02 水龍の最期

 ――死んだ。

 湖から宙に飛び出した水龍は確信する。


 簡単に喰える獲物だと思っていたのだ。


 湖のほとりに立っていたのはひとりの人間。

 簡素な服装に身を包んだ、無防備な男。


 だったはずなのだ。


 だからこそ、水龍は湖から飛び出した。

 己の縄張りを荒らす愚かな人間に罰を与える為に。


 龍は生態系の頂点だ。飛龍であろうと、水龍であろうとそれは変わらない。

 ほとんどの場所で、生態系の頂点に龍は存在している。

 

 そして人間は弱く、脆い生物だ。

 繁殖力が高くて数だけはいるが、戦闘面においては装備さえなければ最弱クラスである。魔力も筋力のどちらかは、どんな種族と比較しても必ず劣っている。


 故に水龍は、最弱の存在に自らの縄張りへ土足で入られたことを良しとしなかった。

 唯一の懸念材料である装備品もない。そんな人間が湖のほとりに立っている。


 水龍がなんの対策も打たずに飛び出しても責められはしないだろう。


 そも、この水龍は元々は別の場所にいたのだ。

 ここの湖は確かに大きくはあるが、こんな場所に収まる器ではない。


 海の王者。

 それがこの水龍の昔の二つ名だった。


 若い頃は戦いに明け暮れ、他の種族や龍族と争い、勝利を重ねていた。

 それがもう数千年前の話。


 やがて相手になる存在もいなくなり、いるのは若さの勢いだけで威張り散らす小物ばかり。そんな水龍の情勢を嘆きながら、年老いてきた水龍は隠居を決めた。


 騒がしい海ではなく、静かな湖を目指して。


 結果、水龍はこの湖まで移動してきたのだ。

 水龍からすれば鎧袖一触だが、モンスターにしては強力な者が多い森。その中心にある大きな湖へ。


 ここを住処にして百年は経過しただろう。

 龍としての寿命が近くなっていたが、それでもまだまだ誰にも負ける気はしていなかった。


 ちょくちょく現れる他種族や人間、モンスター相手にはわずかに顔を出して威嚇すれば逃げ去っていく。

 それで去らなければ、軽くしっぽを薙ぐだけで終わりだ。


 回避できたのならその威力と迫力に逃げ帰る。

 回避ができなかったのなら、そのまま湖のほとりに立つ木で挟み込んで絶命させる。


 避けられる余地を残す為に、決して全力でしっぽを振るったりはしない。

 それが強者というものだ。


 それだけの行動で水龍の強さは伝わっていったのだろう。

 ここ数年は誰も現れなかった。水龍は静かなこの空間が非常に気に入っていた。


 それが、今日。

 薄布程度の服装で現れた人間に破られたのだ。


 ここに現れる人間は重装備をしていることがほとんどである。

 身軽な装備だとしても、なにかしらの力を感じたりしたものだ。

 それは魔術師であったり、盗賊と呼ばれる職業であったのだろう。


 だが、この人間はダメだ。

 あまりにも舐めすぎている。


 水龍の噂を聞いて来たのならば論外であるし、そうでないとしても世間を甘く見ている。

 こんな軽装で歩き回る人間など、すぐさまモンスターに殺されてしまうはず。


 その人間の理由の真偽はともかく。

 自身を甘く見られたと感じた水龍は、久方ぶりの怒りに身体を支配された。


 思っていたより歳を取っていたこともあるだろう。

 感情に身を任せるのは容易だった。


 それらの要因により、水龍は罰を与えるという名目で人間を喰らうことにした。

 いつか殺されることが目に見えているのなら、今でもいいだろう、と。


 だが、飛び上がった直後。

 水龍の動きは止まったようにゆっくりとなった。


 魔術を使われたわけではない。

 水龍に異変があったわけでもない。

 年老いて知識の豊富な水龍は、直感で理解した。


 これが、走馬灯というものであると。


 そうしてから、ようやく水龍はこの人間がどうしてここにいるのかを考え始めた。

 この湖を囲う森には、モンスターとしては強力な者が出ると知っている。


 もちろん水龍の相手になるようなモンスターはいない。

 だが、並の人間相手なら余裕で勝利を取れるようなモンスターばかりだ。


 そんなモンスターが多く棲む森に、どうして人間は軽装で現れたのだろうか。


 簡単な話である。

 それを水龍は、自らの力を驕ったあまりに失念していた。


 故に。

 目の前の男が手のひらを突き出した時。


 水龍は、今度こそ確実に死を覚悟したのだ。


「〈ライトニング〉」


 放たれた言葉は誰でも知っている初級魔術。

 走馬灯が流れていなければ、水龍は鼻で笑っただろう。


 だが今はそれも許されない。

 表情筋を動かすことすら不可能だ。回避なんて夢物語でしかない。


 男の手のひらから、一筋の真っ白な閃光が走る。

 細く、頼りない雷光。初級魔術の名に恥じない矮小さだ。


 もしこれがなんの変哲もない〈ライトニング〉であれば、水龍に通ることはない。

 人間で言えば羽虫に触られた程度のもので、かすり傷も生まれないだろう。


 しかし、その光が着弾した瞬間。


「ッァ……!!!」


 叫び声すら上げることを許されず、水龍は絶命した。

 ほんの一瞬だけ水龍の全身が光り、夜深い森に灯りをもたらしたが――それだけだ。


 水龍の身体は動かなくなって、そのまま湖のほとりに打ち上げられる。

 しかし、巨体が落ちる衝撃は周囲に走らない。


 よく見れば、水龍の身体は地面に着く直前から消滅していっていた。

 頭の先から真っ黒な炭に変わり、さらに細かい粒子へと分化して天へと昇って行く。


 あれほど大きな水龍は、数十秒と経たずに無へ帰した。

 数千年の歴史を持つ元『海の王者』は、たった一度の敗北で世界から消滅したのだ。


 男は何事もなかったように湖のほとりに佇む。

 その姿はなにを思案しているのか誰にもわからないような無表情だったが、


「あっ! 消したら食べられねぇじゃねぇか!!」


 突如、そんなことを叫びながら男は頭を抱える。


 逆だった白髪をかき乱しながら「小指からにしときゃよかった!!」などと、力加減を間違えたことを後悔し続ける男――成長したエクレアの姿。


 そんな光景を見なかったことだけが、水龍に対する唯一の慰めになるだろう。


 当然、エクレアの強さは世界へと影響を及ぼしていく。

 そのキッカケとなる出来事は、この夜から数日後の話だ。

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