労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈26〉

 労働することの他に何もできることがない労働人間の、その労働に対する飢えとは、転じて彼らへの支配を容易にする。彼らには何でもよいから仕事を与えてさえおけばいいのだ、どのみち彼らは「誰でもよい労働力」なのだから。そして結局彼ら労働人間の方でも、仕事を与えてくれる者に従うだろう。働くことさえできれば何でもいいし、それを与えてくれるなら誰でもいいのだから。

 哀しいかな、いつの世でも飢える者たちは、食わせてくれる者についていくものなのである。日頃いがみ合う犬と猿だって、あるいはそれに無関係な第三者を決め込む雉にしたって、彼らにきびだんごさえ与えてやれば、こぞってみな仲良くその後をついてくるものだ。しかし「彼らに食わせてくれる者」と「彼らを飢えさせている者」は、実は同一なのであることをけっして忘れてはいけない。しかも連中は決まって、まず飢えさせてから食わせるのだ。これは支配の鉄則である。桃太郎であれ鬼であれ、そのやり口は一緒なのだ。

 飢えさせてから食わせ、食わせてから求めさせる。これにより「欠如−充足−欲求」の循環が生まれてくる。欲求はあらためて欠如に転位するのだから、一度この循環の中に身を投じてしまうと、もはや容易には抜け出せない。そしてやがてはそこに、あたかも初めから自発的にそれを求めていたかのような「主体性」が作り出されることになるだろう。その「主体化された欲求=欠如」によって、人はより主体的に、この循環を必要とするようになるのである。


 一方で「それでもなお働けない労働人間」は、結局は「福祉の対象」になるだろう。福祉とは言うまでもなく、支配−被支配の構造の上に成り立っているが、そのイデオロギーは「被支配者=与えられる者は、当然『無能力者』であるべきだ」という前提に立っている。そのような者に憐れみと恩恵を与えるということ、「与えうる」ということこそが、権力の「力」を証明するのである。

 また、その「力」は権力が「独占する」のでなければならない。この「力の独占」こそが、支配を維持させているものでもある。だからこそ「与えられる者は無能力である必要がある」のだ。そしてそのように「無能力な者でさえ面倒を見てくれる社会」は、それ以外の者たちの自発的な服従を、より積極的に促す契機になるだろう。「ならば、われわれにはよりいっそうよいものが与えられるはずだろう」と、積極的な服従者たちの期待はよりいっそう高まることとなるだろう。

 しかし一方で「与えられる者」は、「与えられることは自分たちの当然の権利」であるように思っているだろうが、別に支配者は「あなたたちのことを思って与えているわけではない」のだ。権利は無能力者に与えられ、権力は能力者が専有するというのが、福祉社会のイデオロギーであるということを、けっして忘れてはならない。与えるのは、それが権力にとって有利に働くときだけである。支配する意味のない者には、何も与えられることはない。鬼退治に従軍しない犬や猿や雉には、きびだんごはけっして与えられないのだ。


 福祉社会においては、「お前に欠如を覚えさせることはしないから、与えられたものによって充足せよ。それ以上はけっして欲求してはならない」というのが権力からの要求であり、これに同意することにおいてのみ、権力支配下での諸権利は与えられる。そして、それ以上はけっして与えられないのだ。それ以上のことについて被支配者は全く無力であり、言い換えると、権力によって制度化された福祉社会は、個々の人間を無力化することで成り立っている。

 権力が、自らの支配する者らに「権利を与える」のは、彼ら被支配者を無力化する最上の手段である。つまり彼らに一定の施しを与えることによって、逆に彼らから「それ以上の力を獲得する自由」を奪うのだ。「お前たちは与えられたものによってすでに充足しているはずなのだから、それ以上のものなど、まして自由など、必要がないはずだろう」というわけである。


〈つづく〉


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