虎の夢

ラーメン大魔王

第1話 虎の夢を見た

どうにもせまっ苦しい空間だなぁ。

俺はそう思った。

廃業して水の無いプールの底に今立っている。

全長50メートルあって競技用だったらしい。

横幅もかなりあって、10レーンはあるようだ。

プールの側には、5メートルはある柵が建ててあって、俺から見るとプールの深さも相まって7メートルは高くなっている。

その柵の向こう側には、意地汚いかおの暇人達がわんさか居て、大好物を前にしたクソガキみたいな笑みを浮かべていやがる。

天井にまで囲いは無いが、太陽よりも眩しい照明が、暴力的なまでの光量でこっちを照らしてきやがる。そのせいで暗がりに居る暇人達の顔がよく見えない。どうも観客の安全保障の一環らしい。出場者に顔を覚えられるのを防いでいるとか何とか。

あの照明のかたわらには、カメラも多数配備されているんだろう。

どうでもいい。

どうせ俺の味方じゃあ、無いんだから。

背中に居る司会者が、下らない冗談と、もっと下らない俺の情報を話している。

どうでも良いんだ、そんな事は。

俺に借金が有るとか、俺が昔どんな大会で優勝したとか、俺の空手の師匠が誰とか、全てがどうでも良い。

だから俺は此処ここに来たんだ。

戦って、死ぬ為に、此処ここに来たんだ。

すると、空気が騒いだ。

暇人達のざわめきが大きくなり、一つの単語が聞こえてくる。

虎だ

虎が、来たのだ。


司会者が慌てて柵の外に出て行くのとわりに、俺の正面から入って来た巨体が在った。

虎だ。

空中から降ろされたかごから、のそりのそり、歩いてきた。

俺の拳と同じ位、否もっと美しい。

虎は空中に吊り上げられていく籠を一瞥いちべつすると、まぶししさに耐えかねて、直ぐに視線を下ろした。そんな、何気無い動作でさえ、虎がやるとこんなに美しいのか。

虎が、俺を見た。


その清々しい程の、金色の瞳が、俺を見た


その優しい色の鼻が、俺を嗅いだ


その肉肉しい色の舌が、俺を求めた


その純白の牙が、俺を恐れさせた


そのいじらしい耳が、俺を感じた


その力強い前足が、俺に届こうとしている


その撓やかな後ろ足が、俺に狙いを定めた


その全てが、美しい。


筋肉が美しく、爪が美しく、骨格が美しく、毛皮が美しく、寝ている姿が美しい。

・・・寝ている!?

俺は思わず目を見張った。

何と、虎は横になっている。

思わず驚愕したが、何の事は無い、俺が戦闘態勢を取って無いから、安らいでいるだけだった。ちょうど良いからもっと見ていよう。

司会者が、何か言っている。

曰く、この虎はもう6人も対戦相手を食べているとの事。

そうだろう。それでこその、この美しさなのだ。

俺も一人位は食べた方が良かったかも知れない。否、それは無いだろう。俺がそんな事をしても、余計にみにくくなるだけだ。

曰く、この虎は中国の虎らしい。

それはまあ、どうでも良い。虎に国境など有るはずが無い。虎にとっては、国の違いなんてのは、住んでいる山の違いだけだ。

曰く、この虎の全長は2.5メートル、体重は180キログラムらしい。

虎としては標準的な大きさらしいが、そんなものはどうでも良い。俺よりも80センチメートルも大きくて、俺よりも90キログラム重たい事が分かればそれで良い。

曰く、元々は飼育施設で生まれたそうだが、生後半年で担当の飼育員を食い殺してしまったらしい。

うらやましい飼育員だ。頼むから俺と換わって欲しい。

曰く、処分される所をこの闘技場の持ち主に買われ、その男との一騎打ちに勝利して、殺したらしい。

素晴らしい男が居たものだ。生前に会えば、心の友になっていただろう。

否、敵対していたかもしれない。俺もそんな立場になりたいのだから。

曰く、再び処分される所を、闘技場の後継者が引き取り、興行を再開したらしい。

何て素晴らしい虎だ。最早飼われているのでは無く、人間の主となっている。

曰く、次に食われたのは、女性の剣士だったらしい。

聞いていて、良い人だと感じた。そんな人ならば、俺に結婚詐欺を仕掛けて借金を背負わせるなんて事はしかっただろう。

曰く、つい先日食われたのは、アメリカから来たガンマンだったらしい。

何と見苦しい男だ。虎と戦いたいのなら、銃なんて使うもんじゃあ無い。銃は相手を処分する時に、使う物だ。俺をこんな境地に追い込んだ奴も、そんな汚らしい連中だった。俺もかつてはそんな連中の同類で、その時にどうしようも無く汚れてしまった。

身勝手だとは思うが、そんな同類を思うと反吐が出る。

一通りの情報が出終えると、司会者は空虚な冗談を言って、黙った。

虎が、立ち上がったのだ。


どうやら知らず知らず、気が立っていたらしい。

虎は、のそりのそりと、俺に近づいてくる。

俺は、自分の拳を見た。

俺の人生で唯一手に入った、美しい物だ。

俺は、自分の黒い空手道着を見た。

俺の人生で出会った、一番美しい人、つまりは俺の師匠が着ていた道着だ。

その生活も、型も、強さも、礼節も、目に見える全てが美しい人だった。

その師匠はもう、この世には居ない。俺が死に追いやった。

俺が身に着けているのは、これだけだ。その他には下着すら着けちゃいない。

その他には足だって使う気は無い。

足はただ移動して、支えるだけで良い。

俺の頭も、首も、肩も、胸も、腹も、腰も、股関節も、膝も、全ては拳の付属品なのだ。

虎が来る。

ガラス越しでも無く、堀の向こう側でも無く、檻の中にいるのでも無い、虎が来る。

美しいしま模様が、美しい白の和毛にこげが、神々しいかおが来る。

虎が間合いに入った。


俺はその時、昔んだ虎骨酒と云う物の事を思い出していた。

あんまり美味しいとは思わなかった。だから、虎を食らうのは駄目だと思って、虎に食われる方を選んだのだ。その時の相手は、醜い人間だったから、蹴り殺したが。

虎の身体が沈んだ。俺を食らう気だ。飛び掛かる気だ。

俺は、左足を半歩前に、左手の平を虎に向けて、構えた。


良いぞ、虎よ。よだれも美しいじゃ無いか。


俺は虎に食われる。だけどこんな汚れた身体を食わせるだけじゃあ、虎が可哀そうだ。

だから俺は、この唯一美しい拳で、最も美しい正拳突きを食らわせる。

虎はそうして、正拳突きそのものとなった俺の身体を食らうのだ。

その時こそ俺は、美しく死ぬ事が出来る。

美しい正拳突きのまま、美しい虎に殺され、食われるのだ。完璧としか言いようが無い。

虎は、じりじりと、油断無く近寄って来た。

俺もじわりじわりと、姿勢を変える事無く近づいて行った。

もう、何も見えない。

虎だけしか見えない。

プールの床も見えない、高い柵も見えない、わずらわしい連中も見えない。

俺の汚らしい人生も、見えなくなった。

凄いぞ、虎が俺を恐れている。否、俺の正拳突きを恐れているのだ。

あんな美しく雄大な虎が、こんな惨めでちっぽけな俺の、一撃を恐れている。

そうだ、そうなんだ、虎よ。

空手は恐ろしいぞ。俺はようく知っている。俺の美しい師匠は骨の髄まで俺にその事を叩き込んで呉れた。虎よ、お前は今、師匠の美しさを見ているんだ。この構えは師匠が一番評価してくれた。この先が有るんだよ、虎よ。

お互いの緊張が最大限に高まった、その時に、仕掛けが有るんだよ。それも含めての、正拳突きなんだ、虎よ。練習の型じゃあ無くて、実戦の業として正拳突きなんだ。

まだ・・・・・まだ・・・・・

そんなかおもするんだな、虎よ。安心しろ、この業は美しいぞ。本当に苦労して磨き上げてきたんだ。

まだ・・・・・まだ・・・・・

虎よ、そんなかおをしないでおくれ。この業は限界まで突き詰めて初めて完成するんだ。

まだ・・・・・まだ・・・・・

もう直ぐ、もう直ぐだ、虎よ。お前にダイヤモンドよりも美しいわざを見せてやろう。

まだ・・・・・まだ・・・・・

今!!


俺はその時、半歩後ろに在った右足を思いっきり前に踏み出し、姿勢もあからさまに前のめりに振りかぶった。

虎はそれを見て、一気に飛び掛かって来た。

だが、直ぐに気が付いただろう。

俺は実は前に出ていない事に。

重心は動いていないのだ。前に出た振りをしただけなのだ。

この時、俺の姿を横から見れば、「く」の字に曲がっているように見えただろう。

相手は一歩分、間合いを見誤る。

俺が一歩前に出ていると勘違いして、隙を晒す。

そして俺はそこに正拳突きをぶち込むのだ。

左手を引く、左足も引く。

前に出た右足に引っ張られるようにして放つ、左半身の回転エネルギーの全てを込めた順突きの正拳。

これが俺の全てた。ようく見ててくれ。

そして狙いの全てが完璧にまり、虎の鼻っ柱に正拳突きは確かに激突した。

————ッゴオン!!!


俺は始め、この音で腕の骨が折れたと思った。

それほどに会心の手応えだった。

だが直ぐに違うと判った。

何だ、一体何が起こっている!?

拳に、血が流れた。虎の鼻血だ。

一体どうした、虎よ。今だ、今こそ俺を食い殺すのだ。

見ると、虎は床に寝そべっていた。

何だ、どうした。何で寝ている?早く食べろ、俺は此処ここに居るぞ。

よく見ると、虎の首が変だった。

座りの悪い人形の首みたいに、奇妙に明後日の方向を向いていた。

怖ろしいまでの静寂に空間が支配されていた。

趣味の悪い司会者も、汚らしい貌の観客も、呼吸をする事すら恐れているように、静かだった。

俺は屈んで虎の口元に手を当ててみた。

もう、虎は呼吸をしていなかった。

考えてみたら、俺は虎の呼吸を感じ損ねたなと、しょうもない事を思っている内に、虎の口から血が流れてきた。どうやら折れた骨が血管と肉を突き破ったらしい。

その時、天地を揺るがす歓声が鳴り響いた。

俺は揺るがなかった。

ただ虎の死体を撫でていた。

すると司会者が降りて来て、俺を立たせ、虎の血の付いた右手を上げさせた。

歓声は一層大きくなって、建物がきしみ始めた。

虎の死体は俺の物にはならない。俺はそれが解っていたから、ただ心の中で謝っていた。


ごめんな、虎よ。


食われてやらなくごめんな。


食わせてやれなくてごめんな。


助けてやれなくてごめんな。


友達になってやれなくてごめんな。


司会者が賞金がどうとか栄誉がどうとか言って、俺をその場から連れて行く間、俺はずっと虎を見ながら、謝っていた。涙は、出なかった。

俺はその夜、虎の夢を見た。

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虎の夢 ラーメン大魔王 @Eneruga

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