夏休み編 その二 二人の園児と麦わら帽子

「ねえ、ずっと家の中いてやることなくならないの?」


 ぶおーんと駆動する扇風機の風に乗って、間延びした声が届いた。

 特に無視する理由もないので、プレイしていたフリーゲームを一時停止し、ちゃぶ台の向こうで頬を膨らませている来訪者、小幡三枝に応じる。


「ネットの海は広いからな、やれることは無限にある。......ってか、お前はなんで今日もここ来てんだよ。暇なの?」

「暇だよ。なのに佐伯ってば全然かまってくれないし」

「木村たちは?」


 訊ねると、シラーっとした目で見られた。『誰のせいだ』とでも言いたげだ。俺のせいじゃないとは言い切れないので、目で謝っておく。

 と、小幡がピンと指を立てた。


「というわけで、ちょっとお話しようよ」

「どういうわけだよ」

「人を部屋に上げといて無視とかありえないから」


 まあ、そう言われると痛い。今日もノックなしで勝手に上がってきた小幡ではあるが、そいつを拒絶しなかった時点でそれなりの対応はするべきだろう。

 ノートパソコンをぱたりと閉じて胡坐を組みなおすと、小幡はゴホンと咳払いした。


「ちょっと一回、幼稚園の頃の話したくてさ。覚えてる?」

「まあ、なんとなくは」

「よし、じゃあ今日のお題はそれでいこう」


 なんだその面白くなさそうな会話の導入は。やらされている感が満載である。

 とはいえ、なるほど。


「幼稚園の頃の思い出か......」


 ふと記憶を漁ってみると、意外にも覚えているもんだ。節分に凧揚げ大会、運動会に遠足。昔はイベントの連続だった。そしてその思い出のほとんどに、両親の姿がある。

 ......あぁ、やっぱり帰省しようかな。

 昔のことを思い出してホームシックになるのもつかの間、小幡の存在を思い出してぱっと居住まいを正す。


「ま、割と覚えてたな」

「じゃあさ、運動会のことは覚えてる? 年中の時の」


 一瞬、どれがどの学年かまでは覚えてないと返しかけるけど、運動会というワードにピンときた。

 年中の時のことかどうかはわからないけど......。


「もしかして......帽子のやつか?」


 俺がそう言うと、瞬間、小幡の表情がぱあっと華やいだ。それからずいっとちゃぶ台から身を乗り出して顔を近づけてくる。


「ちょっと......近い......」

「あっ、ごめん」


 関わるようになってしばらく経ったけど、いまみたいな距離感はまだちょっと照れる。

 というか色々無防備すぎるんですよ小幡さん......。いまだってほら、ほら。胸元がげふんげふん。


「......そ、それで、あの帽子の件がどうしたって?」

「あ、そうそう。佐伯はその時のこと、どれくらい覚えてる?」


 言われて、当時のことを思い出しにかかる。

 もう十年以上も前のことなのに、その記憶は案外あっさりと思い起こされた。


 あれはある年の、風が強い運動会の日のことだ。

 うちの幼稚園の運動会は毎年、園内ではなく近所の公園のグラウンドで行われていた。

 公園のある場所はお城の隣で、グラウンドのわきに設置された低い柵の向こう側は白鳥が優雅にたゆたうお堀が広がっている。

 そんな場所で運動会は行われていた。

 定番どころの徒競走から、組体操、親子リレー、跳び箱やダンスの発表会。

 友達とわいわい言いながら競技を楽しんでいるうちに、運動会は午前の部を終えた。

 事件が起きたのは、その昼休憩の時間だったはずだ。

 昼食を食べ終えてぼーっとブルーシートに座っていた俺の目の前を、麦わら帽子をかぶった気弱そうな女の子が通り過ぎる。

 その時、びゅうとひときわ強い風が吹いた。

 瞬間、その女の子の髪がぶわりときれいに広がって、


「「あ」」


 舌足らずな声がふたつ重なる。

 その視線の先には、大空へと舞い上がった麦わら帽子。

 女の子は一生懸命手を伸ばすけど、そいつはあざ笑うようにくるりと回って、ふわりお堀へと飛び込んでいった。

 ぷかぷか浮かぶ麦わら帽子。

 それを涙をためた瞳で見つめる女の子。


「取ってあげよう?」


 なんて声をかけたかは覚えてないけど、多分こんな感じだったはずだ。もうすこし偉そうな口調だったかもしれない。

 とにかく俺は、その当時憧れていた仮面ライダーみたいに女の子に救いの手を差し伸べたわけだ。

 まあ、このあとものすごい後悔するんだけれども......。

 女の子は俺の申し出に困惑気味ながらも、コクリとうなずいた。


「どのへんに落ちたの?」

「......そこ」


 そう言って女の子が指さしたのは、手前の壁の水際だった。麦わら帽子は運よく、壁の突起に引っかかって流されていなかったのだ。


「......ほんとに取れるの?」

「だいじょーぶ、まかせといてよ」


 だがしかし、力強い言葉とは裏腹に麦わら帽子まではそれなりに距離があった。正確なところまでは覚えていないが、一メートル以上はあったんじゃないだろうか。今なら腕を伸ばせばぎりぎり届くくらいだろうが、当時の俺にそこまでのリーチがあるわけがない。

 すると自然、どうするかといえば、


「よい、しょっと」


 慎重に柵を乗り越え、右手で柵をつかんだままゆっくりとお堀の壁を降りる。後ろから飛んでく期待の視線にジワリと汗をかきつつ、目いっぱい麦わら帽子に手を伸ばした。

 だが、もちろん届くはずもない。


「ねえ、やっぱりもういいよ......あぶないよ......」

「いいや、だいじょーぶ」


 そう答えながら、今度は柵に足を引っかけてさかさまの体勢で帽子に手を伸ばす。


「あと、ちょっと......っ!」


 後ろから「やめようよ」と不安げな声が飛んできていることにも気付かず、目いっぱい手を伸ばす俺。すると不意に、ひときわ強い風が吹いた。おかげで波が少し高くなり、ついに俺は帽子に手をかける。

 しかし、


「やった! ――あっ」


 取れた瞬間に気が抜けたのか、それともにじみ出た汗が滑ったのか。そのどちらにせよ、帽子をつかんだ瞬間、俺の身体を支えていた足が柵からつるりと滑ってしまったのだ。

 ふわりとした浮遊感。

 本能的に、直後に訪れるだろう水の衝撃に備えて、


「って......あれ?」


 けれど、予測した結末は一向にやってこない。

 まず、両手で抱えた麦わら帽子がどこにも行っていないことを確かめほっと安堵の息を吐き、そこで自分の足が何者かによって引っ張られてことに気が付いた。

 引っ張っているのが誰かなど、確認するまでもない。

 視界の端には、汗で額に髪がぴったりとくっついている女の子が見えた。

 俺はその隙に素早く脚をもう一度柵に引っ掛け直し、それからゆっくりと元の位置へと戻っていく。


「助けてくれてありがとう......」


 そう言って少し濡れてしまった帽子を女の子に返したのだった。


 以上が、俺の記憶にある運動会の帽子の話。

 そして、その時の女の子こそ、今目の前にいる小幡三枝である。それが小幡と俺の最初の出会いだった。

 ......にしても、結構鮮明に覚えてるな、俺。

 記憶の旅から戻って顔を上げると、思い出のなかのあの子よりも、何倍も大人になった女の子が待っていた。

 ふと、その形のいい唇が艶っぽく動き出す。


「その顔は、結構覚えててびっくり~って顔だな?」

「お前が心理カウンセラーとして働く未来が見えた」

「それは当たりってこと?」


 素直に答えるのがちょっと照れくさかったので、首肯だけしておく。それを見て、小幡は満足そうにうなずいた。

 しかしまあ、いま思えばこんな地元から離れた田舎の大学で、こうしてまた同じ幼稚園の出身者出会うってのには少しばかりうんめ......縁を感じるな。うん。

 さておくとして、現在こうしてまた仲良くなっているわけだし、これって結構すごいことなんじゃないだろうか。

 ちらりと目線を送ると、小幡はふっと息を吐いた。


「ああ、あの時の優しい大生たいせいくんならきっと、今ごろ人助けに奔走して、さぞかし学校でも人気者なんだろうなあ」

「......あんなに慎ましやかだった三枝さえちゃんなら今頃、誰に対しても穏やかに接して、他人に嫌味なんて言わないんだろうなあ」

「やるかああん?」

「上等だこら」


 ......前言撤回。全然仲良くないわ、俺たち。

 それから二人、メンチの切り合いに突入する。

 しかしまあ、残念ながら人の顔を見て話せない人間がそんな戦いに強いはずもなく。


「はい私の勝ち! 佐伯のざーこざーこっ!」

「......お、おぼえてろよ」


 早々に目を逸らした俺を煽り倒す小幡。

 ......いや、これは違う。一般人には、圧倒的な顔面偏差値を誇る小幡の顔は直視できても五秒が限界なんだ。それ以上は今後のパートナー選びに非常に苦労するような後遺症が残ってしまう。

 だから目を逸らしただけで。べつにまだ、余裕あったし......。

 などと言い訳してもどんどん自分が惨めな思いをするだけなので、今日はこの辺で勘弁しといてやるとしよう。

 それに、まあ、あれだ。


「? どしたの佐伯?」

「いや、変な笑い方するなーって」

「え、嘘」

「嘘だけど」


 言った瞬間、座布団をぶん投げられた。痛い。

 ......現役JDの座りたて座布団っつったらネットオークションで高く売れそうだなあ、なんて益体もないことを考えつつももちろん口には出さない。

 惜しみつつも座布団を返すと、小幡の表情はさっきとは違ってあきれ顔だ。


「......いい笑顔だったんだけどなあ」


 つぶやくようにそう言った。


「今またなんか言った?」

「いや、べつに」


 そう言ってごまかして、俺はノートパソコンを開いた。

 すると、ちゃぶ台を回り込んで小幡がぴったりと横から画面をのぞき込んでくる。


「さっきからずっとやってるけどさ、このゲーム面白いの?」

「面白いぞ。やってみるか?」


 俺の問いかけに小幡がうんとうなずいた。

 こういう素直さは、幼稚園の時と同じなような気がする。


「ストーリーものだから、初めからやったほうがいいな」


 手早く進行をセーブして、パソコンを明け渡す。

 ......色々と見られちゃイケナイファイルが入っているが、まずそうになったら取り上げれば済む話だろう。

 それから小幡は興味津々にパソコンの前に陣取って――


「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁああ!!」


 ホラーゲームに、ものすごい良いリアクションを見せたのだった。

 今度はグーで殴られました。

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