ジョン

旧星 零

ジョンという名を

 轢かれたジョンを抱いたとき、彼はやっと頭が回りはじめる音を感じた。そして、それまでの歯がゆさがすべて解消されていくだろうと思った。

 彼は悲しみに暮れるという大義名分を得たのだ。ジョンを毛布にくるみ、彼はそれを抱いて歩くことにした。交番へ向かって。



 だが、それは間違いだったのかもしれない。花束を置いてはじめて、その花言葉を知るように。ジョンを弔うべきだったのだろうか。死として、喪ったものとして、それはジョンという犬ではなかったと、認めるべきだったのだろうか。



 ジョンには、生まれつきなにもかもが与えられていた。地位、名誉、財産。住居は豪邸と呼ぶにふさわしい造りで、庭がついていた。

 人々が思い浮かべる幸福を体現したかのような彼だが、その心はいつも晴れなかった。彼は憂うつ病とでも言うような気質をもっていたのだ。


 ジョンはどうであったろうか。わからないが、それでもジョンはよく食べた。それがたったひとつの責務だと主張するかのように。

 ジョンには信じられたのだろうか。人を、信じられたのだろうか。


 たとえば食事をするときは、食べ過ぎで肥えた自分を想像して、歯を磨くときは、溶けていく歯茎を想像していた。いつかやってくる衰えや老いを想像し、彼は憂うつになった。ジョンは未来が恐ろしいのではない。得た歳月がすべて、些細な怠惰に変換されていくことが、ひどく苦々しく感じてしまうのだ。

 人との会話は、ジョンにとっていちばん憂うつなものだった。ジョンの父は人脈作りに熱心な人物で、定期的にパーティーを開いたり、会食へ行ったりしていた。後継者である彼も、そういった場に出席する機会は多くあった。

 話題は社会か経済のことが多かったが、彼はとくべつに父の事業に興味を持たず、言葉を消費するだけの時間は苦痛だった。

 ジョン、と呼ぶ父が、煩わしかった。


 ジョンは痛みを覚えていたのだろうか。いや、覚えていなかったとして、それは些末なことだ。雨をしのぐことも、飢えをしのぐことも、彼には必要がなかったんだから。



 ある日、ジョンの母が倒れた。それから彼女は入院し、家族団らんの時間は減った。ジョンの父はそれを気にしているようだった。ジョンはスープをすすり、味は変わらないのになぜ父は気に病んでいるのだろう、と思った。首を傾げたとて、答えはひとつも出なかった。

 

 母は家事をやっているふりをしていた。ジョンは、彼女が少なくとも、料理については家政婦に任せていることを知っていた。父は知らなかったようだが、彼は味がまったく変わっていないことにも気付いていないらしい。

 ジョンには、母が入院前よりも笑っているように見えた。点滴が、母の腕に石を詰めていくかのように思え、ジョンは病院という存在を疎んだ。


 母は、退院することなく亡くなった。喪服の父は沈んだ顔をしていた。頭の頂きは薄くなっていて、指先や首にはべったりとしわが出ていた。この人も、近いうちに亡くなるんだろう、とジョンは予感した。母の死をきっかけに、彼は父の事業を引き継いだ。

 それから数年が経ち、ジョンの父も亡くなった。病死ではなく、事故死だった。彼は注意力が衰えていて、足を滑らせて頭を打ったのだ。

 父が亡くなってから、ジョンは突然死のことを考えるようになった。一歩を踏みだすだけで、なにもかもを失ってしまうかもしれない。

 いま持つものに執着して、なんになるというのか。そう考えると、彼はますます憂うつになった。ジョンは事業を大きくする気も小さくする気もせず、その多くを他人に委ねた。 


 苦しいだけの日々だと、吠えられるのならば。ジョンはいつまでも、健やかで在られたのだろうか。

 望みなどないはずだが、ジョンの生き様だけが、支えとなっていた。


 

 ジョンはある日、犬を飼い始めた。彼の人間関係は日に日に希薄になっていた。犬は人の言うことがわかるという。人と接することを忘れてしまわないよう、話し相手代わりに、犬と生活をしようと思ったのだ。

 ジョンが考えていたよりも、犬という生きものは無感動だった。おい、と呼んでもそっぽを向いていた。ジョンがペットとして選んだ犬は、あまり人に興味が無かった。彼は、ペットショップではその犬は人気が無かったことを思い出した。

 飼いやすいという店員の説明どおり、暴れ回って粗相をしなさそうので、彼は無愛想なその犬を選んだのだ。

 ジョンは、犬に名前を付けなかった。必要なかったのだ。犬はエサの時間以外は、ジョンに近寄ろうとしなかった。犬はエサの善し悪しがわかるらしく、気に入らないときは、ジョンに対して非難の目を向けた。食べ足りないときには、ずっとジョンの視界のなかにいた。

 エサやりというのが、犬とジョンとの唯一のコミュニケーション方法だった。食べてばかりでは太るからと、ジョンは犬を散歩へ連れ出した。はじめは徒歩五分くらいの距離だった。徒歩十分、十五分、と距離を伸ばしていき、犬を散歩に慣れさせた。

 犬を飼ってから五年経った。ジョンは身体に痛みを感じはじめていた。犬は速度を合わせてくれるものの、ジョンは散歩中に立ち止まることが多くなった。

 彼はとうとう、犬のリードを外して散歩することにした。代わりに、犬には首輪をつけた。いなくなっても見つけ出せるように、首輪にはジョンの名を彫った。


 手で触れたドッグタグからは、からりと音がした。

 

「お前は、ジョンだ」

「わん!」


 はじめて、エサやり以外で、犬が元気に吠えた。彼はもう五年以上、ジョンと呼ばれることがなかった。だから、犬に自分の名前を与えることで、ジョンという名前を忘れないようにしたかった。



 立ち止まって痛む足を摩ったところで、クラクションがなった。とつぜんパニックを起こしたのか、犬は大慌てで走った。車どおりの多い道へ突っ込み、そして、犬は轢かれた。

 記憶を繰り返すほどに、ジョンの顔は悲痛さを増す。それでもこうして訪れるのは、やはりジョンはジョンであったからなのだ。

 途切れたハーネスの先に、居ないはずの何かが、まだ居る気さえした。



 ジョンと、名付けたその日に。犬は轢かれて亡くなった。それでも彼は、墓にジョンと刻んだ。犬の墓に犬と刻むのは滑稽だと思ったし、何より愛着がないと思われたら、彼の計画が失敗してしまうと考えたからだ。

 彼は、亡くなったジョンのため、という理由付けをして様々な事業を興した。儲けたかったわけではなく、悲嘆にひたるふりをしたまま一生を終えることが、ひどく恥ずかしく思えたのだ。

 

 付けられた名の、重みも知らず。



 予算はふんだんに用意した。ジョンの資産で養われているのは、彼と彼を世話するひとりの執事のみだったから、特別困ることはなかった。

 ジョンの横たわった寝台には、アスファルトの冷たさが宿っていた。


 犬を喪ったと語る人は多く居た。驚くべきことには、彼らは、みな犬をふたたび飼っていたのだ。

 吠える犬の、赤い舌が、ジョンには牙よりも恐ろしく思えた。

 ジョンは、白く染まった息を吐いた。

 荒い呼吸が、ジョンの身体を浮き彫りにした。ジョンは轢かれたままの、あの日のジョンだった。

 


 もう長くはないと悟ったとき、さいごにそばに居る存在こそ、このハーネスの先でつながっている気がした。

 名前など付けたくはなかった。

 ただのジョンでありたかった。轢かれたままの犬を抱いて、回りはじめた歯車にはさまれたままでありたかった。

 

 だが、ジョンという名を刻むのは、これでおわりだと。そう思えたからこそ、ジョンは、この歯がゆさを留めたかった。

 ハーネスのように、逃れるための鎖など、ジョンには必要がなかったのだ。

 ジョンは白いままの息を吐く。


 

 

 

 

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