第9話 レックスの過去

34 覚悟を決めて

『ムーちゃんと種ちゃんに聞いてもらいたい事があるから、今日の夜、俺の仕事が終わった後の時間を貰えないかな?』


温め直したスープとラップに包んでおいたおにぎりを完食したレックスは月に夜にまた部屋に来るように願い、月がそれを了承した後に仕事に出掛けて行った。


月はこの日午後にもう一軒分仕事が入っていた。なので、その仕事を表面上は黙々とこなしつつ、頭の中ではずっと仕事以外の事を考えていた。


脳内を巡るのは当然レックスのマンションでの出来事だった。






家事代行の契約時間を過ぎ、一度レックスの部屋を出た後、月はエレベーターホールで一歩も動けなくなった。それまでは仕事はせめてしっかりこなさなくてはならないという責任感と義務感で体を動かしていたが、その精神的な支えを失った月は身動きが取れなくなる程打ちひしがれた。


自分が中途半端に美来と関係を持ったばっかりに、レックスの動画が炎上するような事態が起こり、それによってレックスからの信頼を失ってしまった。


脳内では何度も何度もレックスの全ての感情を失ったかのような虚ろ表情と、その後辛そうにぐしゃりと歪められた泣く直前のような表情が蘇った。月は唇を噛んで必死に涙を堪える。


どうにか挽回できないかと考えるが、レックスが言った台詞が耳に残っていて、良い案を思い浮かばせてくれない。


、信用するとかやっぱ無理っ』


レックスは月個人ではなくという括りに入る全てを拒絶している。月はそう解釈した。拒絶の原因は恐らく美来が作り出したもので、美来を筆頭とした女という集団の中のほんの一部に月は成り下がってしまったのだと絶望した。自分一人が仕出かしたミスを挽回するのならば自らを改めれば良い。しかし、レックスは月個人を見てくれていない。レックスが抱えているトラウマの内容は知らずとも、その大きさと深さはそれまで見て来たレックスの様子から自ずと知れた。そんな複雑な過去に月がメスを入れる事など不可能に近く、レックスが自ら月に対する認識を変えてくれなくては、以前の様に心を開いては貰えない。


出来る事がない。完全に詰んだ。嫌われてしまった。


月はその場で放心し、俯き、瞬きも忘れて床を見つめた。


あの様子じゃ、もう二度と来るなと言われてしまうかもしれない。もう、二度と会えなくなってしまうかもしれない。


そう考えた時、月は走馬灯のようにそれまでにレックスと過ごした時間を思い出した。すると寂しさや悔しさで埋め尽くされていた胸中にぽっと小さな火が灯る。


そんな簡単に諦めて良いのか。まだ、何かやれる余地はあるんじゃないか。


来るなと言われたとしても、返したい恩があるんじゃないか。


会いたくないと言われても、会いたくて仕方がなくなってしまうんじゃないか。


それなら――――


『目の前にあるやりたい事・やるべき事には全力で取り組み、逃げたり、投げ出したりしない』


今こそこの誓いを守り、実行すべきなのではないのか。


月はエレベーターホールに突っ立って、何度も自分のすべき事、レックスに伝えたい事を考えた。


そうして覚悟を決め、踵を返した。


結局、短い時間に伝えたい最低限をと思ったら、自分が側に居続ける事よりレックスに少しでも元気になって欲しいという想いが勝ってしまい、二度と会う事が出来ない覚悟で一方的な想いを語ってしまった。


そしたら何故か種田に思いっきりデコピンをされ、その痛みに耐えている間にレックスが部屋から出て来て抱き締められた。


突然の抱擁に口から心臓か飛び出すかと言う程ドギマギした月だったが、大きくて広い胸と腕で抱きしめてくるレックスの声は弱々しく、徐々に小さな子どもに縋られているような気分になっていった。すると余計な緊張が解れ、レックスが落ち着けるように声を掛けることが出来た。


その後、種田とレックスが振られた云々と意味深な会話を繰り広げ、月は密かにギョッとした。けれども、二人が醸し出す空気は気軽に他者が立ち入れるようなものではなく、月は詮索せずに黙っている事を選んだ。二人は一言では言い表せないようなとても複雑な感情をのせた顔をしていたけれど、そこには崩しようのない確固たる信頼と愛情があるように見えた。レックスの心が多少なりとも穏やかになったのは嬉しかったが、種田との仲がまた一段と深まったように見えて月は少しばかり嫉妬した。


その嫉妬心を誤魔化しつつ、種田に指摘された通りに仕事をしていなかった時間分を取り戻さなくてはと多少焦ってキッチンに立つ。先程は労働時間の計算も出来ないくらいに気が動転していたのだ。それを情けなく思いつつ、スープを温め直した後に種田に寝室の掃除とベッドメイクも頼まれ、それを真面目にこなした。その後戻ったリビングで、レックスは月と種田に聞いて欲しい事があると言ったのだった。


レックスは随分と落ち着きを取り戻している様に見えたが、その提案をした時は片腕を抱くようにして、一言一言をゆっくり紡ぐように声にした。俯きたくなるのを必死に堪えている様子で月と種田に視線を向け、真っ青な顔に笑顔を張り付けていた。そんなレックスを見れば何を話そうとしてくれているのかは自ずと予測出来た。


わざわざ話す事はない。月にはそう思えた。無理してトラウマを自ら掘り起こす必要などないのだと。けれども、同時に決心したのだったら止めるべきだはないとも考えた。人に言えない過去は往々にして重たい。どんな些細な隠し事でも隠している本人にとってそれを曝け出す行為は身を切るような精神的苦痛を伴い、莫大な勇気を消費する。秘事の重さに比例して大きくなくなる勇気の必要量を、現在のレックスは辛い心境の中作り出したのだ。今後いつ作れるかも分からない大きな勇気を絞り出したレックスは止めるべきではなく、受け入れるべきだと月は判断した。どんな告白をされたとして臆さず広い心で受け入れて、少しでも心の傷が癒えるように接する。その覚悟が月には必要で、それを夜までに整えなくてはならない。


月はそんなことを考えながら、午後の仕事をより丁寧に終えた。


軽めの夕食を喫茶店で採りながら時間を潰し、その間に千穂に帰りが遅くなると連絡を入れる。すんなりと遅い帰宅を受け入れた千穂だったが、軽く世間話を挟むとドキリとする話題を振って来た。


『ちょっと聞いてぇ~! レックス様がネットニュースに取り上げられてたの! しかも、その内容がファンに対する誹謗中傷ですって!! んもー!! 絶対にそんなことあり得ないのにぃ!!』


ドキリとはさせられたが、夜に向けて高まっていた月の緊張が千穂の憤る声で僅かに和らぐ。


凄いな、松田さんは。世の中の一部がどんなに騒ぎ立てても、貴方がとても素敵で優しい人だって分かっている人間が、貴方のことを応援しているファンがこうしてちゃんといるんですね。


月は千穂の憤りに暫く付き合った後に、喫茶店を出た。


レックスと種田は事務所で打ち合わせの後、夜に動画の撮影が入っていると言っていた。だから帰りがそれなりに遅くなるであろうことは分かっていた。時刻はまだ八時を少し過ぎたくらいだったが、月はぶらぶらとゆっくり歩きながらレックスのマンションに向かった。


十二月の冷たい空気が頬を撫で、時折どこからともなくクリスマスソングが耳に入って来る。その楽し気な音楽にほんの少し励まされながら月は一歩一歩進む。電車に乗って、乗り継いで、またゆっくり歩いて、途中でコンビニに寄って自分用のホットミルクティーとスイーツを手土産に買って、またゆっくり歩いて。それでもレックス達よりも早くマンションに辿り着いた月は既にコンシェルジュが退勤して無人になってエントランスのソファに腰掛ける。何をすることがないのでホテルのように豪華なエントランスの調度品を眺めてながら過ごしていたが、途中で少し心細くなってYouTubeでクリスマスソングメドレーを再生する。


温いペットボトルのミルクティーを両手で包みながらぼんやりしている内に、肉体的にも精神的にも疲れた体が瞼を閉じさせ、思考が微睡む。


サンタクロースが大人のところにもやって来て、目に見えなくてもいいからプレゼントを置いていってくれたらいいのに。例えば心の傷を塞いでくれる魔法の薬とか……。


子どものようなことを考えていたら不意に頬に風を感じ、月は閉じていた目を開ける。


「お待たせ。こんな所で寝たら危ないよ、ムーちゃん」


ソファの背もたれ側からレックスが覗き込むように月を見下ろしていた。声は落ち着いていて優しいが、グレーの薄いチェスターコートを肩から掛けている顔色はお世辞にも良いとは言えず、笑顔が硬い。


ああ、サンタに頼っている場合じゃない。今は他力本願じゃダメだ。


自分で考えて、自分で向き合って、自分が受け入れて、自分が癒してあげたい。


「…………おかえりなさい、松田さん」


松田さんが上手く笑えない分、私が笑おう。


そう思って緩く口角を上げれば、レックスが軽く目を見張った。


「俺の存在は無視か、着膨れ女」


ソファの後方から相変わらず辛辣な声が飛んできて、月は身体を捻った。


「お疲れ様です、種田さん。私寒がりなんですよ。秋の終わりからマフラーとダウンが相棒です。真冬はもう一段階丸くモッコモコになります」


「小さい力士の出来上がりだな」


「ひゃー、酷い言われようだぁ!」


気軽なやり取りがレックスの顔を見た瞬間から少しずつ高まっていた緊張をほんの少し和らげてくれる。


月はカラカラ笑いながら荷物を持って立ち上がった。レックスと視線の高さが近づく。


自然な流れで移動しようと一歩踏み出したが、何故かレックスは止まったままだった。


どうしたのだろうかと顔を窺えば、そこには泣き笑いのような表情があった。


「――――ただいま、ムーちゃん」


感情の籠ったその声に月の胸がギュンと高鳴ると同時に切なくなる。


そして、視界の隅に見えたレックスのむき出しの手がどうにも冷たそうに見えて、月は思わず手を差し出した。


「松田さん、小さな力士は脂肪の厚みで手がぬくぬくなのですが、人間カイロいりますか?」


一瞬キョトンとしたレックスが苦笑で吹き出し、月の手を取った。


「ははっ、本当に温かい」


不思議と照れ臭さは感じず、種田のジト目の視線も気にならなかった。


月は握られた手を引くようにして種田に続き、レックスの部屋にゆっくりと向かった。






辿り着いたレックスの部屋のリビング。


種田はダイニングチェアに腰掛けて、月はレックスに勧められるままソファに座り、レックスは何となく落ち着くからと言ってフローリングに直に座って――――


「…………俺が俺とちゃんと向き合って、俺がなりたい自分になる為に…………二人には俺の昔話を聞いて欲しい――――」


ゆっくりとたどたどしく始まったのは、レックスが高校時代に経験した辛く重たい過去の話だった。

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