29 喫茶店で見え隠れする過去

 月は手に持った美来の名刺を見下ろしながら冷や汗をかいていた。


 理由は幾つかある。


 名前にコンプレックスがある月にとって名刺はそもそも苦手なアイテムだ。仕事上使わなくてはならない場面では落ち着かない内心を何とか隠しながらそれを差し出し、それ以外の場面では目に留めたくないので仕事用鞄の奥底にケースに入れて隠してある。他人の名刺を見ただけでも反射で若干背筋が寒くなるという嫌な身体的な癖すらあった。


 そんな癖が発動する中、名刺を差し出され自己紹介されてしまったので、月の方も名乗らなくてはならない雰囲気が出来上がってしまう。それがさらに問題だった。


 そもそも、月は自己紹介が大嫌いだ。学生時代はしなくてはならない状況になると過呼吸を起こすことも少なくなかった。社会人になって以降は無難に名字だけ名乗るようになったので、その苦手意識は多少は薄らいだが、気軽に出来るレベルには全く達していない。


 その上、月は美来の前でレックスの撮影関係者を装ってしまっている。レックスの部屋に頻繁に出入りしている家事代行業者であることは口外しない約束だから、身分を修正する事も出来ない。正直に自分が何者であるかを話をする必要はないとは分かっていても、気まずい思いが沸々と沸き上がってくる。


 どうしたものかと、黙りこくって無駄に頭の中でぐるぐる思考を回していると美来の方からギクリとする質問が飛んで来る。


「あの、貴方は松田くん……レックスくんとはどういった関係なのかな? 撮影スタッフさん?」


 なんと返すべきかと考えて数秒。黙り込み過ぎると違和感を持たれると、月は思い切って口を開いた。


「私はレックスさんの……動画撮影関係者で、五島といいます」


 嘘を吐かないギリギリを攻め、名字だけ名乗る。そしてそこからいつもの習性で余計なことを聞かれないようにと、畳み掛けるように喋り出す。ただし声量は少し落とした。


「あの、人もまばらですし店内BGMで声が響き辛いとはいえ、どこに人の耳と目があるか分かりませんから、この場では私も松田さんとの事を呼びますね。でもって、お話をお伺いすると言ってしまいましたけど、本当に聞くだけです。私にはご協力出来る事は何もないと思います」


 つい先ほど女子高生の会話を聞くまでは知らなかったが、レックスの本名はファンにはそれなりに知れ渡っているらしい。よってレックスの仕事関係者だと思われている月が本名を知っていても何らおかしくない。ならば万が一周囲の人間に会話の内容が聞かれたとしてもレックスの話だと気が付かれづらい名字呼びを推奨した。


 加えて予防線をしっかりと張る。泣き落としでノコノコ一緒に喫茶店に入っておいてなんだが、これ以上は優しくしないぞとやや厳しめの姿勢を示し。すると、美来はぱっちりとした目を切なげに伏せた。


「それでも、私は貴方にお願いするしかないの。……やっと会うことが出来た松田くんに唯一繋がることが出来る人だから」


「お願いされても貴方を松田さんに会わせるつもりはありませんよ」


「っ、そんなことを言わないで! 私はただ直接会って松田くんに謝りたい事があるだけなの!」


 勢いよく顔を上げた美来は必死な形相を浮かべつつ、切なげに胸を押さえていた。


 一体過去に何があったのだろう?


 そう思わずにはいられない。けれども、それを月が問うのは何か違う気がした。だから何も聞こうとはしなかったのだが、美来の方から話し始めた。


「私と松田くんは同い年で、高校生の時に会った……知人なの」


 知人という他人行儀な関係の表現方法に月は小さな驚きと共に違和感を持った。男女であるし、見た目や年の頃から判断して“恋人”という単語が飛び出してくる事を月は心のどこかで覚悟していた。そうでなくても“同級生”が“友達”という関係を予想していた。にもかかわらず、まさかの知人発言。


 裏があるとしか思えなかった。人には言えないような関係だったのではないかと、無粋な勘繰りが月の脳内に生まれる。


「それで、その高校時代に私……松田くんにとても酷いことをしてしまって。心の中にその罪悪感が今でも強く残っているの。ずっと謝りたかったんだけど、そのチャンスを得ることが出来ないまま何年も経ってしまって。そして、あの広場の大きな広告を見てしまったらそれまで以上に色々思い出してしまって、もう辛くて苦しくて。そんなタイミングで奇跡的に松田くんが現れたから、つい感情的に……」


 テーブルを見つめる美来の長い睫毛が僅かに震えた。同時に顔を覆うように下がった髪を耳に掛ける動作が妙に色っぽい。


「あんな騒ぎになってしまったのは本当に申し訳ないと思うけど、私も必死だったの。YouTuberをしている事は昔から知っていたけど、ここ数年で他のメディアにも松田くん沢山出るようになったでしょ。不意打ちで顔を見る度に胸が張り裂けそうになった……。私は誠心誠意謝りたいだけなの。メールとか電話とかではなく、直接会ってしっかりと目を見て謝りたい。だから……貴方に協力してもらいたいの」


 ツイっと視線を上げて上目遣いで見つめられる。目は再び潤み出して室内のライトを反射してキラキラしているし、涙を何度も拭って腫れた赤い目元が痛々しい。


 過去にどんな事があったのかは全く分からなかった。ただ、美来の表情は嘘を言っているようには見えず、心の底からレックスに謝りたいと思っている事は分かった。


 こんなに思い詰めているんだし、謝るだけなら――――


「お待たせ致しました。アイスコーヒーです」


 店員に声を掛けられて月はハッとした。目の前にいる美来の雰囲気に流されて、その願いを叶えて上げたいと思い掛けてしまった自分の頬を心の中で軽く叩く。


 広場で見たレックスの様子から、二人の間にある問題は謝ればそれで済む程簡単ではない可能性は大いにある。


 美来の思い詰めた様子は可哀想にだし、協力出来ることがあるならしてやりたいと思うが、それはあくまで他人に対して同情する感覚で、具体性は全く生まれない。


 対してレックスが望まない事は絶対にしたくないという確固たる想いが月の中にはある。そもそも月が美来の手を取って二人きりで逃げ出したのはレックスを余計な心労から守るためだ。その場限りの感情で下手な返事は絶対に出来ない。


 月はぐっと拳に力を入れると同時に唇を引き結んだ。そうして心の中でしっかりと自分に余計な事を言わないようにと言い聞かせた後、口を開いた。

 

「ここのお店のコースター可愛いですね」


 アイスコーヒーを一口飲んで、目に入ったお店のロゴマークと思われるフクロウが彫られた可愛らしい木製コースターを意味もなく褒める。突然話題を変えられた事に美来が戸惑いつつも「そうですね」と律儀に自分のアイスコーヒーを持ち上げてコースターを確認してくれる。


 悪い人ではないのだろう。そう思いつつ、月はその無意味なやり取りをワンクッションにして、心と視線を整えて美来を真っ直ぐ見据えた。


「やっぱり私では貴方のお役に立てそうにもないです。謝罪がしたいのなら事務所宛にお手紙を送ってみてはいかがでしょうか? 松田さんはゆっくりペースでもファンレターは読んでいるみたいですよ。時間は掛かるかもしれませんが遠野さんの想いを伝える事が出来るかもしれません」


 月はレックスが時々休憩とすると言ってソファーでコーヒーを飲みながら事務所に届いたファンレターを嬉しそうに読んでいるのを知っていた。だから、謝意を伝えるだけなら直接会う必要はないと暗に伝えた。


 美来の顔に失望の色が広がる。けれども、今回は泣き出す事なく冷静に協力しない理由を問われた。月は慎重に言葉を選びつつ、はっきりと自分の意思を主張した。


「松田さんが貴方に会いたがっているようには見えませんでした。会いたくない人に会うのには気力も体力も必要です。申し訳ないですけど、私はそうと分かっていて遠野さんの方の気持ちを優先する事は出来ません」


 月はついさっき“父親”という、会うのに体力を使う相手に会ってきたばっかりだ。感情的になって逃げ出して来た後だからこそ、レックスの気持ちを思うと易々と取り継ぐ気持ちにはなれなかった。


 月は和司との直前のやり取りがあったからこそ感情を爆発させて逃げ出した。対してレックスは直前に美来と何をやり取りしていた訳でもないのに、その存在を目に留めて直ぐに距離を取ろうとした。顔色もお世辞にも良いとはいえなかった。それは言い換えれば顔を見ただけで急激に負の感情が膨れ上がって感情を支配されてしまう程のトラウマを抱えているのではないか。そう予測し、その心情を想像すると月の胸はギシッと軋んだ。


 美来は「そう……」と小さく呟き黙り込んだ。月には美来に対する励ましの言葉が思い浮かばず、ただ黙って次の反応を待つしかなかった。


 月は気まずさを誤魔化すために緊張で乾いた喉を潤そうとアイスコーヒーに手を伸ばした。すると同じタイミングで美来もアイスコーヒーに手を付けた。ガムシロップとミルクを一ずつグラスに入れくるくると掻き回し、そのままストローに口を付ける。そうして息を軽く吐いた美来は何の脈絡もなく話題を変えてきた。


 それまでの空気を恥ずかしがるようにはにかんで笑い、はじめはコーヒーの味を褒め、次いで自分が仕事帰りで、駅から近いビルで不動産関係の営業事務をしている事を語った。それは完全に世間話をするテンションで、急な切り替えに月は少なからず戸惑った。


 ただ、美来の話は嫌味なく聞きやすく、いつの間にか月はその話に耳を傾け相槌を打ち、反応を返していた。そうして何種類かの話題を経て、美来はさらりとレックスの話題を上げた。


「松田くんってやっぱり忙しいの?」


「そうですね……。暇そうに休憩されている姿とかは見た事ないです」


 月の無難な返事に美来はテーブルの上に両肘を突いて手の上に可愛らしく顎をのせた。


「そうだよねぇ。さっきの駅前広場の広告とかもそうだけど最近YouTube以外の仕事も忙しそうだもんね。CMとかテレビのバライティー番組とか。昔はあんまり見られなかったんだけど、最近は逆に元気かどうかが気になっちゃって目につく度にチェックしちゃって。いつの間にか完全に手の届かない範囲の有名人になっちゃって、ビックリ。さっきもキャアキャア人に囲まれちゃって凄かったなぁ。まぁ、昔もモテモテで凄かったらしいんだけど」


 美来はそれからレックスが高校一年生だった時の様子を語った。


「学校中の女の子が教室にわざわざ顔を見に来て騒いだり、バレンタインデーは大きな紙袋三つ分のチョコを貰ったりしていたらしいよ。すごいよね」


 月は話を聞いて首を傾げた。美来がするレックスの過去話はどれもこれも伝聞の形で語られる。


「遠野さんは松田さんと同じ学校に通っていたわけじゃないんですか?」


 高校時代の知人と聞いて、何となく同じ学び舎で過ごしているイメージを頭に描いていた月の疑問に美来はあっさりと答えた。


「私は平々凡々な女子高出身。松田くんは私じゃどう足掻いても入学出来ないような私立の進学校に通ってたんだよ」


 進学校と聞いて月は目を丸くした。レックスに馬鹿なイメージはないが、失礼ながら勉強が出来るイメージも持っていなかったのだ。


 軽い衝撃を受けている月に美来は更なる衝撃の事実を語った。


「その学校の中でも成績良かったみたい。でもって決まった部活に入らないけれど運動神経はそれなりに良くて、顔もスタイルも抜群で性格もいい。正に学校のアイドル、少女漫画のヒーローみたいだったらしいよ。……まぁ、私のせいで松田くん、その高校中退しちゃったんだけどね」


「……えっ?」


 思わず視線を上げて美来を凝視してしまう。すると美来は自嘲気味に笑って月を見返した。


「あれっ? 知らなかった? 松田くんが高校を中退しているっていうのはコアなファンなら本名と同じで知られている情報だと思っていたけど。知らないスタッフさんもいるのね。それとも、私が中退のキッカケになった事に驚いた? それなら納得」


「えっ、いや……」


 月は指摘された両方の点に驚いていたし、突然意図せず得てしまった情報の重さに戸惑った。


 それまで学校のアイドル的人気者だったレックスが学校を辞めてしまう原因とは何だ?しかも、その原因に他校生だった美来が関わっているとはどういうことだ?


 想像の範囲内にない事を無意識に考えてしまっている月を現実に引き戻したのは美来だった。


「私は当時の事をとても悔いているの。でも、この気持ちを伝える前に松田くんは高校を中退して、単身で引っ越しまでして行方が分からなくなっちゃった。YouTuberとして大活躍している事は知っていたけど、会おうとしても会う手段がずっと見つからなかった……。謝ったところで過去が変わるわけないし、今後もどうなるかなんて分からない。でも、私の事はどうでもいいの。ただ、私が謝って、松田くんが知らない事実の裏側を伝える事で、少しは心を軽くしてあげられるかもしれないって、それだけなの……。きっと忘れられるような事ではないから」


 美来が喫茶店内の遠くに向けていた視線を月に戻した。


 その表情は途轍もなく真剣だった。


「松田くんの為になるかもしれない事でも、協力はして貰えない?」


 レックスの為になること。そう言われると断りの文句が直ぐに出て来なかった。


 何が過去に起こったのか全く知らない自分、レックスと美来の関係性を知らない自分、レックスの心の内を知らない自分。どの月もレックスにとっての最善を判断する事が出来ない無力な人間だった。


 イエスもノーも選択出来ない。


 レックスの為に出来る事なら何でもやろう。例えタブーに踏み込むことによって自分が嫌われてしまったとしても、自分が行動することによって、レックスが背負っている重たい何かが少しでも軽くなるなら、それでも良い。そう思えた。それ程、月は自分の名前を少しでも受け入れる事が出来るようにしてくれたレックスに感謝していた。


 にもかかわらず、最初の一歩を踏み出すべきがどうかも情報不足で選べない。そんな自分が情けない。


 月は机の下で両拳を握り込んで、唇を噛んだ。


 そんな時、美来が自らの鞄をガサゴソと漁り出し、仕事用と思われるシンプルなメモ帳とボールペンを取り出した。それにさらさらと十一桁の数字を書き込み、それを月の前に差し出した。


「私のプライベートな連絡先。協力してくれるかしてくれないかは今すぐに決めてくれなくてもいいの。だから、少し考えてみてくれない? それで、どちらか決まったらこの番号に連絡して。いつまででも待っているから」


 美来の真摯な声色と表情は気持ちに迷いがある月の心の一部を刺激して、そこから脳に信号を送らせた。


 気が付いた時には月はふらふらと手を伸ばし、そのメモを受け取ってしまっていた。



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