

 まるで、細く尖った氷柱のように。

「今までご苦労様でございました。どうぞ……良い御余生をっ!」

「きゃっ……!!」

 勢いよく室内へと突き飛ばされたターリアは、そのまま硬い床へと倒れ込んだ。床に体をぶつけた痛みを感じるひまもなく、上体を起こし、辺りを見渡す。

 すると、部屋の奥で、蝋燭に浮かび上がったふたつの影を視認した。それらは、靴音を立てながら、ゆっくりとターリアのもとへ歩み寄ってくる。

 ひとりは、豪奢な祭服を纏った司教。

 そして、もうひとりは、

「……アス、テル……?」

 例のごとく、黒紅のローブを頭から被ったアステルだった。

「どうして、アステルがここに? 儀式は……」

「儀式などありませんよ、神子様。……いや、お前はもう神子ではないな。ここに連れてきたときと同じ。ただの異国の〈白うさぎ〉だ」

「……しろうさぎ?」

 〈白うさぎ〉——この言葉を耳にしたのは、これで二度目だ。

「気になるか? この国には生息していないからな。……白い毛と赤い目。お前たちの希有な容姿を喩えた言葉だ。今までご苦労だったな」

「……」

 これらの司教の発言から、ターリアは悟ってしまった。

 自分は——自分たちは、〈神の子〉などではないということを。

 力があるわけでもなければ、神殿で生まれたわけでもない。外から連れてこられた、普通の少女だということを。

「……っ」

 消えてなくなることは怖くない。……怖くないはずだった。それなのに、彼女は今、たとえようのない恐怖に苛まれている。

 彼女の恐怖の対象、それは、うすら笑いを浮かべる司教ではなく、表情の見えないアステルのほうだ。

 床に滴下された大粒の真珠。

 彼女の赤い両目から零れた雫が、頬を伝って、ぽたりぽたりと床に落ちてゆく。

「……アステル、お願い。何か言って……」

 彼女が震える声で哀願するも、彼は何も話さなかった。相変わらず、ローブに隠れた顔色を窺うことはできない。

「おやおや、いまさら仲違いか。これまでのように睦まじくしていればよいものを。……今日から此奴が、お前の飼い主になるというのに」

 司教の口から次々に語られる真実。

 先代も、先々代も……歴代の神子たちはすべて、儀式と称してこの場所から司教の邸宅へと連れ込まれ、愛玩用として他国へ売り飛ばされていったらしい。

 そして今回、ターリアを買ったのは、ほかの誰でもないアステルだというのだ。

 涙が止まらない。

 行き場を失った感情をコントロールする術など、ターリアは持ち合わせていなかった。

 どうしてこうなってしまったのか。自分はこれからどうなってしまうのか。

 いくら考えたところで、答えなど見つかるはずはない。

 自分はただのお飾りだった。偽りの存在だった。

 そして、アステルも……。


 ——これから先、何が起こっても……俺を信じろ——


 刹那。

 ターリアの中で、何かが弾けた。

 はっとし、いまだ口を噤んだままのアステルのほうへと視線を向ける。

 あのとき、確かに彼はこう言った。「自分を信じろ」と。そして、自分は迷うことなくそれに応えたのだ。

 あのとき、約束した。


 自分は、


「ふむ……そろそろ頃合いだな」


 何が起こっても、


「この娘をどこに連れていくのかは知らぬが、陽が沈むまでは、お前たちふたりとも私の屋敷で大人しくしていてもらうぞ。さあ来い」


 彼を、


「いやっ」


 信じるのだと。


「触らないでっ!!」

 司教に捕えられるすんでのところでその腕を振り払い、ターリアは駆け出した。床で強打した体が痛んだけれど、そんなことなんかどうだっていい。

 彼女は、飛び込んだ。

「……っ、アステル……!!」

 信じた、彼の胸元へ。

「…………やっとお前に触れられた」

 頭上から降り注いだ優しい声。それは、まぎれもなく彼のものだった。

 彼女を抱きとめた反動で顕わとなった相貌。

 藍色の髪も、宝石のような青い瞳も、微笑んだ顔も、いつもと同じ。

 彼女のよく知る彼——アステルその人だった。

「信じてくれてありがとな。もう大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」

 抱き締めたターリアの耳元でこう囁くと、アステルは彼女を解放し、司教と対峙した。彼女を守るように、自身の一歩後ろへと下がらせる。

「……どういうつもりだ」

「勘違いすんなよ。先にケンカ吹っかけてきたのは、あんたらのほうだからな」

「なに?」

「十五年前、あんたらは俺の故郷で生まれて間もない赤子を誘拐した。それがターリアだ。父親は失意のうちに病死。母親は、今この瞬間も娘の帰りを待ち望んでいる」

「まさかっ……!! その娘を連れ帰るためだけに、お前はあんな大金を払って警護に就いたというのか!?」

「ああ、そうだ。根回しやら何やらで、三年も費やしちまったけどな」

 ターリアが誘拐されたことを知ったアステルは、仕事の傍ら、ずっと彼女のことを探し続けていた。国内だけではなく、国外においてもその太い人脈を駆使し、必死に情報を収集した。

 そうして三年前。ようやくこの国で、彼女を見つけ出したのである。

「お前は、いったい……!!」

 たったひとりの少女のためにいくつもの国境を跨ぎ、たったひとりの少女のためになんの躊躇いもなく大金を投げ出せる地位の持ち主。

 ふるえおののく司教に向かい、アステルは、冷厳な態度でこう言い放った。

「……弟だ。現国王の、腹違いのな」

「なんだとっ!?」

 アステルの正体は、傭兵ではなく、国王の異母弟。すなわち、王家に属する者。

 これには、彼の後ろに控えているターリアも、大きく目を見開いていた。ひと回りもふた回りも大きく映じた彼の背中に、得も言われぬ威厳を感じる。

「くそっ!! こうなった以上、お前たちふたりをここから逃すわけにはいかぬ……!!」

「やめとけやめとけ。陛下は驚くくらい過保護でな。異国で頑張る弟を労って、仲間を寄こしてくれるらしい」

 ため息混じりに司教を一蹴。なにやら含みを持たせた物言いだったが、とたんに部屋の外が騒がしくなった。まるで、アステルのこの言葉が合図となったかのように。

 喧騒がしだいにこちらへと近づいてくるなか、さらに彼はこう続けた。

「そのうえ、何よりも民のことを強く想っている。今回の件、大事な民を愚弄されたと、宮廷に対してもたいそうご立腹のようだ。……事は国際問題。ただですむと思うなよ」

 悪事をすべて暴かれるのは時間の問題。長い年月をかけ、代々築き上げてきた壁が、一気に音を立てて崩壊した。

 一日にして窮地に追い込まれた司教。

 悔しさに染まった彼の咆哮が、冷たい空間に虚しく響き渡った。



 ◆



 あのあとすぐ、駆けつけた師団兵の誘導のもと、ふたりは神殿の外へ出た。まだ半日しか経っていないというのに、一週間分の体力を消耗した気分だ。

 外には、神殿を包囲するように複数の兵士たちが待機しており、皆一様に安堵の表情を浮かべていた。

 それもそのはず。

 この国に潜入するまで、アステルはこの師団の長として彼らを率いていた。つまり、彼らは皆、アステルの直属の部下たちなのだ。

「ずっとわたしのこと、探してくれてたの?」

 こんなにも重要そうな地位を不在にしてまで自分のことを……そう考えると、とたんに申し訳なさが込み上げてきた。

 そんなターリアに対し、ふわりと微笑むと、アステルは無言で彼女の頭を撫でた。

 気にすんな。

 翠色すいしょくとも碧色へきしょくともとれる双眸が、そう語っている。

 ふたりが軍医から簡易な診察を受けているあいだ、着々と帰還の準備は進められた。とはいえ、数名はこのままとどまり、国王陛下の指示に則した諸々の処理を行ったのちに帰国するのだそう。

 誘拐された赤子も無事に保護され、各国に売られてしまった歴代の神子たちも、すでに何名かは発見されているらしい。

 時間はかかるだろうが、きっと好転するはずだ。

「大丈夫か?」

「……うん」

 ひと足先に乗り込んだ馬車の中。

 神子という呪縛から解き放たれたターリアだが、その顔は翳っていた。

 無理もない。一度にたくさんのことが起こり過ぎたため、頭や気持ちの整理が追いつかないのだ。

「……お母さんに、どんな顔して会えばいいのかな。いまさら会って、ちゃんと家族になれるかな」

「んなこと心配しなくていい。親子なんだ。……何年経ったって、どんだけ離れてたって、あいつはお前の母親なんだから」

「アステル、わたしのお母さんのこと知ってるの?」

「ああ、よく知ってる」

「どんな人?」

「お前によく似てるよ。顔も性格も」

 初めてターリアを見たとき、あまりにも子どものころの彼女に酷似していたため、言葉を失った。そして、名前こそ変わってしまっていたが、絶対にこの子だと確信した。

 ターリアの母親とアステルは、母親同士が姉妹の従姉弟いとこ。ゆえに、アステルにとって、ターリアは従姪じゅうてつにあたる。

 黙っていてもいずれはわかることだろうが、今はまだこの関係を告白するつもりはない。

「アステル様! 帰還の用意が整いました!」

「おっ、ご苦労さん」

「すぐにでも出発いたしますか?」

「ん? いや、お前らのタイミングでいい。任せる」

「了解いたしました!」

 何も急ぐ必要などない。

 時間は、たっぷりあるのだから。 

「さて、と。晴れてお互い自由の身になったわけだが……何かやりたいことあるか?」

 アステルの問いかけに、ターリアは思案を巡らせる。まさか、もう一度自分の意思を問われることになるなんて、夢にも思わなかった。

 悩みに悩んだすえ、うっすらと頬を染めた彼女が出した答え。

 それは——


「……お肉、食べてみたいな」


 彼があの日話してくれたことや、そのとき感じた想いは、生涯忘れることはないだろう。

 食べ物にかぎらず、彼が故郷で見聞きしたものを、自分も一緒に共有したい。

 感謝して、尊んで、泣いて、笑って。

 その感動を、自分の言葉で紡ぎたい。

 彼と一緒に、生きてゆきたい——。


 ふたりの頭上に広がる、どこまでも澄んだ蒼穹。

 その彼方に、きらりとひとつ。


 星が、輝いた。


 〈END〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼穹の彼方に輝く星 那月 結音 @yuine_yue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ