51 甘くて甘いサプライズケーキ


『イケメンだけど文句ある? レックスです! 今日も一緒に楽しんでいきましょう!! 今日は年に一度のビッグイベントだよね。何の日かって? そう! クリスマス・イブでーす!』


 自宅のリビングで千穂と一緒に眺めている時とまったく同じテンションのレックスが、画面の向こうで動画を進行させていく。


 春の頃は画面の向こうにいる男を冷たい目で見やり、文句を言って良いのなら言ってやりたいと考えていた。にもかかわらず、その後、偶然の出会いを果たしてから徐々に見る目が変わっていった。尊敬の対象になり、共に過ごす事が嬉しくて楽しい相手になり、いつしか誰よりも大切な人であると同時に恋心を向ける対象になっていた。そんな事を月はテレビ画面を見ながら、ぼんやりと頭の奥で考える。


 月がレックスの動画を見る時の心情は時期によって大きく変化して来た。しかし、様々な変化を経験してなお、今この時、月の胸の内側にある感情はそれまでに経験した事のない類のもの。幻想的なキャンドルの光が揺蕩う空間で月は隣に座るレックスの気配に気を取られつつ、自分の煩い心臓の音をBGMにしてテレビ画面から目を逸らさずに見つめる。


 動画内のレックスは短めのオープニング終わると、白いコック帽を被ったパティシエスタイルに着替えて洋菓子店の厨房に立っていた。そこにゲストである一流パティシエが登場し、プロの下でクリスマスケーキ作りに挑戦すると企画内容を発表する。軽めのトークを挟んだ後、パティシエがどんなイメージのケーキを作りたいかをレックスに尋ねる。レックスはその質問を受けて、何てことない様子でさらりとケーキのテーマを発表したが、それを聞いた月は息を呑むことになる。


『“Moon”――――お月様をイメージしたお洒落なケーキにしたいです』


『おおっ、素敵ですね。でもどうして、月をテーマに作ろうと思ったんですか?』


『ただ単純にですね』


 ただでさえうるさかった心臓がドクンとさらに大きく脈打った。次いで月は首をぶるぶる横に振った。勘違いするなと何度も自分に言い聞かせる。隣にいるレックスは無言で画面を見つめたまま。深い意味なんて絶対にない。そう思うことで自らを冷静にさせたいのに、目の前で再生されている動画が月に思考のコントロールを許さない。


 デコレーションケーキの作り方を教わりながらレックスはトークを続ける。ケーキ作りの工程に関する話の合間、レークスは何度もテーマにした“ムーン”について語った。


『気になり出したのは割と最近なんだよね。ふと見たらイイ仕事してるなって思ったの。それまで陰って見えなかったところがムーンが現れると綺麗に見えるようになってさ。太陽なんかと比べると目立たないんけど、その存在が有難くてすごいって感心しちゃったんだ』


『視界に入ると観察する様になっちゃって。でもって、見ているうちに段々可愛く思えてきたんだよね』


『何より、こっちの気持ちに寄り添ってくれる感じがするんだ。いつもは控えめで全然積極的じゃないのに、いつの間にか俺の事を見ていてくれてんの。不思議なくらい俺の心を温かくしてくれる』


『柔らかい光でさり気なく足元を照らしてくれる。居なくなったら困る未来しか想像出来ない』


『最近はどんなに仕事に疲れていても夜空を見上げてツキを見つけると元気になれる。なんかここまでくると俺にとってあの天体はお守りみたいなもんだね』


『こんな風に思うようになるなんて想像もしてなかったんだけど――――めちゃくちゃ好きだなって』


 小麦粉やバター、卵に生クリーム、チョコレート。様々な食材が姿形を変えて徐々にケーキが出来上がっていく。プロの指導の下で飴細工やチョコレート細工の飾り作りにも挑戦するレックス。苦戦するシーンもあるが基本的に器用なのか着実に工程をこなしていく。途中からケーキの完成形が分からないように画面の一部にモザイクが入るようになる。そのタイミングで、いつの間にか食い入るように動画を見ていた月の感情が、胸の中にある器の容量を超えてだくだくと溢れだす。


 レックスが紡ぐ言葉一つ一つだけではなく、その声色や柔らかい表情、ケーキを丁寧にそして真剣に作る様子が、まるで自分に向かって語り掛けてくれているような錯覚を月に起こさせる。こんな風に言ってもらえたらどれだけ幸せだろうと、目が潤みそうになる。そして、これは本当に錯覚なのだろうかと期待してしまう。


 違う、これは、星の話をしているんだ。


 そう自分に言い聞かせても、月の胸は勝手に高鳴ってしまう。いっそ画面から目を逸らして一度落ち着こうという考えが頭に浮かぶが、そんな考えは振り払う。月は動画を見続けた。一秒も見逃してはならない。そんな気がしたからだ。


 必死になって画面を見つめていると、動画の中のレックスが『完成!』と嬉々とした声を上げた。直後、カメラ目線になる。


『では、完成品を見て頂いて、答え合わせをしようか』


 意味深な台詞をキメ顔のレックスが放った瞬間、映像がプツンと切れて月の視界には黒が広がった。突然電源が切れたテレビに一瞬停電を疑ったが、直ぐに原因は他にあるのだと気が付く。


「動画はこの後も視聴者向けに続くんだけど、ムーちゃんにだけは違うエンディングをリアルで用意したんだ。――――続きを聞いてくれる?」


 僅かだがレックスの声が震えていた。心なしか声色が硬い。月は真横にいるレックスをゆっくり振り返り、見上げた。キャンドルの淡い光に照らされたレックスは笑んでいた。けれども声と同様にどことなく表情も硬い。そこはかとない緊張感に、月は声を出さずにコクリと頷いて続きを促した。


 レックスは姿勢を正して一度深く長く息を吐く。次いで黒い箱に手を伸ばし、掛けられた金色のリボンを解き、箱を両手で挟むように持つ。


「これが俺からのクリスマスプレゼント」


 言うと同時に慎重な手つきで箱が垂直に持ち上げられる。そうして出て来たケーキに月は感嘆の声を上げた。


「わぁ、すごい!! 想像以上に素敵です! とっても綺麗」


 うっとりと見入ってしまったのはチョコレートでコーティングされたザッハトルテというホールケーキ。艶のあるチョコレートが周囲のキャンドルの光で煌めいている。そしてそのケーキのデコレーションが月の予想を遥かに上回って美しかった。


 金と銀とが混ざったリボン状の飴細工が大小複数上に向かってゆるやかな螺旋や弧を描いている。その根本部分に糸状の飴が淡い雲の様に広がり、ケーキ表面の一部を隠す。ふんわりとした糸飴を枕にするようにチョコレートマカロンとラズベリーの実がコロコロと可愛らしく添えられている。銀のアラザンが所々のアクセントに使われ、まるで夜空の星の様。そして、リボン状の飴細工に優しく包まれるかのように、金箔で着色された三日月型のチョコレートが繊細な飴細工の土台の上で輝いていた。


 夜空に輝く月。


 幻想的でありながら、優しさが漂う、まさにそんなイメージのケーキがそこにあった。


 あまりの完成度にケーキから目を離せなくなった月の横でレックスが口を開く。


「このケーキはね、ムーちゃんをイメージして作ったんだ」


「えっ? そんな、私なんか――――」


 美しいケーキを目の前にまさかの言葉。謙遜と恐れ多さで、自分はこんなに綺麗じゃない、と慌てて主張しようとしたが声が続かない。レックスが月の手に触れたからだ。


「どこまでこのケーキで表現出来ているかは自分でもよくわからないけど、俺にとってムーちゃんはとても綺麗で――――どうしようもないくらい愛しい存在なんだ」


「…………いと、しい?」


 普段中々耳にすることのない語彙をつい復唱してしまう。レックスはそんな月に優しく微笑みかけ、軽く指先で触れるだけだった月の手をしっかりと両手で包んだ。


「はじめは仕事に対する姿勢に惹かれたんだ。自分より若くてちょっとおっちょこちょいな女の子がプロ意識を持って仕事に取り組んでいる姿が眩しかった。異性には、特に若い女性には苦手意識があったのに、ムーちゃんみたいな女の子になら家の事を任せてみてもいいかなって、ナチュラルに思えたんだ。少しどんな子なのか知りたいっていう好奇心もあった。でも変に幻想を抱かれるのも嫌だから、自分の素を見せていこうって敢えて飾らない俺を全開で見せてきたんだ。だらしなかったり、仕事ばっかりで他の事をおざなりにしたりしているところとか。引かれるもしくは幻滅されると思っていたんだけど、ムーちゃんはあっさり俺の素を受け入れて、俺の日常に馴染んじゃったんだ。他人を家に入れているはずなのに不思議なくらいストレスがなかった。加えて、ムーちゃんは俺が欲しい言葉を一杯くれるんだ。俺のガラクタを宝物って言ってくれたり、自己管理出来てなくてへばった時に健康第一って責めるよりも仕事に対する姿勢を褒めてくれたり。俺の過去を知った上で、声を張り上げて遠野美来に対して怒ってくれた…………どれも嬉しかった。でもって何より、表面上でしか女の子の事を好きになれなかった俺が、過去と向き合って自分を変えてでも一緒に居たいと思った相手が――――」


 レックスが言葉を切り、月の手を握る両手に力を込めた。正面からまっすぐ見つめられ、そのあまりに真剣な表情から目が逸らせない月。胸騒ぎが最高潮に達した、その時だった。


「――――五島 ムーンさん、君だ」


 一瞬呼吸が止まる。自分の名前を家族以外に真っ直ぐに呼ばれたのが久々過ぎて、条件反射で体が強張った。けれども直ぐに、自らの手を包み込んでいるレックスの体温にふと意識が向く。するとごちゃまぜで整理が全く出来ていない感情が一気に凪ぐ。次いで蕾だった花が開いて甘い香りが広がるかのような幸福感に全身が包まれた。


 大っ嫌いだった自分の名前。けれども、捨てる事も出来なかった自分の名前。父親に対し、名前ごと自分を愛して欲しいという欲求をずっと抱えて苦しんで来た過去。月は自らの名を呼ばれる度に傷ついてきた。しかし今、月の内側はどこも傷ついてなどいなかった。苦しみも悲しみも嫌悪感もない。ほんの少しの切なさを伴いつつも、レックスに自分の名を呼んでもらえた事を純粋な喜び、受け入れる事が出来た。それがまた新しい喜びを生む。


「ありが、と、っ、ござい……ますっ」


 感極まって、気が付いた時にはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。その涙を空いている方の手でどうにかこうにか拭いつつ、月は胸の内をそのまま吐露した。


「私……、松田さんに名前を呼んでもらえて、こんなに嬉しいって、思える事が、すごく嬉しくてっ。それに、私、自分のこと好きじゃなかったからそんな風に言ってもらえるなんて――――」


 嬉しいと繰り返し言いかけて、不意にこのまま言葉通りに受け取って良いのかと不安に思う。レックスが語った事は月の耳にはまるで愛の告白だった。真に受けて後から勘違いだと分かったらとんだ赤っ恥だ。核心的な言葉が欲しかった。


「あの…………一緒に居たいっていうのはどういう意味ですか?」


 素直に疑問を口にする。するとレックスが手の力をすっと弱めた。離れていってしまう、そう思って追いすがるように指先に力を入れかける。しかし、レックスの手は離れて行かず、緩んだ片手の指が月の指と指の間に入り込み、ギュッとまた握られる。繋いだ手がゆっくりと持ち上げられ、レックスの口元を隠した。手を追っていた月の視線はそのままレックスの表情を捉えた。


 真剣な双眸と真っ直ぐに視線がかち合う。手が引き寄せられ、レックスの吐息が月の指の皮膚に届き、身体が震えた。


「ムーちゃん、いや……ムーンさんの事が好きです。俺の彼女になって下さい」


 信じられない、反射でそう思っても、レックスを疑う余地などどこにもなかった。嘘や冗談の気配などは欠片もない。ストレートな告白に月の胸はこれでもかというほど熱くなる。


 持ち上げられた状態で絡まる二人の指に月はもう片方の手を伸ばし、包み込むようにぎゅっと力を込める。自分の気持ちがしっかり伝わりますように、という想いを指先と声にのせた。


「私も、松田さんが好きです。私も、松田さんの傍にずっと一緒に居たい、です」


 恥ずかしさで俯きそうになるのを何とか堪えて、出来る限りの笑顔で愛の告白のお返しをする。どこが好きかも伝えようとしたが、冷静とはいえない脳は具体的な箇所を導き出すよりも大胆な指示を月に出した。


「松田さんの全部が大好きです!」


 好きの気持ちを一まとめにして思いっきりぶつける。すると、レックスの表情を確認する間もなく、背中に片腕が回ってきてギュッと抱きしめられた。


「嬉しいっ。めちゃくちゃ好き」


「わっ、私も!」


 ほぼ耳元で愛の言葉を聞かされ、月はどうにか平静を保つためにまた好きを返す。するとより一層強く抱きしめられる。言葉で言い表すことが出来ない程の幸せな気持ちを月はレックスの腕の中で味わった。


 中途半端に体に挟まれる位置になった繋いだままの手が窮屈になり、互いに同時に解く。月のその手はどこへ行ったらよいのか分からずにだらりと垂れたが、レックスの手は違った。月の腕から背中、首筋を通ってその手は月の耳に触れた。


「ねぇ、これからはムーちゃんじゃなくてムーンって名前で呼んでいい?」


 耳たぶにそっと指先で触れながら息を吹き込むようにレックスが囁いた。


「俺はね、月って名前が大好きだよ。誰よりも大きな声で、愛をもって呼ぶ自信しかない。だから、その名前を初めに呼ぶ事を許す家族以外の相手を俺にして欲しい」


 色気たっぷりの低い声が、まるで蕩けたチョコレートのように甘い台詞を耳から流し込んでくる。


 未だに名前を呼ばれると月の肩は僅かに強張る。長年のコンプレックスはそう簡単に消えはしない。けれども、名前を呼ばれる事に慣れるのならば、呼んでくれる相手はレックスが良い。


「松田さんに呼んでもらえるなら嬉しいです」


 精一杯明るい声で喜びを表現したつもりだったが、感情が高ぶって声が若干上擦る。それを誤魔化したくて、軽く身じろぎをしようとしたがそれが叶わない。


「月」


 耳元で名前を呼ばれた。


「ねぇ、月?」


 以前からそう呼ぶ事が当たり前だったかのように囁かれる。耳に触れていた指がするりと移動して、いつの間にか顎にそえられていた。


 あれ? この状況はどうしたらいいの?


 そんな疑問が脳裏にひらりと浮かんだ刹那。


「月、大好き」


 愛の言葉と同時に唇のすぐ横に柔らかくて温い何かが触れた。


 キスされた、その事実に驚いている暇は月に与えられなかった。


 触れて割と直ぐに離れた柔らかい唇は、頬に触れるギリギリのところで空気を震わせる。


「こっちに、ちゅーしていい?」


 可愛らしい言い方だったが、内容が月にとっては可愛くない。こっちと言いながらレックスの指先がそっと触れたのは月の下唇。急激に体温が上昇するのを感じながら月は何とか声を絞り出す。


「そのっ、あのっ、…………お、お任せしますっ」


 他力本願。自分でどうこうすることも、イエスかノーを答えることも難易度が高く、すべてを丸投げ。すると、レックスはおかしそうに笑った。


「ほんと、かわいい。じゃあ、遠慮なくお任せされるね」


 遠慮なく、という部分に何やら無視出来ない含みを感じ取り、月はとにかく一回止まってもらおうとしたのだが。


「あの、ちょっ――――んっ」


 何を発言する前に唇と同時に思考が奪われ、何もかも考えられなくなった。


 唇がくっついては離れ、また角度を変えてくっついて。時々名前を囁かれて。


 何度となく繰り返されるキスは決して深くはならなかった。けれど、恋愛初心者の月には充分以上に刺激が強かった。レックスの唇から解放された瞬間、一杯一杯の月は蚊の鳴くような声で抗議した。


「もっ、ちょっ、げっ限界です。恥ずかしいっ」


 必死になってレックスの肩を押して距離を取ると、眼前の整った顔が不満そうに唇を尖らせた。


「えー。この後、ケーキのチョコ、口で食べさせてあげようと思ってたのに」


「!? ――――そんな上級者向けの戯れ、無理ですっ」


 声を張り上げると、レックスはきょとんとした後に破顔した。


「ははっ、じゃあ初心者向けのところから、二人で始めよっか」


 その後、初心者向けだからと言われ、何度も何度もアーンで食べさせられた手作りのケーキ。それはビターチョコのはずなのに、人生で最も甘くて甘い味だった。

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