第26話冴えない大学生は煮え切らない

 夏休みが始まって数日が経った。

 とはいっても、特に日常生活に大きな変化があるわけではない。友人がいないから遠出することもないし、帰省する予定も今のところない。今まで大学に行っていた時間がそのままバイトにさし変わっただけだ。

 最近は小中学生も夏休みなので朝から夕方まで塾のバイトが入ることもある。そして今日も、まさにこれからバイトである。


 まあそれはさておくとしても、夏休みに入ったおかげで木村たちに合わずに済むというのは俺としてはかなりのアドだった。

 ヤツに合うというのは俺が思う以上にストレスだったようで、最近は寝起きスッキリ夜もぐっすりである。

 ストレスフリーで時間もフリー。好きなだけ自分のやりたいことが出来る。すべてが順風満帆の夏休み。

 しかし、一つ誤算があるとするなら......。


『――あ、おはようございます!』


 ドアの向こうから聞こえる快活な声に俺は思わず顔をしかめた。


 テレビ画面の左上の時計には午前九時と表示されている。今日のバイトは九時半からなので、そろそろ出ないとまずい。

 しかし、玄関の前に誰が控えているか分かってしまった。

 そうなるとまあ、


「で、出づれぇ......」


 こういう時部屋が二階にあるってのは厄介だ。窓から出るという荒業が出来ない。そうなればもう自然、足はイヤでも玄関に向かざるを得ないわけで......。

 ......ちくしょう。一個ストレスがなくなったと思ったら、また今度は別のストレス。ハゲたらどーすんだよマジで。


 持ち物を突っ込んだリュックを背負い抜き足差し足で玄関に向かう。そしてのぞき穴からその先を確認して......まあ、うん。諦めてノブをひねって押し込んだ。


「――あ、おはよう、佐伯」


 待ち合わせでもしていたかのように、扉の向こうの人物、小幡はこともなげにそう挨拶してきた。

 対して俺はそれを無視。背を向けて部屋にカギをかける。


「今日もバイト? 精が出るね~。私も今日午後からバイトなんだ~」


「......」


「おっ、また時間やばい感じ? 佐伯せんせー急げ急げ~! 遅刻したら大変だぞ~?」


 後ろから飛んでくる声を遮断すべく俺は耳にイヤホンを突っ込んだ。


「いってらっしゃーいっ!」


 音漏れしてるんじゃないかってくらい爆音で音楽を再生する。

 一度も小幡のほうへ体を向けない徹底ぶり。もう慣れたものだった。

 それもそのはずで、こんなことがもう三日続いていた。


 そして今日で四日目。朝バイトに行くため部屋を出るとその先で待ち構えていて、夕方帰ってくるころには姿を消している。

 よくもまあ飽きずに来れるもんだというのが強がった俺の感想で、本音はというと、もう勘弁してほしかった。

 早くアパートから離れたくて、知らず歩調が速くなる。


 きっとこのまま放っておけば、そう遠くないうちに小幡の足は遠のくだろう。そのきっかけが木村たちと出かける約束なのか、はたまた単純に面倒になったからなのかは問題じゃない。

 でもひとつ確実にわかっていることは、俺が言ったところで小幡は来るのをやめないということだ。そも、俺にかたくなな相手を懐柔できるような交渉力などない。

 だから俺は無視することに決めた。

 たとえ心が痛んでも、それ以外に出来ることがなかったのである。


 翌朝も、ドアの向こうから小幡の声がする。

 こんなことしてなんになる。

 そう言ってやりたかったが、あの強い意志を宿した瞳の前にそんな言葉は奥に引っ込んだ。


 ――そしてその翌朝も、そのまた翌朝も、小幡は俺の部屋の前にやってきていた。

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