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 にこり、とフィリアは微笑む。

 あとはなにも言わなかった。


 その笑顔にはやはり、男心を掴む力がある。しかし見方によっては、軽くあしらわれているようにも思えてしまう。種々の欲をたぎらせて言い寄ってくる男を、道の小石のように蹴り転がしているような……。そう考えるのは邪推じゃすいだろうか。


 太く逞しい二本マフラーに似合わず、なだらかで物静かなエンジン音。回転する芸術のようなホイールがきらびやかな銀を見せつける。そして、フィリアが遠くなる。


「はぁ……」タイガは肩を落とした。「無理だよなぁ……。フィリアさんと恋仲になるなんて」


 ばり、と首筋に音がした。

 首が丸ごと焼けるような熱。

 一度ひどい痛みに襲われ、

 それからすぐに痛みがなくなった。

 痛みどころか、なにも感じない。

 頭と躰が離れたのではないか。

 それくらいに全身の感覚が真っ白になった。


 ここは人がほとんど歩いていない場所だ。

 公園からも離れている。

 住宅街といえばそうだ。

 しかし、だからと言って、

 タイガの首に電気ショックを与える人などいるだろうか。


「こいつが? タイガのイヴァンツデール?」


 男は、地面に伏せるタイガの髪を鷲掴んで、まるで戦国時代の生首のようなあつかいをした。


「はっ」そしてゴミのように地面に投げ捨てる。タイガの頬がアスファルトにぶつかり、切り傷が生じた。「こんなの金になんのかよ」

〇七ぜろなな型。お客人は丁寧にあつかえ」


 もうひとりの男が言った。


「客っつったって。あんたにとっちゃただの金だろ」〇七型と呼ばれた男は言い返す。「てかさ、型番で呼ぶのやめてくんない?」

「どう呼ぼうが我の勝手だ。おまえよりスペックが上なのだから。上位下達の権限は我にある。さっさと連れていけ」

「あいよ……。


 〇七型はタイガの腹に片手をまわして、そのまま肩に背負う。


「じゃ、行くわ」そして開いた片手で、西の方を指した。「あとのこと頼む」



 車に乗るフィリアは、なぜかバックミラーが気になった。どうもざわざわとなにか動いているように見えたのだ。そこにはタイガひとりが映るはずだった。せいぜい見送るために手を振っているだろう、くらいに思っていた。


「止めて!」フィリアのひと声でセダンは急停車した。「タイガくんが……!」


 そして有無を言わずにフィリアは車を降りた。


「お嬢さまっ!」


 慌てた執事も車を降りてフィリアを追いかける。そして彼女の背中越しにいる男たちを確認した。センター分けの茶髪の男がタイガを片手で担いでいる。その傍らには見覚えのある姿。金髪で背の高い男がひとり。約六〇メートルの距離を全力で走り、フィリアは男たちに近づいた。


「うそ……、あなたなの?」


 金髪の男に、フィリアが言った。


「なりません、お嬢さま!」


 必死の執事が、フィリアを庇って間に立った。


「なつかしいな。あのクソガキか。崇高すうこうたる我を飼おうとした、愚かなスタンホープの。胸も尻もでかくなったものだ」


 こんなことを言うようになったのか。本当に彼は、私の知っているアンドロイドなのだろうか。状況を飲みこめないフィリアの顔が歪んだ。


「アインなの?」当時の名前をフィリアは呼んだ。「あなた……、まだ生きていたの……?」

「人間というのは、おかしな生き物だ」アインは鼻で笑った。「事実を確認できているのに。改めて質問をして、さらなる確証を得ようとする。我が生きていることなど見ればわかるだろう」


 横で話を聞いている〇七型がくすりと笑った。


「元気してた? とかいうのもそれだ」アインはそのままの口調で、「元気なことくらい見ればわかるだろうに。そんな詮索せんさくをしてどうしたい? 仮に相手が病気だったとして。医者でもなければほどこせることは限られている。本当にばかだ。頭が悪い」

「タイガくんをどうするの」


 フィリアは構わず一歩足を踏みだす。


「お嬢さま、危険です」


 執事は足に力を入れて、その動きを遮った。


「どうするか……」アインは無表情に、「その質問の答えは簡単だ。こいつを盾に金を要求する。それだけだ。金さえ手に入れば、あとは逃してやってもいい。こいつに害はない」

「それなら私を拐えばいい」


 フィリアは意を決して言った。


「だめです! お嬢さま!」


 執事は全身を強ばらせた。アンドロイドがなにをしてきても、この命を捨てて、お嬢さまを守ると決めて。


「ほう……」アインは少々考えた。「それもありかもしれん。が、こいつでいいのだよ。もう捕らえたからな。我が必要とする金額を得るにはタイガ・イヴァンツデールで十分だ。それに、フィリア」


 アインは一度顔を伏せた。

 そして、憎悪に燃えたぎるような表情を持ち上げて、


 ——おまえの顔なんか二度と見たくないんだよ。スタンホープのクズが。



 二台のアンドロイドは深くしゃがんでから、大きく跳ねた。高さ七メートルの跳躍を余裕で見せつけた。家々の屋根を足場にして、西の彼方に消えてゆく。


「す、すぐ、イヴァンツデールに知らせなければ!」執事は慌てて携帯を取りだした。「お嬢さまは早く、お車へお戻りください!」


 狼狽ろうばいする執事のかたわら。フィリアは呼吸を荒くして、目は一点を見つめている。さきほどアインが言った言葉、それがナイフのように心に突き刺さったのか。


「お嬢さま!」 執事は申し訳ないと思いつつも、ここは強めの口調で、「一刻を争います!」


 その言葉にはっとしたフィリアは正気を戻した。


「私がイヴァンツデールに電話をします」フィリアはいつもの清閑な口調で、「あなたは警察に知らせて。あと、お父さまにも」



 ここ最近、夕方五時を過ぎると、アイリーシャは日本のチャンネルをテレビに映す。だいたいこの時間帯になると、彼女が推しているお相撲さんが一番をとるのだ。


「くる、くるよ、そろそろくるよ……!」お目当てのお相撲さんがテレビに映った。「ぎゃー城ノ藤ぃぃい!」


 いつのまにか必勝のハチマキを額に巻いて、手にはメガホンを持っている。そんなアイリーシャを、セリカは愛しい目で見つめる。


「もう、本当に好きなんですね。お相撲さん」セリカは野菜を切りながら、「いつか日本に旅行できたらいいですね」

「まじ! いつ!」


 テレビに視線を投げつつ、アイリーシャは派手に反応した。


「いつか、です」

「いつかって、いつ!?」

「それはソクラさん次第かな?」

「明日がいい! 明日も城ノ藤が一番とるもの!」

「明日はさすがに無理じゃないかな」


 はっけよーい……。

 行司が掛け声をして。

 ——のこった! 

 それからアイリーシャの声にならない実況が挟まれ。

 城ノ藤が場外に投げだされると同時に。

 アイリーシャは屍のように沈んだ。


「あら……」


 相撲に興味はない。が、その勝敗によって左右されるアイリーシャの反応に興味があったセリカは、包丁を握る手を止めた。


「負けちゃったのね」


 テレビ画面を見なくとも、アイリーシャの様子で勝敗の行方がわかる。


「もっと体幹を強くしないとだめだよ。関脇せきわきのすくい投げなんかに一本取られているようじゃ、横綱がつづかない」


 するとリビングの電話が鳴った。


「あ、私が出るよ」


 アイリーシャは、メガホンと必勝ハチマキを床に叩きつけながら電話に向かった。はい、はい……、としばらく話していたが、その表情は次第に蒼白してゆく。城ノ藤が負けたことなど、もはや気掛かりでもなんでもない。


「わかりました、すぐに」アイリーシャは受話器を置いて、「セリカさん、大変だ、どうしよう」


 ただごとではないと察したセリカは料理をやめて、アイリーシャに近づいた。


「どうしたの? なにか……」

「タイガさまが……、拐われた」



 玄関を出て、セリカはペンダントを握りしめた。

 金色の球金属が熱く感じる。


 ——叶えたいと思うことにぶつかったとき。目を閉じて、願いごとを念じなさい。導きは音、導きはにおい、導きは光——


「導きは音……、導きはにおい……、導きは光……」


 この言葉を誰に言われたのか、覚えてはいない。もしかすると自分が勝手に考えた言葉なのかもしれない。しかし外側から聞いた気がするのだ。優しい父のような人の声が耳に触れた記憶。霧にまみれた森の中を飛ぶ蛍の光のような記憶。それを自分はいつの間にか覚えていて、忘れていないのだと。


「タイガさまはどこ、教えて……」


 昨日も無意識にこうしていた。

 タイガの帰りが遅くて。

 セリカは不安になって。

 ペンダントを握っていた。

 そうしたら見えたのだ。

 薄暗い地下室に運ばれて。

 手足を拘束されてゆくタイガの姿が。


「……」セリカは深く、深く目を閉じる。眉間にしわがよった。「家々の屋根を跳ねてゆく、ふたりのアンドロイド、タイガさまを抱えて、向かってゆく、場所は……」


 すると玄関に他のみんなが顔をだした。

 各々にサンダルや靴を履いて、セリカの背後に並ぶ。


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