第9話 過去


「夕飯のおかず、何にしようかな?」


 りんはスーパーの精肉コーナーをぐるりと見回した。夕方のスーパーはそこそこ混雑している。

 ふと、カゴを持つ自分の左手に目を止めた。微妙に差異のあるスペアの義手に、居心地の悪さを感じる。


『────凛ちゃん、悪いんだけど、明日また来てくれるかな? ちょっと部品が足りないんだ。明日までには直しておくから、今日のところはスペアの義手をつけていって』


 恭介きょうすけと別れて階下の義肢製作所に戻ると、申し訳なさそうな顔で鷲須わしずが待っていた。

 部品が足りないということは、部分が壊れたということだ。流通していない部品は、鷲須が自分の手で作る。時間がかかるのは仕方がない。

 明日の時間を確認し、凛はそのまま帰路についた。

 今は最寄りのスーパーで買い物中だ。


「あ、手羽元が安い!」


 メニューは決まった。手羽元と大根の煮物だ。ゆっくりコトコト煮込めば、手羽元がほろほろになって美味しい。


(ひとりだと何日も同じものを食べたりするけど、りゅうがいるからたくさん煮ても大丈夫だね!)


 明日のお弁当の分まで必要な食材をカゴに入れてゆき、レジの近くでヒゲ剃りに気づいてそれもカゴに入れる。

 無精ひげのなくなった黒川の顔を想像しながら、凛はうきうき気分でスーパーを出た。


「あれぇ! おまえ、もしかして凛?」


 背後から掛けられた声に、体が固まった。

 温かな気分は急速降下し、凛はマイナス三十℃の眼差しで振り返った。予想通りのニヤケた顔を認めると、凛はげっそりと息を吐いた。


「久しぶりじゃん。おまえ、いまどこに住んでるの?」

 従兄の恵介けいすけだ。今年の春、どこかの有名大学へ進学したはずだ。

「べつに。あんたには関係ないでしょ」

 凛はすぐさま踵を返しその場から立ち去ろうとした。しかし恵介が彼女の腕をつかんで引き留めた。


「待てよ。一人暮らしで寂しいんじゃないの? なんならおれが慰めてやるぜ」

「ふざけたこと言ってないで、放しなさいよ!」


 凛はつかまれた腕を振って恵介の手を払おうとしたが、なかなか外れない。買い物袋をすばやく肩にかけ直し、空いた手で恵介の手を引き剥がしにかかるが、それでも駄目だった。


「おまえんちどこ? ほら、立ち止まってないで歩けよ」

「嫌だって言ってるでしょ!」

 凛は大声を上げた。

 その声に逆上した恵介が、凛の横面をパシッとはたく。


「おいっ、そこ、何をしている! 警察だ!」

 駐車場の方から黒いコートの男が走って来る。

「やべっ」

 恵介は凛から手を放すと、そそくさと逃げて行った。


「大丈夫か? 怪我はないか?」

「あ、うん」


 黒いコートの男は黒川だった。

 何てタイミングで現れるんだろうと、凛はマジマジと彼の顔を見上げた。無精ひげに覆われた精悍な顔が、今はやけに頼もしく見える。


「もしかしてナンパか?」

「違う。あいつ従兄なの。すっごいゲス野郎でさ、あたしがあいつンちに住んでた時なんて、夜這いしてきたんだよ。あたしが暴れて親に見つかったらさ、急に態度を変えてあたしが誘ってきたなんて言ったの。ひどいでしょ……」


 もう過ぎたことだと笑おうとしたのに、うまく笑えない。


「……それで親戚の家を出たのか。確かに、あんな奴が同じ屋根の下に居たら安心できないな」


「でしょ。あっ、でもね、あいつや叔母とは上手くいかなかったけど、叔父には感謝してるの。有名な技術者を探してくれて、義手を作ってくれたの。すごいんだよ! もともとヒューマノイドの技術者だった人だから、細部まで精巧だし、動きもスムーズでしょ?」


 いつもより饒舌なのは、恵介に怯えていた自分をごまかすためだったかも知れない。

 そんな凛の微妙な差異をくみ取ってくれたのか、黒川は黙って歩きながら、凛の髪をくしゃくしゃっと撫でてくれた。



 〇     〇



 コトコトと湯気を上げる鍋を見ながら、凛は洗い物の手を止めた。


「龍、お弁当箱は?」


 リビングのソファーに座る黒川の背に声をかけるが、返事はない。

 エプロンで濡れた手を拭きながら近づいてみると、彼はテレビのニュースを子守唄にうたた寝をしていた。


(疲れてんのかな?)


 凛は黒川の黒いリュックを探した。リビングには見当たらない。帰宅して着替えたときに、部屋に置いたのだろう。


(弁当箱とるだけだから、いいよね?)


 ひとの部屋に勝手に入るのは気が引けるが、好奇心もある。

 凛は一度廊下に出てから、無機質な白いドアを開けた。


「へぇ、意外とちゃんとしてるじゃない」


 整然とした室内をぐるりと見渡してみる。

 正面には窓。右側の壁にそってベッドがあり、グレーの上掛けがかかっている。左側の壁には腰高のチェストが作りつけられていて、窓際の一部はライティングデスクになっている。その前にあるイスの上にリュックがあった。

 凛はそっと部屋に入ると、リュックの中から弁当箱を取り出した。


 何の気なしに見たライティングデスクの上には、ハガキ大の写真が置かれていた。にこやかに笑う女性の写真だ。


(遺影だ)


 どういう訳か、凛はそう思った。

 何もない机の上に置かれた白いフォトフレームの写真。その前に置かれた白いビロードの指輪の箱が、凛の目には供物のように見えた。

 無意識に手を伸ばして指輪の箱を手に取った。心の中ではいけないと思いながら、どうしても止めることが出来なくて、蓋を開けた。


「ヒッ……」


 悲鳴を上げそうになって堪えた。

 プラチナ台のダイヤモンドリングの中に、干からびて黒ずんだが入っていた。


「────元に戻せ」


 背後からかかった声に、凛はもう一度悲鳴を上げそうになった。

 つかつかと入って来た黒川に指輪の箱を奪われ、呆然と見上げた。

 黒川は指輪の箱をもとの位置に戻すと、ばつが悪そうな顔で凛を見下ろした。


「気味悪いだろ? どうしても手放せなかったんだ。……おれの婚約者は、おまえの家族と同じ場所でテロにあった。これは彼女の指だ。奇跡的に無事だった……彼女の一部だ」


「あ……」


 喉の奥が痛んだ。辛い記憶が怒涛のように押し寄せてきて、凛はその場に座り込んだ。

 凛の家族は、比較的傷みが少ない方だったと聞いていた。それでも、左手を失った凛が入院している間に、親戚の手で荼毘に付された。それはきっと、残された者が見るにはあまりに辛い状態だったからだろう。

 自爆した〈明日香〉の近くにいた人たちは、凛の家族とは比べられないほど酷い有様だったらしい。合同で葬儀を行わねばならないほど、遺体の損傷が激しかったのだ。黒川の婚約者は、おそらくそのうちの一人だ。


『────名前で呼ぶな!』


 先日聞いた、苦しげな黒川の声が耳に蘇る。

 名前で呼ぶことの意味を、その残酷さに、凛はいま初めて思い至った。


「ごめん……あたし、あなたの傷を、抉った?」


 込み上げてくる熱いものを何とか押し留めようとしたが、それも出来なくて、凛は滂沱の涙を流した。


「そんなことはない。大丈夫だ。おれは……おまえの強さを尊敬してるよ」


 大きな手に頭を包まれ、静かな声に安堵し、凛は黒川の胸にしがみついた。


「ごめん。ごめんね。あたし……もう名前で呼ばないから」



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